招涼伝 第二回
一刻ほどに及んだ討議の場で当面の下知を終えた昭王は、そのまま玲霄殿(れいしょうでん)の広間に残っていた。
ここは十二殿八舎を擁する天勝宮の中でも最も広く、諸国の使節の引見、種々の儀典、諸会議などが執り行われる場所であり、正面の壁には天勝宮出入りの奥絵師の手になる五龍群遊の図が描かれている。
その今にも雲を踏み飛翔しかねぬ様子はまるで生きているようで、つい今しがた通ってきた回廊でも、あの龍がこのたびの豪雨を呼んだのではないか、という声さえ、洩れ聞こえてきたほどであった。
去年の秋、昭王の二十歳の賀も美々しく行なわれたというその同じ広間も今はほの暗く、暑い空気は湿気を含んで重く淀み、先ほどまでの討議の名残をとどめているようにも思われた。
正面に置かれた海獣葡萄唐草文様の大香炉からは蘭奢待の香がゆるく立ち昇っている。
この場に詰めていたであろう人々の姿はすでになく、隅に控えていたらしい数人の廷臣も昭王を拝しつつ別の扉から退出していくのが見える。
そうした中で、小雨の降り始めた窓の傍に立つ昭王を一目見たカミュは、はっと胸を突かれた。
情熱的で自信に溢れ、その豊かな表情とよく通る声で誰をも惹きつけずにはおかぬその人が、打開策を打ち出せなかった沈鬱な討議に疲れたのであろう、眉を寄せ、唇を固く引き結んで、心なしか蒼ざめているのを見るのは辛かった。
形の良い鼻梁と意志の強さを表わしている顎の線を見せる横顔が、今までになく緊張感を帯びているのがはっきりと見てとれる。
小雨降る窓外を見やるその姿は微動だにせぬ。
ただ、形の整った白い指先が窓の縁に置かれ、落ち着かなげに拍子を刻んでいるのが見える。
これは人を遠ざけたのであろうと、扉のところから低く声を掛けると、振り向いた昭王の顔にさっと血の色がのぼり、ようやくに愁眉を開いたその様子がカミュをほっとさせた。
すぐさま、喜色を浮かべた昭王に手を取らんばかりに招じ入れられ、中央に置かれた紫檀の卓子に歩み寄ると、そこには絹布に描かれた燕の地図が幾枚も広げられており、先刻までの討議の様子を如実に示している。
そのかたわらには、過去の事例を調べたのであろう、竹簡を鞣皮(なめしがわ)で編んだ数十巻の巻物が積み上げられており、そのうちの幾つかは、革紐が古びて如何にも古色蒼然としているのが見てとれた。
書籍や書類のある時代ではない。簡便な記録媒体としての紙の発明は、後漢に蔡倫(さいりん)が登場するまであと三百年ほど待たねばならぬ。
そこへ、いつの間にか姿を消していた貴鬼が堆朱の盆に茉莉花茶を乗せて現れ、その香りが昭王をさらに安堵させたようである。
といっても、事態はまだ何ら変わってはいないのだが。
左様、今はまだ。
カミュが問わずとも昭王は卓上の地図を指し示しながら的確に現在の情況を説明し、それによって招来されるであろう恐るべき事態は、貴鬼から聞いて想像していたよりも遥かに悪いようであった。
降る雨の量によっては、薊の市街も、この天勝宮のほか数ヶ所を残して総て水に覆われるかもしれぬというのだ。
無論、農地の大部分も被害を受け、数年間は収穫が見込めぬというのは貴鬼の心配する通りだが、問題はその先であった。
いや、先はない、という方が的を得ているやも知れぬ。
燕では、一昨年、昨年と二年続けての旱魃に見舞われ、穀物の備蓄が尽きかけようとしていたのだが、今年は適度な降雨と好天とが続き大幅な収量の増加が見込まれ、上下ともに安堵していた矢先の災いなのであった。
さらに、数年前から力を入れ、今秋には初めての収穫をあげる筈の大規模な農地の開墾も文字通り水泡に帰すと思われた。
国の基盤である「農」が壊滅的打撃を受ければ、民が飢えるのみならず国家としての収入も見込めぬため、国力は減衰の一途をたどる。
今は戦国の七雄(しちゆう)である秦・燕・斉・楚・韓・魏・趙の勢力の均衡が保たれてはいるものの、いずれの国も、隙あらば他国に侵攻することを厭いはせぬ。
特に、燕の南東に接する斉、中原に位置する秦は、虎視眈々と他国を窺うこと大なるものがあった。
利害関係の一致する国とは同盟関係にあるとはいえ、自国の財と命運を傾けてでも同盟国の危難を救おうというようなことは有り得ない。
同盟とは、力が均衡し、互いに益を見出せる時にのみ機能するものなのである。燕は、まさしく国家存亡の危機にあったといえよう。
事態が予想通りに推移すれば、何百万の民が飢餓に喘いだ挙句に他国の馬蹄に蹂躙され、それに臣従するを肯んじない昭王をはじめとする指導層は泉下の人とならざるを得ない。
そこまでは昭王も語らぬし、カミュも質しはせぬが、導き出される帰結はまさに一つであった。
昭王の聡明な額に滲む汗は、室内の暑さのためばかりではないのである。
これが相手のある戦であれば智力、兵力を尽くして戦い、たとえ結果がどうあろうとも後悔などせぬものを、常に前向きで積極的な行動を好む昭王が、この国家の一大凶事に座して待つ、それも不幸な結果を待たねばならぬというのはいかにも不本意に違いなく、その言葉の端々には言うに言われぬ口惜しさがうかがえる。
内心に不安、動揺、苛立ちがなかろう筈はないのだが、それに類することを一言も言わぬのは、覇者の矜持というものか。
さて、事の詳細を聞いたうえでカミュは一つの提案をし、昭王を一驚させたものだ。
「河を凍らせる?そのようなことができようはずはない。およそ人智の及ばぬことで あろう。」
これは驚くのが当たり前で、カミュは、自分が聖闘士であることは話してはいたが、凍気を操ることに通暁しているとは未だ一言も触れてはいなかったのである。
こうした場合、くだくだしく説明するよりは実際に見せたほうが有効であるのは、洋の東西を問わぬ真理というものだ。
事は緊急を要する。
カミュは貴鬼に水を湛えた水盤を持って来させると、卓子に置かれた瑠璃色のそれに軽く指先を向け、瞬時に凍らせたのである。
まだおさまりきらぬ波紋の形をそのまま表面に残し凍結した氷は、器の底に描かれた草色の双魚を閉じ込めている。
水盤の外側には、たちまちのうちに水滴がつき始め、それも見る間に薄氷に変わっていこうとしているのだった。
カミュによって眼前に示された奇蹟を凝視する昭王の耳に、ひとしきり強くなった雨音が響いてきた。
いや、それは、己が鼓動の音であったかもしれぬ。
手を伸ばしてそっと指先で触れてみても、一向に融ける気配はなく、むしろその冷たさが身体の奥まで貫き通してくるような気がする。
真夏の部屋の中で、冬よりもなお冷たい氷がそこにあった。
思わず目を上げカミュと視線が合ったとき、昭王は得心し、理解したのである。
もはや、逡巡している時ではない。
すぐさま身を翻すと、小卓の上の銀鈴を掴んで鋭く振った。
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