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父・時久、母・トウへの追憶   吉原 春 
 

頼りにしていた兄・三郎が一昨年、〈純〉の後を追うように逝ってしまい、6人いた兄弟はとうとう私ひとりになってしまいました。私自身もすでに87歳、このところ病気がちで記憶力も急速に落ちています。気力を絞って、父・母の思い出をお話したいと思います。

父・時久は旧「稲葉村」(現 壬生町下稲葉)のありきたりの農家の三男として、母は旧「北押原村」(現 鹿沼市奈佐原町)の庄屋の家の二女として生まれました。その意味では、ともに栃木県北部に根付いていた家に生まれたわけです。当時、田舎では結婚に対しては家の格などが言われましたので、両家の格は少し違いましたが、トウの父親が知り合いの負債の保証人を引き受けたばかりに没落してしまっていたので、二人の場合、そういう支障はなかったようでした。大昔のことはわかりませんが、私の知る限り“栃木の農村の血”同士の結婚ということが言えます。

父・時久は職業軍人の道をえらびましたが、思想的に「右」とかいうことでなく、旧制中学への進学をなんとか果たしてからは、「これ以上(上に進むの)は無理」という親の気持ちは納得していたようで、自然の流れとして軍人の道に入り、それでも可能な限り学びたいということで陸士→陸大というコースを選んだと思っています。
写真:時久のDNAは〈純〉に明らかに引き継がれているという吉原春さん

そういう意味では、置かれた環境に逆らわないというか、流れに従うような素直なところがあったのではないでしょうか。その点では〈純〉と少し違うかもしれませんね(笑い)。

〈純〉は初孫でしたので、とにかく可愛がりました。それはもう「溺愛」と言ってよいと思いますよ。実は、私も父からは溺愛されて育ちました。末娘であったことが最大の理由でしょう。そういう意味では私と〈純〉は叔母−甥の関係でしたが“ライバル”でした(笑い)。もちろん、2人の間にはまったくそういう意識はありませんでしたが……。

一方、母・トウは父と間に6人の子供を授かりましたが、元来あまり体調がすぐれない人だったため、父や長女・(〈純〉の母)が弟妹たちの面倒をみるという形でした。
ただ、数字についてはめっぽう強かったです。たとえば、幸子(〈純〉の上の妹)さんがよく覚えているようですが、銀行の預金の利子がいくらいくらのはずだから下ろしてきてと言われて、宇都宮の銀行へ行って下ろすと、ぴったりその通りだったとか(笑い)。その類の話はたくさんありました。

戦後、開拓団に加わって苦労するわけですが、あれこれみんなに指示を出し、それらは適切な指示ですので父も素直に従っていました。そういうことを捉えて、ちょうど日本に占領軍を率いて来ていたマッカーサーに例えて「トウさんは女マッカーサーだ」と半ば揶揄、半ば称賛の意味を込めて言われてました。もちろん、陰でですが……(笑い)。
写真:吉原さん(左)と長女・弘子さんと中村さん夫妻

軍人って、将校になると一見派手ですが、戦前は世界不況のあおりもあって、内実は厳しい暮らしぶりでした。来客はひっきりなしでしたから、台所はなかなか大変だったのではないでしょうか。母・トウは数字に強いという持ち味をしっかり発揮して家計をやりくりしたということでしょう。

今回は「DNA」がテーマだそうですが、結果論かもしれませんが、父と〈純〉は小さい頃から口が達者で、人前で演説することが好きだったところなどはよく似てますね。
それと、性格が生真面目でしたね、祖父も〈純〉も。遊びがないといいますか(笑い)。そのへん、〈純〉にはしっかりとDNAが引き継がれているのではないでしょうか。

あとは、父も口では孫と私以外には厳しいことを言いましたが(笑い)、決して手は上げなかったですね。〈純〉も紀子さんはもとより子供たちにも手を上げたことはなかったのではないでしょうか。公平に見て、父・時久のDNAは久を通して明らかに〈純〉に継がれていると思います。

*プロフィール*
  時久−トウの三女として1921(大正10)年、東京で生まれる。
  東京女子大学卒業後、20年にわたり中学の数学の教師を務める。
  趣味の碁では日本棋院一級の資格をもつ。