各地で「宇井純を偲ぶ会」が………。

かつて、自主講座で宇井純の話を聞き、専門家から各地の市民運動家まで多彩な講師の話を聞き、“目からウロコ”状態になった人、最初は冷やかしのつもりがいつの間にかはまってしまった人、触発され故郷に戻り、草の根運動の道に入っていった人………多くの、様々な人たちが「自主講座 公害原論」でエキスを吸収した。そういう人たちが宇井純の死で衝撃を受けつつも、偲ぶとともに、単に偲ぶだけでなく、受け継いだ志をいま一度噛み締め、若い世代に継ごうという意味での「偲ぶ会」が開催されたり、計画されている。

昨年12月には、福岡・大牟田で早くも第1号の「偲ぶ会」が開かれた。世話人で大牟田市教育委員会手鎌地区公民館館長の藤木雄二さんがそのもようを写真とともにレポートしてくれた。


12月2日、トップを切って大牟田で開かれる

見学会:“公害のデパート”の現地を歩き直し当時を熱く思い出す

昨年12月2日に大牟田市で「宇井純を偲ぶ会」を行いました。第一部は午後2時より2時間かけて、大牟田公害の現地を見学し、午後4時30分より8時まで偲ぶ会と懇親会を行いました。

見学会 (参加者14名) は、公害のデパートといわれていた大牟田市の大気・水質・土壌汚染の代表的な現場を歩いて回りました。コークス炉跡→大牟田川排水路(イ)の8→大牟田川河口部の排水口→三池干拓のカドミ汚染田などを2時間、かけ足ではありましたが、現地に立ち当時の思いを熱く語りました。
写真左:
駐車場の壁部がコークス炉跡(コークスは石炭を蒸し焼きして製造していた。放水し、冷却するときに多量の煤塵が発生した。) 左の工場群は三井化学大牟田工業所
写真右:
大牟田川の排水溝(イ)の8があった所。(現在はコンクリートで遮蔽)現在の排水はパイプで終末処理場に導水・処理し、河口部で放水されている


写真左:
大牟田川河口部の排水口(河川でなく、海)
写真右:
亜鉛精錬の大気汚染と水質汚染によるカドミウム汚染田があった三池干拓地(現在は客土工事が完了し、農地として利用)


偲ぶ会:いま、改めて見直し、「公害の視点」を有明海に照らしたい

会場を「だいふく」に移し、「宇井純を偲ぶ会」を行いました。(参加者12名)

1分間の黙祷のあと、「宇井純を偲ぶ会」の呼掛け人 小野晃さんからあいさつを受けました。公害〇〇会 (こうがいまるまるかい、と読みます)の名前の由来から、大牟田公害との係わりについて記憶をたどりながら紹介されました。もう一人の呼掛け人であり、宇井さんと親しかった武藤泰勝さんからは「宇井さんと大牟田の公害」について語っていただきました。もうひとりは、東大工学部都市計画科衛生工学教室で学んだ坂口光一さんに「東大自主講座について」を語っていただきました。坂口光一さんは1973年11月12日の自主講座で武藤さんの講演「公害行政の現場から」を聴いて、以降5年間自主講座の運営に係わったそうです。3人の話題提供の後、お酒を飲みながら話も佳境にいり、偲ぶ会は終了いたしました。

東京から送っていただいた桑原史成さん撮影やひろせ事務所提供の宇井さんの写真は大変ありがたかったです。

呼掛け人の一人、武藤泰勝さん(日本随筆家協会エッセイスト 元大牟田市公害課職員 )はこもごも次のように話してくれました。

東大の自主講座を聴講し、ぜひ宇井さんに会って話を聞きたくなりました。面会を打診すると断られました。理由は、「役人とは付き合わない様にしている。」ということでした。しかし、どうしても会いたいという一途な思いで、神宮球場近くの都営住宅に押しかけていきました。
石炭人形をお土産に持参し訪問した時、宇井さんは、あれだけ断ったのにというシブイ顔。
それでも玄関先で、お話をせん限りは九州に帰りませんとネバリ、やっと2時間ほどお話をうかがうことができました。帰るときには、普通の役人と毛色が変わっとるなといわれました。それ以降、宇井さんとは大牟田川の水質の問題でいろいろとご指導を頂くと共に、ストックホルムの国際環境会議でもご一緒させていただきました。

 外国の学者から大牟田川の排水口の写真に対して、これは製造工程から工場の処理場に流入する写真かと聞かれたときに、それは処理水を大牟田川に放流している様子の写真だと説明した時の唖然とした表情を思い出します。また、日本人は憲法を持っているだろう。基本的人権の保障があるだろう。権利は行使して初めて権利となる。自分たちも権利を行使して、自分たちの町を復活させたという言葉が耳に残ってます。

私は今回の偲ぶ会が宇井さんの思い出話だけに終わるのではなく、あの時の自分たちの行動はいったい何だったのかということを、総括的な目で見直して、宇井さんとの関係を偲びたいと思います。現職の皆さんには、明日以降の自分の生き方、仕事の仕方に参考になることがあれば取り入れて欲しいと思います。私は「偲ぶ会」をそういう風に勝手に解釈しています。いま、公害は環境という言葉に置き換えられています。しかし、公害は終わったのでしょうか。公害の視点を有明海につぎ込むことは継続していきたいと思います。宇井さんのご冥福をお祈りいたします。
(藤木雄二)
写真左:
懇親会で、中央で宇井さんの写真を持つのが呼掛け人の武藤泰勝、左が小野晃。左前から坂口・小野・武藤・原田・藤木。左後から石田・大原・古賀・井形・下田・古賀の各氏(撮影のため写っていないのが黒岩氏)
写真右:
公害〇〇会 (こうがいまるまるかい)の運動を語る小野晃氏(中央)


写真左:
宇井さんとの係わりを語る武藤泰勝氏
写真右:
東大工学部都市計画科衛生工学教室で学んだ坂口光一氏。氏は1973年11月12日の自主講座で武藤さんの講演「公害行政の現場から」を聴いて、以降5年間自主講座の運営に係わったとか