追悼文 宇澤弘文


葬儀・告別式が終わったときに合わせて、宇澤弘文が『毎日新聞』に宇井純への追悼文を寄稿した。ご本人の了解を得て、全文を紹介する。


宇井純さんの訃報に接して

宇井純さんが亡くなった。宇井さんは真の意味におけるリベラリズムの理念が貫かれる社会の実現を求めて、きびしい闘いをつづけてきた。私たちの世代を代表し、先導してきた倫理的、理知的、そして人間的な意味における巨人である。

宇井さんは東大で応用化学を専攻した。卒業後直ちに、ある化学会社に勤めた。間もなく東大に戻り、しばらくして工学部助手になったが、その頃から、水俣病が大きな社会問題となりはじめた。チッソが永年にわたって、水俣湾、さらには不知火海全体にたれ流した膨大な量に上る水銀によって、多くの人々が脳神経中枢を冒され、言語に絶する苦しみに悩まされつづけてきた。宇井さんは戦後の窮乏を象徴する食料不足をもっとも効果的に解決する科学として応用化学を選んだが、その応用化学が神聖な海を汚し、魚を侵し、多くの人々の健康を冒し、その生命を奪い、やがては地域社会の崩壊すら招きかねないことを知って、大きなショックを受けた。と同時に、日本の社会に根強く残っている社会的、経済的、因習的差別につよい憤りを覚えて、数多くの公害反対運動に携わり、常に住民の立場に立って、行政や企業のあり方を厳しく追求しつづけた。
東大紛争のときも、宇井さんは全共闘の学生たちが提起した問題に対して誠実に対応し、同時に東大における教師、研究者のあり方に対しても厳しい批判を突きつけた。紛争後、東大が倫理的、学問的に自滅の道を歩み始めてからは、教室を一般に開放し、自主講座「公害原論」を開講して、公害問題を一つの学問的領域として確立するために大きな貢献をした。全国各地の公害反対運動の指針を与え、住民運動のあり方に大きな影響を及ぼした。沖縄大学に移ってからは、沖縄の美しい自然を保存し、平和を守るための運動に積極的に関わってきた。
今、アメリカの産業的、金融的資本が市場原理主義を武器として、世界の多くの国々の自然、社会、文化、そして人間を破壊しつつある。市場原理主義は、儲けることを人生最大の目的として、倫理的、社会的、人間的な営為を軽んずる生きざまを良しとする考え方である。宇井さんが、その生涯を通じてもっとも嫌悪し、闘ってきた、人間として最低の生きざまである。この市場原理主義が、小泉政権の下で、日本に全面的に輸入され、社会の非倫理化、社会的靱帯の解体、文化の俗悪化、そして人間的関係自体の崩壊をもたらしつつある。この危機的状況の下で、宇井さんを失うことの損失は大きい。痛恨の情を押さえきれない。しかし、宇井さんは、高い志を守りつづけて、崇高な一生を送った。そして紀子夫人を始めとするすばらしい家族に看取られて、しずかにこの世を去った。宇井さんの志を継いで、日本をもっと人間的、自然的、社会的に魅力あるものに変えてゆくために力を惜しまない人々が必ずや大勢出るに違いない。宇井さん、どうか心安らかに眠ってください。  
合掌。
【毎日新聞2006.11.16夕刊掲載】
写真右上:お清めの後、再度別れを告げる宇澤弘文さん

写真:
『環境と公害』創刊25周年のパーティで談笑する宇澤弘文さん(左)と宇井純さん
=2000年10月21日



追悼記 先に逝った宇井 純へ…………西村 肇

マスコミが報じたほとんどの追悼文や追悼記事は、いわば宇井純の虚像というか、彼の足跡・業績の表面を描いたものが多かった中で、唯一と言ってよいほど“辛口の追悼文”が西村 肇のそれだ。それは宇井純と至近距離にいた人間だからこその表現と言えよう。ご本人から転載許可を得てご紹介する。


肝心なことになると、君は常に1、2年早い

近くで見た君の30歳前半の仕事は最高だった

宇井君,また君が先に行ってしまったな.君と僕は不思議なほど同じときに同じことを同じようにやってきたのだが,肝心なことになると君のほうが1,2年は早い.今度もそうではないかという気がする.そんな僕は君の追悼記を書く気にはならないのだが,数十年まったく同じ環境を生きて,至近距離で君を見てきたほとんど唯一人の人間として,われわれをとりまいた歴史について証言を残さなければと思っている.歴史といっても年代記ではなく,大きな歴史の前に人はなぜそう動いたか,まわりはどう感じ,何をしたか,社会と人間心理を至近で見た歴史だ.ところがこういう歴史が少ない.時代を共有しない人が時代と人を理解するのにはぜひ必要なのにだ.
写真:近くで見ていた宇井の30歳代の仕事は最高だったと語る西村肇さん
=2007年1月31日、自宅で


これを強く感じたのは,毎日新聞に出た宇澤弘文氏の追悼文を見たときだ.彼の理想主義を結晶化した感動的な葬送の辞だが,「リベラルな社会を目指した倫理的,理知的,人間的巨人」という形容には,彼を近くで知る人は少なからず戸惑いを感ずると思う.でもすぐそれは,君を少し離れて見たときの姿として納得したと思う.人は近くで見た姿と遠くで見た姿とどちらが本当かわからないからだ.でも僕はそれで納得はしない.遠くで見た姿とは,君が日本中で有名になった40歳以後の姿だが,君の希有の能力が発揮された最高の仕事は,それを知る人が周囲に数人しかいなかった30歳前半の仕事だからだ.
そこに居合わせたのが僕だ.二人は同じ年に理Tに入っているが相知ることはなく,僕が化学工学の助手として1962年大学に戻ってから,大学院でポリマーの流動特性を調べていた君とよく一緒に勉強した.当時,研究者は小型試験機で特性を調べていたが,君は現場主義だから,大学に実際のスクリュー押出機を据えてこれでデータをとった.誰もやらないことだから,論文はすぐ米国の専門誌に受理された.大変なのは試料のポリマーだが,君はメーカーから不合格品ということで大量を無料で手に入れていた.
このころ,君は毎月1週間は学校に来なかった.聞くと,大阪や神戸の押出し加工業者の技術指導に行くという.これらの業者は極貧の小企業で,中国人,韓国人が多く,セールスマンさえ近づかなかったが,君は平気だから指導を頼まれて1〜2万円の謝礼をもらっていたようだ.3軒まわると4〜5万円だが,当時助手の僕の給料が2万円ちょっとだから,奥さんとの生活を支えて余りが出る.この余りで,毎月水俣に地方新聞(熊本日日)を集めに行くという.当時はコピー機がないから資料が表裏なら現物を2部買って台紙に貼り付けるしかなかった.注文しようにもファックスはなく,電話もほとんどなく,出向くしかなかった.
何をまとめているのか聞くと,水俣病の悲惨なことは話さず「悲劇あり,喜劇あり,とんでもねえ物語だ」とだけ言っていた.それが僕にはピンとこなかった.水俣病の問題は,1956年の公式発見以来,その原因について社会の関心をひいてきたが,1959年,有機水銀が原因とわかって一段落し,社会の関心をひかなくなっていた.社会の関心は,総資本と総労働の対決としての1959年の三池炭坑争議(※1)1960年の安保闘争に集中していた.地元水俣の関心さえ,1962年は三池争議の再来であるチッソの争議に集中しており,水俣病のことなど考える人はなかった.君が水俣を歩きまわっていたのはこんなときだった.

こうして1963年3月と10月の「技術史研究」に富田八郎(とんだやろう)の筆名で,「水俣病(1),(2)」があらわれた.当時の印象は「ただ長い,どこが技術史研究か」ということだったと憶えている.当時の「技術史研究」は,タイプ印刷のサークル機関誌だったが,そこに突然100枚以上の原稿があらわれ,その内容が,技術とは縁のない病状,病名,医学論文の全文引用だったからだ.
しかし,その後自分で水俣病を本格的に研究しだして,己の不明を深く恥じた.ショックと共に感心した点が三つある.まず目次を見るとわかることだが,問題の全体像をおさえる君の知識のひろがりと構成力の見事さだ.つぎに,膨大な医学論文,化学論文を精密に検討した上で引用し,適確な評価を下す君の理解力と判断力だ.最後に,地道に誠実な努力をした研究者に対する人間的な共感と尊敬の素直な表現だ.研究者のあるべき姿を示したつぎの言葉は印象的だ.
「この小文(武内の論文)を読む諸氏が,筆者(宇井)と同様に,一つ一つの研究結果を検定して自分の結論を出していただきたいと考えるからである.それだけの手数を省いた手軽な結論を求める態度は科学とは無縁のものであろう.更に比較的因果関係の単純であった水俣病の場合でさえ,公害の原因追求はどれだけ困難なものであったか,今後はどれ程のエネルギーを要するかについて考えてほしい」
このときの君の態度こそは,まさに宇澤氏のいう「理知的,人間的」なものだった.しかしこの態度は1968年の「公害の政治学」ではすこぶる弱くなり,WHOから帰ってきて東大で公開自主講座の「公害原論」を始めると完全に消えてしまい,ついに戻ることはなかった.なぜなのだ.

でもここまでなら君と僕の近さの本質を語ったことにならない.また,当時の社会心理を語ったことにならない.それらを語る上で大事な点は,二人とも生粋の左翼だということだ.当時,左翼とは,利己主義を否定し民衆のために尽くすという意味で,能力を自覚している人間にとって,絶対の倫理的要請だった.勉強も進学も研究も自分のためではなかった.新しい世界を実現するためだった.こう思ったとき,どんなスピードで膨大な勉強ができ,それがしっかり頭に入るものなのか,自己中心主義で生きている人々には想像も理解もできないと思う.理科系であっても,マルクス,エンゲルス,レーニンの主要著作は1〜2年間で読破した.その同じ気構えで,数学,物理をやったその学力は,今の同じ世代とは比べものにならないぐらい高かった.
「水俣病」の目次を見ると,研究の経験がないにもかかわらず,問題の全貌を見渡す識見の高さに今の人は驚かされるかもしれないが,マルクスを熟読し,資本論の体系で物を考える当時の左翼の仲間にとっては,この程度のことは珍しいことではなかった.むしろ水俣に毎月出かけて資料を集め,医学論文を仔細に検討する態度こそ珍しかった.そもそも社会が忘れてしまって注目しない問題を地道に掘り起こしていく態度こそ珍しかった.ここで君を動かした原動力は,ときどき君がもらしていたように「このとんでもない話の全貌を明らかにすれば,世の中は動く」という確信だったと思う.
当時の倫理的左翼人の特質は,自分の足で立ち行動する大人だったこと,そして志のために動く人を不利益をかえり見ず助けることだった.500ページにおよぶ「水俣病」も左翼仲間の力なしには日の目は見ないはずだった.これははじめ「技術史研究」に出たが,これは君と僕がその会員だった左翼技術者の研究サークル「現代技術史研究会」の機関誌だった.会員250人ほどの会費で運営されるその雑誌に,君がいきなり100枚,150枚という原稿を持ち込んだのだ.2回までは出したが,あと10回は続くというので,とても無理,断るべきという意見が出て議論が険悪になったとき,近藤完一が「おれが何とかしてみる」と引き取った.
近藤完一は当時,合成化学労働組合連合会(合化労連)の書記だった.委員長は左翼技術者の大物,太田薫だった.近藤は合化労連の機関誌にこれを連載できないかと考えたが,チッソ労組は連合会の主要メンバー,お客だから,それを真正面からたたく君の原稿をのせるのには絶対に反対がある.そこで近藤は太田薫に決断を仰いだ.その結果が連載の実現だった.

最後になるが,君と僕との関係を振り返ってみたい.君と僕は仕事も思想も至近の距離にいながら打ち解けて話したことはない.それは左翼でも反対するものが違っていたからだ.僕は徹底して反資本主義,反米だったが,君は日本共産党をたたくという意味で,徹底した反代々木(※2)だった.各人の思想は一貫しているわけではない.僕ははじめ反米・親ソだったのに,ソ連を個人旅行して,その官僚主義を嫌悪して反ソになった.しかし資本主義を好きになってはいない.君もしだいに変わったように見える.人知れず「水俣病」を書いていた若い宇井と,海外にいて東大紛争を避けながら帰国後は「反権力」と「東大解体」の象徴となった宇井とは違う.その宇井が,自分が富田八郎だと名乗らなかったのは,人格的な違和感があったからではないか.これ以上はそちらに行って話そう.



※1 三井三池争議(1959?60年):職場活動家の大量の指名解雇による経営主導権確立を図った三井三池炭坑で起こった労働争議.財界が三井鉱山を全面支持し,日本労働組合総評議会が三池労組を全面支持したため,総資本対総労働の対決ともよばれた.

※2 日本共産党の本部が代々木に所在することから,各分派(セクト)のうち共産党と関係の近い日本民主青年同盟(民青)などを「代々木系」,共産党と対立する新左翼系のセクトを「反代々木系」とよぶことがある.日本共産党は1950年,同党衆議院議員が占領軍命令で追放されて以後,中国共産党の影響下に武装闘争へ転換したが,結局,壊滅状態になった.1961年,現指導部が主導権を握り議会主義に戻ったが,革命への展望がないその運動に失望した学生たちが新左翼となった.
【出典】 東京化学同人『現代化学』No.431/2007 2
写真:西村追悼記が掲載された2007年2号



追悼文………………菅井益郎


家族以外で、生前の宇井純と最後に会話した一人である菅井益郎(国学院大学教授)が『エントロピー学会だより』の「えす」に寄稿した追悼文を了解を得て転載する。


「公害には第三者はない」

宇井さんが私たちに遺したことばの意味を噛みしめる

昨年11月11日未明、宇井純さんが亡くなられた。満74歳。多くの宇井さんを慕う人々にとって、それは衝撃的なニュースであったに違いない。いつも皆を励まし、元気に現地を飛び回っていた宇井さんが亡くなるなんてとても信じられなかったと思う。私自身前々日の夜、病室に伺った時「宇井さん治ったらまたいっしょに飲みましょう」というと、「うん!」とはっきり応えていられたので、まだまだ大丈夫だと思っていたのである。痰がつまってぜいぜいされていたので、「苦しいですか」とたずねると、「うん、苦しい」とおっしゃるので、看護士さんにとってもらうと少し楽になったらしく、話をすることができたのである。意識もしっかりしていられたし、まさかあの時の会話が最後になろうとは思ってもみなかった。
写真:編集を手伝った『Industrial Pollution in Japan』にも思い出はいっぱいあると話す菅井益郎さん

いろいろ聞いておくべきことがあったのであるが、もう永遠にお聞きすることはできない。その一つに宇井さんの父方の祖母が「谷中村から来た」と知ったとき(その頃は水俣病に全力で取り組まれていたときであるが)、どのように思われたのか、その後の生き方との関係はいかなるものであったか、ということである。近くにいながらついに詳しい話を聞きそびれてしまった。宇井さんは最初に勤めた日本ゼオンが古河財閥の直系会社であることは話されていたが、ことさらに自分に鉱毒被害民の血が流れているなどとおっしゃったことはない。しかし宇井さんには多分特別の思いがあったのであろう。
宇井さんのことを書き出したら止まりそうにない。1980年に宇井さんが国連大学のプロジェクトのひとつ「日本の公害の経験」を引き受けて来られ、その手伝いをすることになり、よく国内の公害調査に出かけた。星野芳郎さんや先年亡くなった飯島伸子さん、東海林吉郎さん、私も含め5人のプロジェクトで3年ほど続き、その後も海外の学会やシンポジウムにも何度か一緒に出かけた。沖縄から戻られてからは2年続けて国学院で特別講義を4回やっていただいた。感謝の申し上げようもない。宇井さんからたくさんのことを学んだが、一番はタイトルに書いた「公害には第三者はない」ということである。それは東大にいながら東大当局を批判し、御用学者の教授連中を批判し、第三者ぶった研究者を批判し続けた宇井さんの生き方でもある。字数大幅にオーバーであるが、宇井さんを讚えるには三宅雪嶺(雄二郎)の帝大批判のことばがもっともふさわしいので皆さんにも読んでもらいたいと思って引用する。

聞説らく、高島炭鑛に在勤する幾多の学士ありと。
借問す、兄等は半生何にの道を講じたるぞ、東京大学にありて果たして何にの義理を修めたるものぞ。

(三宅雄二郎「三千の奴隷を如何にすべき」、高島炭鑛坑夫虐待事件に関して、三宅が経営者の三菱を批判して『日本人』に執筆した文章。『明治文化全集』第6巻p.21)

三宅雪嶺の言を待つまでもなく、実に宇井さんこそ東大で教え研究するに値する人であった。この姿勢を私どもエントロピー学会のメンバーが受け継いでいけるかが宇井さんの遺した最大の課題であると思う。
【出典】 エントロピー学会 『エントロピー学会だより「えす」』 No.142
写真:本棚の前の写真は国連大学の調査で水俣から土呂久を訪れたときの写真。1981年8月28日、石牟礼道子さん宅(だったと思います)。左から林武さん(アジア経済研究所調査役、中東地域が専門、国際連合受託「日本の経験」プロジェクト・コーディネータ、宇井さんがアジア環境会議の議長をしていてインドかどこかの会議で知り合って意気投合したと聞いています)。菅井、(その前の女性は思い出せません、石牟礼さんか水俣の方に聞けばわかるでしょう)宇井さん、石牟礼道子さん、東海林吉郎さんです。【菅井 記】