大井今朝雄の、優しい人間学、優しい哲学、「リンク集」
今明かされる経営の神様、松下幸之助の真実の神!
大切な子供の死・愛する人の死・「神」は必ず貴方の心に宿ります
今までみんな、気が付かなかったのです?死者を忘れてしまったのです!
愛は神に成る!天国からの手紙!
松下 幸之助の愛(神)
94歳で天命をまっとうされた、「経営の神様」松下幸之助さんは
沢山の「愛」を歴史に残されました。1、親の愛・2、社員に対する愛・
3、お客さまに対する愛・4、取引先への愛・
5、社会に対する愛「PHP総合研究所」・6、国を思う愛「松下政経塾」
「愛」から視た。「経営の神様」「松下幸之助の愛」「松下幸之助の生涯」
を私、電機屋から視て書いてまいります。
経営の神様、松下幸之助さんの神は、息子幸一さんの神が宿る!
相手が有って自分が有る! 失いて知る我が子供神に成る!
2005年3月1日(火)松下幸之助の神(愛)書き込み開始
(松下幸之助さんに、息子、幸一さんの神が宿り、悟りを開くまでは、
「松下幸之助の生涯」松下電器作成HPを一部抜粋させて頂きました。)
1894年(明治27年)11月27日・(日清戦争のさなか)
和歌山県海草郡和佐村字千旦ノ木に生まれる。
父は松下政楠、母はとく枝という。
8人兄弟の3男末っ子の彼は両親に特にかわいがられて育った。
家が樹齢数百年はたつという大樹の下にあったところから、松下の姓はつけられたと言う。
村では小地主の階級にあり、かなりの資産家だった。
幼い頃の幸之助は、子守りと一緒に川で魚を釣ったり、
鬼ごっこをしたりして、平穏な日々を送っている。
そんな幸せな暮らしも長く続かず、幸之助はやがて波乱の人生を送ることになる。
1899年(明治32年)、父政楠は米相場に手を出して失敗。
松下家は一転して貧困生活を強いられることになった。
先祖伝来の土地も売却し、一家は住み慣れた千旦木をあとに和歌山市に移った。
明治32年、幸之助4歳の時である。
父は大阪に出稼ぎに行ったが一家の生活は大変厳しかった。
大阪の父からの進めで幸之助が満9歳の時、
大阪に丁稚奉公に出ることになったのです。
尋常小学校4年生の幸之助は、何のこだわりもなく、
奉公に出ることを承知したのです。
幸之助は満15歳で大阪電灯に入社するまで6年間、
丁稚奉公でいろいろな職業を経験する。火鉢店・五大自転車・桜セメント等、
この厳しい仕事のなかに、少しずつ商売に興味を持ち、
いろいろな経験を積み重ねているのです。
更に商売の基本を身に着けていくのです。
また、電気の事業にも大変強い興味を持ち始めたのです。
1915年(大正4年)9月4日幸之助は、井植 むめのとの結婚式を挙げた。
幸之助20歳、むめの19歳の時であった。
むめのさんとの結婚によって幸せな家庭を築き、
更に長女、幸子さんの誕生によって、益々幸之助の仕事に対する情熱、
事業経営に対する努力は、強く深く燃え上がってまいりました。しかし、
幼い頃に父の事業の失敗や、家族の貧乏な生活を経験し、
更に丁稚奉公で貧困な生活、厳しい他人の中での生活を、
身体で身を持って体験した幸之助は、全てに慎重に努力したとも言われております。
まさに「苦難の経験が幸之助の人生に大きな活力、力を与えたのです」
昔から「可愛い子には旅をさせろ」・「可愛い子には他人のめしを食わせろ」、
と言われますが、幸之助は苦難を見事にチャンスに変えたのです。
1918年(大正7年)3月7日、松下電気器具製作所を創立しました。
1926年(大正15年・昭和元年)10月幸之助(所主)は取引のあった、
山本商店の顧問役でありました、加藤大観僧侶と出会い、
和歌山の高野山(弘法大師、空海の開山寺)に始めてお参りに行っている。
私は幸之助さんはこの加藤大観僧侶との出会いによって、
この出会いは何か宿命的な出会いと思われますが、
加藤大観の最初の導きによって、息子、幸一さんの神(仏)に気が付いたものと、
確信を持ったわけで御座います。
この後の言葉が幸之助再起のきっかけと成るのです。
1926年(昭和元年)事業も順調に発展し、
松下電気器具製作所を創立して約8年社員も、
人と成り売り上げも伸びてどんどん事業拡大をしていきます。
そこに待望の長男、幸一さんが誕生します。幸之助さんの一番幸せの時!
だったかもしれません。幸之助32歳の時でした。
しかし、そんな幸之助さんに人生で一番の最大の不幸が訪れます。
1927年(昭和2年)2月4日、長男の幸一さんが、
生まれて半年あまりで亡くなってしまうのです。
この悲しみは大変だったと思われます。
事業経営者宅の葬儀ですから、弔問客も多く大変大きな葬儀だったと思われますが、
しかし葬儀が終わり一人に成ってから、他人に計り知れない、
絶望感や、不幸感が心を襲います。
挫折感で生き甲斐を失ってしまうのです。
男は気を強く持たなくては、と自分に言い聞かす。
更に奥さんのショックが大きく、奥さんの気落ちを深く感じた幸之助さんは、
妻をなんとかしなくてはと、奥さんの励ましに一生懸命になります。
そのうちに、自分は何故幸一を助けられなかったんだ!
何か助ける方法が有ったはずだ!等と良心の呵責に責められます。
そして仕事でもいらいらしたり、誰と話をしても腹立たしいのです。
時には相手を恨む事も有ります。世間の人が皆敵に見えてしまうのです。
本当に辛い、めいった心の日々が半年から一年続きます。
こんなに強く、深く、不幸感を心に感じた事は、
幸之助さんの人生でこの時が最大と私は思う訳で御座います。
後に側近に話した幸之助さんの言葉に、
「事業をやめてしまおうか」とも思ったそうです。
男は誰でも、「仕事が一番、家庭は妻にまかせて、
おまり家庭の事を思ったことはほとんど有りません。
しかし幸之助さんは僅か一年間で、人生の心の幸せと、
心の不幸をまともに、味わうことになったのです。
あまりにも、不幸感に堪えられず、幸之助は、山本商店の取引時代に知り合った、
僧侶の加藤大観を尋ねます。幸之助さんは、
息子幸一さんの死という人生で最大の不幸を体験した為に、
生き甲斐を失い、心は絶望感や挫折感で、錯乱状態に成ったのです!・・・・
息子、幸一さんの死後の事をいろいろと加藤大観に話しているうちに、
「事業をやめたい話」も出たのでしょう。その時加藤大観僧侶の言った言葉
「おまえには、社員、従業員が居るではないか!」
、
この時幸之助は、は!と気が付いたのです。
は!・・と我にかえったのです。
そうか自分は最愛の息子、幸一を亡くして、
絶望感や、挫折感で、生き甲斐を失ってしまっていた。
そうだ自分には大勢の従業員、息子が居るではないか!・・・
よし!もう一度頑張ろうという気持ちに目覚めたのです。
加藤大観の言葉が強く深く幸之助の心に響いたのです。
この「おまえには社員、従業員が居るではないか!」と、
言う言葉は一般には、「たわいない言葉」ですが、
生き甲斐を無くしていた幸之助には、非常に強く、深く心に響いたのです。
私も友を亡くして不幸感や絶望感が心に強く発生して、
生き甲斐を無くしている時に「おまえには家族が居るではないか!」、
と言う言葉が大変強く心に響き、は!と我に返って、
そうだ家族の為に頑張ろうと言う気持ちに成った記憶があります。
それからの幸之助は、感性(ここをクリック)の高まりによって、
人々の言葉の中に真理、誠の言葉を聞くと、強く深く心に響くのです。
この時に幸之助は「強く響く言葉を、メモにすぐ書く」と言っております。
また、後に「衆知を結集し」とも言っております。
人々の意見を参考結集して事に当たれば、改善、工夫が出来ると言っているのです。
時には「無我」と心に言葉が浮かんでまいります。
無我とはどおいう事か、加藤大観に聴きます。加藤大観の教えで座禅をする事を、
毎日朝起きて行動するように成ります。
ある時有名なアナウンサーに即席ラーメンの宣伝をするのに、
どうしたら良いか質問を受けます。
幸之助は即座に「自分で食べて美味しいか、まずいか、
確かめれば表情に良く表れます」と答えています。
これは心に五感(視・聴・臭・味・触)と言葉が心に浮かんできたのでしょう。
そろそろ感性に気が付いて来た、感性の話をしたのでしょう。
人間には、知識をいくら頭に詰め込んでも、体の五感や、
心で感じ取らないとわからない言葉が、沢山存在する。
特に日本では表情や、感じる言葉がきめ細かく何種類も存在する。
例えば「愛」と言う言葉も、慈悲・慈しみ・思いやり・大事な人・大切な人・
友愛・兄弟愛・姉妹愛・母の愛・親の愛他沢山存在するのです。
ちなみに、英語では「愛」は「Love」だけです。
だから愛の意味内容を理解するには自分が身体や、心で体験しないとわからないのです。
これを「感性」と言うのです。息子幸一さんの死後、
日時の経過とともに、幸之助さんの心には感性の高まりが、
日増しに強く深く現れて来ます。そして真理がわかってまいります。
人間とはどういう生物なのかが、少しずつわかってきます。
人間の心もどんなものか理解出来るように成って来たのです。
ある時、心に「洞察(ここをクリック)」と浮かんできます。
ある時、幸之助は仕事の話をしている相手の考え、心が読めてしまいます。
商品の販売権の問題です。(資料探し中)
昭和2年2月4日息子幸一さんを亡くしてから約2年後。
昭和4年3月社名を松下電気器具製作所から松下電器製作所に変えて、
「経営基本方針」五精神を発表しています。
(まだ町工場の域を出ない個人経営の松下が、
単なる利潤追求(金儲けの商売)を目指さず、
社会の発展に寄与する事を基本方針に掲げたのは、
興味深い)と松下幸之助の生涯には書いてある。
この根源も息子幸一さんの神の導きと思われます。
昭和7年5月5日(1932年)あまり仏教に興味の無い幸之助は、
天理教の寺でこれもあまり知らないはずの哲学、
水道哲学を思い立ちます。この根源も幸一さんの神の導きと思われます。
2007年1月10日(水)書き込み
* 松下幸之助の手紙
正月に昔の家電経営、繁盛の時代の「大水電機」の書類を調べていたら松下幸之助さんからの手紙が出てきました。
本当に26年前の、松下幸之助さんの、貴重な手紙を、発見しました。
昭和56年と言えば、家電店ナショナルショップ店の大繁盛時代、そして松下幸之助さんは、茅ヶ崎に政治の将来を
心配して、日本の政治の貧困を心配して、「松下政経塾」を開校されました。
たまたま、私は松下電器横浜営業所管内のナショナルショップ店の、家電仲間の「誠心会」に入会して勉強していた
そんな時に、昭和55年、約半年間の間、政経塾の依頼で、現在民主党の衆議院議員、野田 佳彦 政経塾一期生を
電気屋の実践修行で、お引き受けして、現実に野田さんは、私とエヤコン工事をした事が有りました。
松下幸之助さんの手紙は、その時のお礼と、政経塾塾生との懇談の案内の手紙でした。
昭和56年1月22日(木)、私達「誠心会」のメンバーは、茅ヶ崎の政経塾で、塾生と激論を交わしました。
「世の為、国民の為、などと、使命感を学ばれているが、政経塾を卒業したら、自分の為に行動していまう?」
こんな、懇談を、松下幸之助さんを交え、塾生と議論した事をいろいろと思い出すことができました。
松下幸之助の目指す、松下幸之助の志が、政経塾卒業生によって達成されますよう、願うばかりです。
続く!・・・
人間の誠の心の幸せを願う! 大井 今朝雄(袈裟 感洞)
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