<小嶋家の系譜 3=母・久>

優雅で理知的。素晴らしい女性の典型



宇井久(ひさ)―旧姓 小嶋久。小嶋時久の長女で、後に宇井俊一と結婚し、〈宇井純〉の母となった。

明治に生まれた女性としては最高学府の教育を受け、4人の子を産み、夫同様、教員を生涯の仕事とし、多くの人たちに惜しまれて96歳の長寿をまっとうした。
久のことについて尋ねた多くの関係者は、口を揃えたように「優雅で、理知的で、素晴らしい女性だった」との答えが返ってきた。「イメージとしてはまるで観音様のよう」という賛辞さえ聞かれた。
〈純〉を生み、育て、母親として最後まで長男・〈純〉の健康を心配して、認知症を発症して旅発っていった久について、「そのやさしさは〈純〉に引き継がれた」という証言を含めてまとめた。

◇母・久   プロフィール
 1907(明40)/10/5 小嶋時久-トウの長女(第一子)として栃木県
にて出生
 1919(大 8)/3 12歳 東京・新宿区戸山小学校卒業
 1924(大13)/3 17歳 東京府立第五高等女学校卒業
 1928(昭3)/3 21歳 東京女子高等師範学校卒業
 1928(昭3)/4 母校・第五高等女学校に就職
 1931(昭6)/5/28 24歳 宇井俊一と結婚 京都へ移転
 1932(昭7)/6/25 25歳 長男・(第一子)を東京で出産
 1934(昭 9)/3   27歳 茨城県土浦市に移転
 1935(昭10)/4   28歳 茨城県常陸太田市に移転
 1935(昭10)/8/19 次男・倬二(第二子)を常陸太田市で出産
 1938(昭13)/4 31歳 茨城県水戸市に移転
 1939(昭13)10/20 32歳 長女・幸子(第三子)を水戸市で出産
 1942(昭17)/4/1 35歳 次女・美知代(第四子)を水戸で出産
 1944(昭19)/ 8   37歳 夫・俊一の出征で茨城県古河市に移転(3ヶ月)
 1944(昭19)/9 37〜40歳 栃木高等女学校に家事科教員として就職
  〜1947(昭22)/3
 1946(昭21)/6 39歳 夫・俊一復員 栃木県壬生町に合流
 1947(昭22)/6 40歳 栃木県立女子高校退職  農業に従事
 1950(昭25)/4 43歳 栃木県立女子高校に勤務
  〜1961(昭36)3
 1962(昭37)/4〜12 55歳 宇都宮女子高校に勤務
退職後、県立鹿沼高校・真岡高校・私立作新
学院などで非常勤講師
 1993(平5)/7/1 86歳 「のぞみホーム」に入所
 2003(平15)  /10/19             96歳 死去

小嶋時久−トウ夫妻の第一子・長女として生を受けたのは1907(明治40)年10月5日。戸籍上は、東京・赤坂区青山北町の住所で出生届が出されているが、実際にはトウが当時の栃木県北押原村(現 鹿沼市奈佐原町)の実家に戻り、産んだようだ。



明治の女性としては最高学府に進む

父・時久が26歳のときの子供だったが、その頃、時久は日露戦争から無事帰還し、”気合が入った軍人“として活躍しはじめた時期だった。賢かった久は向学心の強い両親の庇護の下、当時の女性としては最高学府にまで進んだ。

東京女子師範大学(女高師)は現在のお茶の水女子大学になるまで“女東大”と言われ、奈良女子大とともに、女子の国立大学は2校だけで、その門は狭かった。1928(昭和3)年3月、同校を卒業すると、中等教員を養成する女高師の当然のコースとして第五高女(現 都立藤富士高校)に家庭科の教師として就職した。久の30数年に及んだ教員生活のスタートなった。



弟から持ち込まれた“縁談”相手が夫・俊一さん

教師業も3年目。教師としていよいよ充実した教育が出来始めた頃、久に“縁談”が持ち込まれた。持ち込まれるとは、普通、親戚とか上司からとか第三者がこの縁は良縁だからと見込んで持ってくるのものだが、なんと実の弟からだった。弟・忠久は1歳下の1908(明治41)年生まれ。栃木高校での「同級生で親友の宇井俊一というナイスガイがいる。姉さん、彼と結婚してくれなければ姉−弟の縁を切るよ」と、半ば脅しながら俊一を押し付ける。一部関係者によると、久にはそのとき、秘かに思いを寄せている男性がいたらしい。しかし、弟の強引とも言えるこの“押し付け縁談”に傾いていく。二人が忠久によって紹介されてからはこんどは俊一が積極的になったことが考えられる……。

写真:60年後も夫婦の絆は強かった(左)、旅行先で幸せそうな久さん(右)
=1991年10月17日、白石蔵王で  【提供:宇井修さん】

当時、俊一は姉・チサがいた岡山の六校から京都帝大(現 京都大学)に在学中の学生であった。したがって、彼らは学生結婚ということになる。俊一の京都帝大→東京帝大院入学にともない生活の拠点は東京に移った。
≫リンク連絡≫≫ チサ ⇒ 「家系図」 に。
そして、2年後の1932(昭和7)年6月5日、我らが主人公、〈宇井純〉が誕生。小嶋・宇井両家にとって初孫ゆえに“大歓迎”を受け、「下をも置かぬ特別扱い」(吉原春さん)をされることになった。

ただ、この後、俊一の就職先が土浦(高女)に始まり、常陸太田水戸と転々とし、その間に第二子二男・倬二(たくじ)、第三子長女・幸子(さちこ)、第四子二女・美知代(みちよ)が生まれ、1944(昭和19)年8月には俊一が出征することになり、水戸から俊一の実家、古河市に疎開したものの3ヵ月で、こんどは栃木県壬生に移り、東京大空襲を受けた父・時久、母・トウと“合流”し、開拓生活が始まった。
写真左:まだ子供は2人の時代の一家4人の貴重な写真
写真右:単独撮影では30歳前の若さが溢れている    
=ともに1931年頃、遊びにきた大久保の家で    【提供:吉原春さん】


激戦地に赴任したため、俊一の生還には悲観的な見方もあったが、翌年、無事復員し、ようやくにして貧しいながら一家4人が共同生活を始めることになり、これにともない、久も1947(昭和22)年3月をもって長らく続いた教員生活に一応の終止符を打つことになった。


 
「宇井家は群を抜いて知的な家庭だった」

そんな宇井家と、そして小嶋家とも1945(昭和20)年ごろから“おつきあい”している女性がいる。松本宏子さんだ。旧姓・松崎宏子さんの父・松本松次郎も職業軍人で小嶋時久同様、陸軍少将で退役している。2人は軍隊時代から「栃木県出身」ということで知り合っていたようで、時久が東京から壬生に疎開し、その後、松崎一家が移住してきたため、1946(昭和21)年7月以来、松崎一家と小嶋・宇井両家の家族ぐるみの付き合いはますます濃厚になったという。ざっと半世紀以上の付き合いということになり、筋金入りだ。

その松崎宏子さんが「久さん」のことについて、以下のように話してくれた。
写真:立て板に水のように半世紀の付き合いを語る松崎宏子さん=2008年3月20日、壬生で

 まず、偶然とは言え、私の母と久さんが1年違いではあるんですが東京の小学校が同じだったんです。父親が軍人同士というつながりだったのでしょうが、それが20年近くたって、こんどは栃木の壬生と言うピンポイントでお会いするんですから、やはり何かの糸で結ばれていたのでしょうね。
  そして、母はいつも久さんについて「あんなに美しい日本語を話す人はいない」と事あるごとに言ってました。こんなエピソードもあります。
   
 当時は下水道がいまのように完備されてませんでしたから、し尿の汲取り屋さんがきたとき、久さんの話す言葉があまりにもご丁寧なので目をぱちくり、口をポカンという感じだったらしいんです。それを見た俊一さんが「相手を見て話しなさい」と言ったそうです(笑い)。でも、ご本人は「壬生に来て言葉が汚れてしまった」と言ってたそうです。

 それと、無類のお料理上手でした。
 1963(昭和38)年の1月の正月休みに幸子さんが旦那様と赴任地の広島からカキを携えて帰ってこられたときにお呼ばれしました。久さんが土手鍋を作ってくれ、私は生まれて初めてカキ鍋だったわけですが、土手鍋なる料理をいただき感激したことを覚えています。
 あとは、俊一さんのものすごい蔵書にも驚かされました。壁いっぱいの本棚にぎっしり本がつまって
 いたんですから。本のほかには音楽が日常的に家の中にありました。そういう意味で、群を抜いた“知的なご家庭”でした。

年月を初め、やはり元中学の教員だった松崎宏子さんの記憶力にはカブトを脱ぐが、小嶋・宇井両家のシチエーションを適切に表現してくれていることか。

料理の話しをもう一つ。
宇井の本家筋にあたり、〈純〉が眠っている鮭延寺初め墓守をしている甥の宇井孝次さん(古河在住)にも“久おばさん”の思い出は食べ物だという。孝次さんは栃木高校の野球部で活躍した「有為の血筋では珍しい」人で、時久―俊一―〈純〉の後輩にあたるが、ある夏休みの経験をこんな風に話してくれた。

 壬生のおじさん(俊一)のところに遊びに行き、翌日学校で野球の練習があるので久おばさんが弁当を作って持たせてくれました。学校へ持っていってすぐ開けたら、これまで見たこともない見事な弁当で、
 一緒に覗いた友達が早く食べようぜと言い出し、結局、朝のうちに食べてしまいました(笑い)。とにかく、見た目もきれいで、味もおいしかったことはいまも忘れませんよ。
写真:菩提寺の宇井家の墓守を欠かさない宇井孝次さん
=2008年1月12日、古河・鮭延寺で


以上はほんの一例だが、とにかく久を悪く言う人は皆無で、取材するうちに「もしかして観音様ではあるまいか?」と思えてきたほどだ。



夫・俊一が開設に参画したホームで最後は過ごす

そして、「DNA」ということで言えば、「久のやさしさは〈純〉に引き継がれている」(吉原春さん)という分析があった。〈純〉が本当に「やさしかった」かどうかは後の章で触れたいが、特徴的なことであることは間違いないだろう。
写真:認知の始まった久さんだが笑顔が絶えなかった
=1998年8月17日、「のぞみホーム」で


そういう久だったが、亡くなる10年ほど前に認知症が出始め、夫・俊一が開設に一役買った小規模多機能ホーム「のぞみ」に最初に入居し、かつ、献身的な介護を受けたものの、2003(平成15)年10月19日、96歳という長寿をまっとうした。