副読本 その25  「馬上にて」


「カミュ………お前、悔しくないか?」 
牧場の柵に沿って軽く馬を走らせながらミロが言う。 
「………悔しいとは?」 
「むろん、あの雷のことだ。もう少し、ほんとにもう少しだったんだぜ!」 
地団駄を踏む思いのミロが力余って馬のわき腹を蹴り、驚いて跳ね上がった馬を抑えるのに少し手間取っているのを見たカミュが轡を取って鎮めてやった。 
 
ここは北海道、グラード財団の所有する登別の牧場である。 
アテナから乗馬の習得の指示を受けた二人がこの地に到着したのは六日前で、持ち前の運動神経と人並み優れた勘が二人を早くも馬に親しませ、鞍上の動揺を苦痛と感じなくさせているのは流石であった。 
 
「雷さえ鳴らなきゃな……」 
今朝方、宿で覗いた話の進展にミロはおおいに不満なのである。 どう考えても、昭王に時間が残っているとは思えない。 
あの日の夕方に野駆けに出かけた昭王に特別の意図があったとは思えないが、それでも突然の雨がもたらしたわずかなチャンスにすべてを賭けようとしたのだろうと思われる。 
渋い表情をしたミロが、ふと前方に目をやった。 なだらかな傾斜の向こう側からポプラの木が頭を覗かせている。 
「カミュ、あそこまで行こうぜ!」 
元気のいい葦毛の扱いにもようやく慣れたミロが軽く馬を走らせると、すぐにカミュがあとを追う。 
緑の草地に馬を走らせるのはなんともいえずいい心地のするもので、なるほど、この開放感と躍動する感覚は何物にも替えがたいものである。 
もっと修練を積んで、人馬一体という境地にまで達すればどれほど楽しいかと思うと、燕で野駆けに興じていた昭王たちの気持ちがわかろうというものだ。 
 
一足早くポプラの下に馬を寄せたミロがカミュを振り返った。 
聖域の空ほど蒼くはないが、緑一色の草地の上に広がる青空が美しく、それを背景として白馬を走らせてくるカミュはまさに一幅の絵のようである。 
美しい髪が風になびくさまなどは、見慣れているはずのミロをもドキッとさせる光景で、牧場の従業員や、ごくたまに訪れる観光客の注目を浴びているのも無理からぬことなのだ。 
そんなカミュを誰にも見せずに包み隠しておきたい気もすれば、これ見よがしに見せ付けたい気もするミロだが、当の本人もカミュとともに視線を集めていることには一向に気付いていないのだった。 
 
「なあ……あの時、昭王はお前になんと言おうとしたと思う?」 
「え……?」 
木の下まで白馬を歩ませてきたカミュがほどよいところで馬を止めようとしたが、あいにくなことに馬にその思いは伝わらず、二頭が轡を並べる形となった。 
「それは………ミロはどう思う?」 
「俺なら……」 
馬上でカミュにわずかに身体を寄せたミロが、白い袖から覗くすんなりとした手首をとらえた。 
「カミュ、燕にとどまってほしい、それが無理なら……この思いを受け取ってほしい……」 
その真摯な響きにカミュが思わず頬を染めたとたんである、ミロの腕が伸び、カミュの肩を抱き寄せると声を上げるいとまも与えず柔らかい唇を奪う。 
 
   人が……人が見ているかもしれぬ…… 
 
   大丈夫……誰もいない……そんなことはお前にもわかっているだろう 
 
   ……しかし……… 
 
   人にも見せないし、雷も鳴らせはしない 
   昭王ができなかった分も込めて、俺はお前を愛したい 
 
   ミロ……… 
 
新緑の風が吹き抜けるポプラの下で、乗り手のそんな想いも知らぬげに二頭の馬が草を喰む。 
手綱を持つ手のひらが、いつのまにか汗ばんでいった。 
 
「ミロ、今、気付いたのだが」 
厩舎に向かって馬を歩ませているカミュが声をかけてきた。 
「さっきのような状況で、もし、馬が勝手に歩き出したらみっともないことになりはしないだろうか?」 
「初心者の俺たちには、それは確かに問題だな、考えもしなかった。」 
訓練を始めたころの失敗の数々を思い浮かべたミロが頷いた。 
「だが、馬のことには初心者かもしれないが、恋愛に関しては熟練者だぜ。 馬は賢い動物だから、乗り手の気持ちがわかったんじゃないのか?」 
「そういうものだろうか?」 
「ああ、『 馬には乗ってみよ 人には添うてみよ 』 っていうだろう?」 
ミロがカミュを振り返る。 
「ここに来て、俺は馬のこともよくわかったし、お前のこともさらによくわかったよ。 実際に接してこそわかる格言だな。」 
カミュの頬がカッと赤くなった。 
 
   ……え?
 
「わ…私は………そんなことは知らぬっ!」 
すぐそこの厩舎にむかって馬を走らせてゆくカミュをあっけにとられて見送っていたミロが、やがて破顔一笑したものだ。 
「あ!そういうことか、『 人に添う 』 って……カミュのやつ、ほんとにナイーブだな、まあ、そこがいいところなんだが。」 
目指す厩舎の向こうの空が、華やかな茜に染まっていた。


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