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母・久を想う   加藤美知代 (二女)

岐路に立ったときの「決断」は常に母がした……

母が私を産んでくれたのは1942(昭和17)年でした。父・俊一との間に授かった4人目で末っ子でした。
その2年後には父が出征しましたので、母は家庭科の教師を続けながら女手一つで4人の子供を育ててくれました。当時としては、よくあったケースとはいえ、時には心細いことも多々あっただろうと頭が下がります。

友人などからは「あなたがお母さんに一番似ている」と言われますが、「似ている」のは外見なのか、中身というか性質なのかは定かではありません。物心つく前から末っ子の“強み”もあって、常に母の傍についていましたので、ある意味では父以上に母の性格を知っていると言ってもよいかも知れません。父が幸いにも激戦地に行きながら生きて帰ってきたときには私も4歳になっていましたので、多少の記憶も残っています。
写真:他人からは母親似と言われるという加藤美知代さん

母を「話し好きな人」と言う人と、「女性にしては口数が少ない」と言う人がいます。どちらも当たっているように思います。元来はおしゃべり好きな人でしたが、父と一緒になってから口数の多くない生活になりました。話が合わなかったのかもしれません(笑い)。私は両親が私達の目の前で討論のように話すのを聞いたことがありません。いつも一方的に父が話していたように記憶しています。あるいは、父とは次元の違うところで物事を考えていたのかも知れません。表面上は父の言うこと、言い分をほとんど通していました。父の口数が圧倒的に多かったので「言わせておけばよい」と胸のうちで考えていたのかも知れません(笑い)。

しかし、ここぞというとき、岐路に立ってどちらかの方向を選ばなければならにときは、決まって母が“決断”を下していたように思います。母が論理立てて父に話し、納得させ、あとは父が表面に立って物事を解決する―そんなパターンでした。父もまたそういう母を頼りにしていたようです。

姉・幸子が友人の評として聞かせてくれたことがありましたが、母は「芯が強く、理性的」だそうです。これは、前述した「口数は少ないけど、決めるときは決める」に似ているかもしれません。

母の教員時代の教え子だった人が何人かおられますが、異口同音に「宇井先生はとてもやさしかったです」とおっしゃいます。また、家庭科ということもあって、料理上手でした。時代が時代だけに素材は少なかったわけですが、でも、少ない素材を工夫していろいろ作ってくれ、恩恵にあずかった子供たちは何人もいました。

兄・〈純〉が母から受け継いだところは多々あると思います。
例えば、机の中など良く整理が出来ていたこと。母は父に比べれば物をずっとよく整理し収納していましたし、兄もそうだったと思います。
そうそう、甘いお菓子の好きなところも母親譲りです。母親が甘いお菓子好きだったので、兄も甘いもの好きになったのでしょう。他の兄弟は皆せんべいのような塩辛いお菓子が好きですが……。
写真:「兄・純が母から受け継いだ面は多々ある……」

「母から息子へ」という点で考えますと、もっとも大きな点は、ある一線を越えたところでは頑固なところです。兄は頑固さを家族の中で発揮していましたが(笑い)、母は表面では融通を利かせるものの、内面では頑固でした。表面的には出しませんでしたが、考えていることにとても頑固なところを感じさせました。この部分は孫達も感じていたようです(笑い)。

そして、母と接した多くの人たちが共通して抱いてくださる「やさしさ」は多分に“小嶋の血”ではないかと私は思っています。




*プロフィール*
   俊一−久の二女として1942(昭和17)年、 茨城県水戸市で生まれる。
宇都宮大学農学部卒業後、名古屋大学大学院農学研究科博士取得後、山口大学等で非常勤講師をし、沼津高専教授退職。現在は山口大非常勤講師。夫・昭夫氏は山口大学農学部名誉教授。