まず、偶然とは言え、私の母と久さんが1年違いではあるんですが東京の小学校が同じだったんです。父親が軍人同士というつながりだったのでしょうが、それが20年近くたって、こんどは栃木の壬生と言うピンポイントでお会いするんですから、やはり何かの糸で結ばれていたのでしょうね。
そして、母はいつも久さんについて「あんなに美しい日本語を話す人はいない」と事あるごとに言ってました。こんなエピソードもあります。
当時は下水道がいまのように完備されてませんでしたから、し尿の汲取り屋さんがきたとき、久さんの話す言葉があまりにもご丁寧なので目をぱちくり、口をポカンという感じだったらしいんです。それを見た俊一さんが「相手を見て話しなさい」と言ったそうです(笑い)。でも、ご本人は「壬生に来て言葉が汚れてしまった」と言ってたそうです。
それと、無類のお料理上手でした。
1963(昭和38)年の1月の正月休みに幸子さんが旦那様と赴任地の広島からカキを携えて帰ってこられたときにお呼ばれしました。久さんが土手鍋を作ってくれ、私は生まれて初めてカキ鍋だったわけですが、土手鍋なる料理をいただき感激したことを覚えています。
あとは、俊一さんのものすごい蔵書にも驚かされました。壁いっぱいの本棚にぎっしり本がつまって
いたんですから。本のほかには音楽が日常的に家の中にありました。そういう意味で、群を抜いた“知的なご家庭”でした。 |
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