副読本 その1 「ミロ、絶望する」


「台詞が一つもないな。俺の知ってる小説は、もっと台詞が多いぜ。」
「それは私も気付いたが、小説の冒頭はどうしても説明が多くなるものだ。 次からは台詞も増えるだろう。」
「まあいい、ところでカミュ、ちょっと聞きたいんだが。」
「どうした?ミロ。」
「お前は最初から出てるが、この 『 昭王 』 ってのは?」
「それが、お前だそうだ。」
ミロは、もう一度読み返してみた。
   
   ふうん、王だって?この俺が王??どうもピンとこないな……。

「で、燕ってのが、その国の名か。しかし、どうして一国の名が鳥の名と同じなんだ?」
「そう云われても私も困るが、歴史上の事実なのだから仕方あるまい。」
「なにっ!実在する国なのか?」
ミロは目を丸くした

ここは宝瓶宮の書斎である。
壁一面の書棚には、革装丁に金文字が押してある分厚い書物や、羊皮紙にカリグラフィーで手書きしてあるらしい稀覯本 (きこうぼん) などが並び、ミロは来るたびに圧倒される思いがする。 それも、どの本も手擦れのあとがあり、明らかに読み込んでいるのがありありとわかるのだから恐れ入る。
それに、訪問するたびに、居間や寝室にある本が違っていて、科学書だの哲学書だの、ミロにはおよそ無縁のものが置いてある。 つい先日は、珍しく薄手の花柄の表紙の本があったので、何の本かと尋ねると、
「それはテニソンだ、なかなか良いぞ。ビクトリア朝の桂冠詩人だ。」

   ビクトリア朝といえばイギリスだろう、いくら俺でもそのくらいのことは知っている。
   詩集には愛や恋がつきものだから、カミュのことを考えながら夢想に耽るというのもわるくないな。

そう思いながらページをめくってみると、それは英語で印刷されていた。 ミロはギリシャ語はもちろん、ラテン語もオッケーだが、英語にはとんと無縁なのである。
そのくせ、スカーレットニードルやリストリクションは英語なのだが、ミロが名付けたわけではないので、それを言われても困るというものだ。
ところがカミュはギリシャ語、ラテン語、フランス語、ロシア語、それに加えて英語までできるらしい。 ギリシャ語やフランス語に翻訳されてるのがありそうなものだ、と訊いてみると、聖域では英語を使う必要がないので、錆び付かないように時々は原書を読むのだという。 それに、論説文などとは違い、詩文は、訳文でなく書かれた言語でそのまま味わうのが最もふさわしいと言った。

   俺はホメロスだけで十分だ

語学に堪能な友を持つというのは誇りでもあるが、すこし落ち込むこともあるミロである。

閑話休題、パソコンの前から立ち上がるとカミュは書棚から重そうな本を取り出した。 数十冊もある SHIBASEN SHIKI と書かれたシリーズ物の中の一冊である。 カミュの蔵書の中では一番巻数が多く堅苦しそうな本で、ミロは手に取る気さえ起こらない。
「燕は実在する国ではなく、実在した国だ。 四十三代、六四三年間続き、紀元前二二一年に滅亡している。 約二千三百年前の話ということになるな。」
ミロはギョッとした。

   滅亡っ?滅亡だって?!
   あっさり言ってくれるが、その言葉はインパクトがありすぎやしないか?

「おい、まさか………昭王の時に滅亡したんじゃないんだろうな?」
「安心しろ、燕は昭王のときに全盛を誇った、と書いてある。」

   ふう、少し寿命が縮んだかもしれん、『 国破れて山河あり 』 なんて悲劇の主人公はまっぴらだからな。
   しかし、『 全盛を誇る 』 とは、まさにこの俺にふさわしい言葉ではないか。
   それにしても二千三百年前とは昔すぎて、ほとんど神話の時代といってもいいかもしれん。
   聖戦なんぞ起こって俺とカミュが生き別れになるなどという話では迷惑この上ないが、大丈夫なんだろうな。
   ところで、どうして国名や王の名がカタカナじゃないんだ?
   どこか遠い国なのか?

「カミュ、燕というのはどの辺りにあった国なんだ?」
「現在の中国北東部だ。都の薊は現在の北京にあたる。」
「中国………!」
ミロは絶句した。
中国といえばユーラシア大陸の端、ほとんど極東である。

   同じ極東ならシベリアの方がずっといい、いや、舞台としては最高なのにどうして中国でなきゃいかんのだ!
   カミュと一緒ならブリザードだろうと氷点下だろうと、いや、絶対零度だろうと俺はしのいでみせるっ!
   なにしろカミュが俺を暖めてくれるに決まっているからな。

笑みを漏らしかけたミロは、ふと、恐ろしい疑問に突き当たった。
「………すると、俺は、いや、昭王は中国人なのか?」
「当然だ。」
ミロの知っている中国人は、老師ただ一人である。 その実力は黄金聖闘士の中でも屈指のものであることはよく分かっている。 しかし………。
ミロは絶望した。


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