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“兵隊おじさん”の思い出  【甥の長男】 小島慶一
  

子供へのしつけは厳しかった


私たちが物心ついた頃、時久さんはすでに立派な軍人さんでしたので、親類の子供たちはみんなで“兵隊おじさん”と呼んでいました。誰が最初にそう呼んだかは分かりませんが、尊敬の念と親しみをこめた呼び方だったと思います。もしかしたら、「時久」という本当の名前を知らなかったかもしれません(笑い)。
写真:とにかく「しつけは厳しかった」と時久さんを語る小島慶一さん

こんな思い出があります。
私と弟と小学校時代の夏休みだったと思いますが、大森の家へ遊びに行きました。栃木の田舎から東京へ出て行くだけで子供にとっては大変な旅だったのですが、泊らせてもらう夜になって、「キミたちが寝る蒲団は押入れにあるから、自分で敷きなさい」と言われたんですね。決して裕福な農家ではありませんでしたが、蒲団は親が敷いてくれていて、それが当たり前だと思っていたので、カルチャーショックって言うんですか、とにかくびっくりしました。蒲団を敷くなんて至極簡単なことなのにやったことがないから出来なかったんです(笑い)。
そして、蒲団の次は蚊帳つりです。これも初体験でした。
もっとも、その前に夕食をご馳走になるとき、箸の持ち方を直されましたので、もうすっかり萎縮しているところに蒲団ですので、なんか寝付かれなかったことを覚えています。
子供心にも「しつけに厳しい人なんだな」と思ったことが今でも忘れられません。

翌日は本牧(横浜)に住んでいた忠久さんの家に招かれたんですが、奥さんの弘子さんがこれはもう自由奔放な人で、すっかり楽な気持ちになってしまいました(笑い)。

それにしても地元では「壬生の小嶋少将」と言われ、誰もが知っていました。

戦後、開拓団の一員として栃木に戻ってきたわけですが、時久大叔父だけでなく、グループの技術屋さんたちは揃って農業のことは知らなくて随分苦労されたと思いますよ。

私もすでに80を過ぎ、60年続けてきた農業の第一線は退きましたが、戦後、開拓農民のリーダーの一人として毅然としていろいろなことに取り組んでいた時久さん−兵隊おじさんの思い出は消えることはありません。
写真:奥さんのフジ子さん(左)も時久さんの思い出を語ってくれた
*プロフィール*
   1926(大正15年)2月12日、栃木県壬生町下稲葉で生まれる。
   約60年、農業に従事し、一昨2006年、第一線からは退いている。