副読本 その33  「 玉 」


「どう思う……?」
「……え……?」
ミロが屈み込んで、パソコンの前に座っているカミュの後ろから肩を抱く。
「昭王のことだ。 ついに想いを伝えたぜ……俺は満足だよ……」
風呂上りのほてりの残るうなじに唇を落としてゆくと、カミュが小さく身を振るわせた。
「それにほら………貴鬼を木の陰に行かせたとたんにお前にキスをした……なかなかやるじゃないか♪」
「またそんなことを……あれは私ではないのに………」
「ああ、わかってる。 でもどうしてもお前と重ねてしまう……すぐ赤くなるところなどはお前そのものだ.。 違うか?」
「それは………」
自分でもそう思うのだろう、うつむいた頬が淡く染まり、ミロをひそかに喜ばせた。
「それに、今回は珍しく、昭王の心の中の台詞がずいぶん書かれてたぜ。 いつもああだったら、もっとよくわかったんだが。」
「しかたあるまい。 本格の小説ではあんなことはまずありえない。 今までのように地の文で説明するのが普通だからな。
 招涼伝も明らかに終りに近づいたのだ、ちょっとした読者サービスといったところだろう。」

立ち上がったカミュが髪を乾かすために洗面室に向かい、ミロもそれに続いた。夕食まではまだ時間があり、二人並んで髪を乾かすのがいつものことなのだ。ドライヤーの音がうるさいので、さすがになんの話もしない時間だ。
先に乾きあがったミロがカミュの手からドライヤーを取ると、慣れた手つきで風を当て始めた。 これがミロの楽しみの一つなのをカミュもよく知っており、最初こそ遠慮していたのだが、この頃では素直に任せてくれる。
「大丈夫かな……」
「え……?」
壁一面の大きな鏡の中で、カミュの髪の一房を手に取ったミロが少し眉をひそめている。
髪の量が多く、根元まで乾かすのはかなり時間がかかるため、熱で髪が痛みはしないかと気になってしかたがないのだ。
「髪のためにはドライヤーの熱はよくないんじゃないのか? いくらタオルドライを丹念にしても、気になるな……。 だいたい、
 天勝宮では、お前、どうしてたんだ?」
「え?」
唐突にそんなことを言われたカミュが一瞬絶句し、やがて真面目に考え出した。
「タオルもない時代だから、乾いた布を何度も取り替えて水気を取り、扇で風を送って乾かしたのではないのだろうか。 時間が
 かかってさぞかしたいへんなことだったろうと思われる。 電気がないのだから、当たり前だが。」
「あれっ、そういえば、お前、シベリアではどうしてたんだ? 冬は暖炉の暖かさで乾かしたんだろうが、そのほかの季節は?
 お前の髪の量じゃ、風で乾かすなんて悠長なことをしていたら、やたら時間がかかって弟子の訓練どころじゃなかろう?」
「あ………それは……」
どういうわけか、カミュが口をつぐんだ。 聞かれたくないことに触れられた、という風情で鏡の中で困惑している様子がありありとわかる。

   え? どうしたんだ? 
   なぜ黙る? なにかまずいことでもあるのか???

「………いいんだよ、別に。 言いたくなければ、言わなくても。」
わざとさらっと言ってみた。 こう言えば、カミュがどう出るかはとうにわかっているミロである。
「……言いたくないわけではない。………濡れた髪は……」
ミロは鏡の中でじっとカミュを見ている。その視線を感じたカミュが目をそらした。
「……小宇宙で乾かしていた。」
「なにっっっ!!!!」
ミロは唖然とした。

   黄金聖闘士が小宇宙をそんなことに使ったのか???信じられんっっ!!!
   緊急時ならともかく、毎日、それで髪を???本当かっ?!

ミロの驚愕を察したのだろう、カミュが渋々口を開いた。
「お前がやったらかなり時間がかかるだろうと思う。 しかし、頭髪に含まれる水分量を理想値にするのは私には難しいことでは
 ない。 毛髪には水分を吸収する性質があり、通常の状態の空気中では10〜15%、洗髪直後で30〜35%の水分を含んで
 いる。 ドライヤーで乾かしても10%前後の水分が残るのだが、小宇宙を使うと、この操作は、それこそ一瞬で終わるのだ。 
 時間をかけて風で乾かすより、小宇宙を使ったほうが時間の有効利用につながると判断してのことだ。」
「あ……ああ、うん、そうだろうな。 ふうん………そうだったんだ、ちっとも知らなかった!」
ミロに素直に感心されたカミュが頬を染める。 そのカミュに、かがみ込んだミロがささやいた。
「なあ、今度、それ、やって見せてくれる?」
「え?……ああ……わかった」
ミロがくすくすと笑い、カミュの頬がさらに赤くなった。



今夜の北海道は冷え込みが厳しいらしいが、離れにはかなり前から暖房が入っており、いささかもそれを感じさせないのがこころよい。風が木々を揺らすこんな晩は、暖かいふとんにくるまっているのがなによりなのだ。
行灯の小さな灯りがやわらかい光を投げかける。

「お前が昭王に渡した玉、いいな、あれ♪ お前にも、もちろん作れるんだろ?」
「むろん、たやすいことだ。」
「俺に一つ作ってくれないかな?どう考えても便利だぜ。」
カミュが意味ありげにミロを見た。
「お前、それがどういうことかわかって言っているのか?」
「え?」
「あれは、昭王のもとを永遠に去るときに、身代わりとして渡したものだろう。今、お前にあの玉を渡せば、私はお前のもとを去
 らねばならなくなるのだが、それでも良いのか?」
ミロは愕然とした。
そんなことは考えもしなかったのである。
「あ……駄目だ駄目だっ!いらんっ、玉はいらないから、もうどこへも行くなっ!」
カミュの肩をつかみ、蒼白になって詰め寄るミロの目の中に恐怖の色が広がり、カミュの胸を締め付けた。 ほんの少しからかうつもりだったのに、それは思いもよらぬ反応だった。
思えばカミュが宝瓶宮で倒れ、ミロを嘆きの淵に落とし入れた後に戻ってきたとき、ミロは恨みつらみなど一言も口にしなかったのだ。 ただひたすらにカミュの帰還を喜び、これ以上はないというほどの笑顔を見せてくれたものだった。
カミュが、ミロの身も世もない嘆きようを知ったのは他の者の口からで、ミロ自身はそれについてはなにも言わなかったし、カミュが先に旅立ったことについてもなんら批判めいたことを言いもしなかった。
それだけに、ミロのこの恐怖に打ち震えるような反応がカミュをひやりとさせた。。
「すまぬ、ミロ、驚かせた……。 私が悪かった……もうどこにも行かないから。」
ミロはカミュの胸に顔を押し付け、肩を震わせている。 あの日の恐怖と悲嘆がミロを襲っていたのだ。
「ミロ………」
カミュは両手でミロの頭を包み込むようにして、そっと顔を寄せた。
「私がお前の……あの白い玉になるから……それでよいか?」
カミュが囁くと、濡れた青い瞳が驚いたようにカミュを見た。
「お前……それってすごい殺し文句だぜ? わかってる?」
「あ………」
真っ赤になったカミュに、目のふちを潤ませたミロがくすくすと笑った。


              ←戻る             ⇒招涼伝第三十四回             ⇒副読本その34