副読本その11 「ミロ、聖域を俯瞰する」
聖域が夜の闇に包まれる時刻、ミロは宝瓶宮にいた。
「 ああ、俺はもう我慢できんっ!」
「 いったいどうしたのだ?」
「 お前だよ、お前!こんなに疲れて、腕に怪我までして!痛々しすぎるぞ、ここのところは!そうは思わんか?」
「 私にそう言われても…。まあ、睡眠不足では仕方あるまい。 河を凍らせることはさほど困難ではないが、慣れぬ馬に乗り詰めで、ろくに寝ていなければ、こういうことも有り得るだろう。」
「 今すぐに行って抱きとめてやりたいね、俺は。 昭王はどうして平気なんだ?アルデバランに休憩を指示するだけじゃ足りんぞ。こう、両腕でかきいだいてだなあ」
カミュはミロの腕をすっとかわすと、あきれたように言う。
「 考えてもみろ。周りにあれだけ人がいて、昭王の立場でそんなことができるわけがなかろう。
百歩譲って同じ馬に乗ったとしても、大の男が二人も乗れば、じきに馬が潰れるのは目にみえている。
仮に意識がないとか大怪我をしていたとすれば、落馬しないような体勢をとらせて運ぶのが最善だと思うが、むろん、私はそんなみっともないまねはせぬし、実際、この後も自分で馬に乗っているからなんら問題はない。」
そんなに生真面目に反論しなくても、とミロは溜め息をついた。
「 気持ちだよ、気持ち。俺だって、この場で昭王がお前を抱けるとは思わない。
それに、誰も昭王の身体に触れてはならないって書いてあったが、それはつまり昭王からも誰にも触れられないってことだよな。
そいつは不便すぎないか?日常生活にも支障があるとしか思えんな。」
ミロはここで自分の日常に思いを巡らせた。
「 たとえば、ひどく酒に酔って一人では歩けそうにないときなんか、どうすればいいんだ?
誰も支えて部屋に連れて行けないってことなのか? まさか燕王がその場で寝るわけにはいくまいが。」
「 おそらく立場を考えて、酔いつぶれるような飲み方はしないのではないのか?
微醺(びくん)を帯びる、というところでとどめるのかも知れぬ。」
ミロは呆れたように首を振った。
「 微醺ねえ……、酔ったうちに入らんな。 そりゃ、一国の王が衆目の面前で酔いつぶれるわけにもいくまいが、俺は飲みたいだけ飲ませてやりたいね。」
『 昭王、寝室で寝酒をたしなむ之図 』 を脳裏に浮かべてみたミロだが、おそらく周囲を気にして敢行するとは思えないし、仮にできたとしても、あの昭王では、やはり微醺段階でとどまりそうだと考えた。
「 王というのも、思ったほどよくはなさそうだ。 本人は納得しているかも知れぬが、私たちの考えているような自由があるとは思えない。」
「 ああ」
グラスを取り上げるとミロはテラスに出て行った。 十二月も半ばとなれば寒気が厳しくなってくるが、少しほてった頬にはそれもまた心地良い。
眼下に眼をやれば、冴えた月の光に照らされて幾つかの宮が白々と浮かび上がり、夜の風が吹き渡ってゆく。
それぞれがそれぞれの想いで夜を過ごしているのだろう。
この時間、誰がどこの宮に行こうと、咎める者のいようはずもなく、現に自分は自由な意志でここにいる。
「 俺もそう思う。」
ミロは大きく息を吸った。
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