招涼伝第三十四回


敷物を抱え、酒器を捧げ持った貴鬼が槐の陰から顔を覗かせたのは、こうした時だった。
昭王とカミュは、何事か和やかに話し合っている様子で、きっと、これから先の道順を説明しておられるのだろう、と貴鬼は考えた。
貴鬼は、この遠来の異国の人が大好きなのだ。
ひと月ほど前に天勝宮にやってきたカミュを初めて見た時、昭王の後ろに控えていた貴鬼は、なんてきれいな人だろう、と目をみはったものである。


今までにも、何人も異国の人を見たことはあるけれど、こんなに澄んだ蒼い目をした人は見たことがない。。それに、あの真っ直ぐな長い髪の綺麗なことといったらどうだろう、燕の国中探してもこんな人は一人もいはしない。
あまりに感心して見とれていたので、ふと目が会ってしまった時はどぎまぎしてしまい、昭王様の後ろに隠れてしまったものだ。
それだけに、昭王様から、カミュ様のお世話もするように、といいつかった時は嬉しくてたまらなかった。
すぐに昭王様に連れられて、翠宝殿にお入りのカミュ様のところまでご挨拶にお伺いすると、
「こちらこそ、よろしくお願いする。」
と、おっしゃっるそのお声は、燕の言葉を上手にお話しになられるけれど、どこかしら異国風のところがあって不思議な響きがするのだ。優しくて暖かいカミュ様のお声をいつまでも聞いていたくなり、何度もお話をせがんだものだった。

昭王様が公務でお忙しい時には、暇を持て余すことが多い。 カミュ様はほかのご身分の高い方々とは違って、ご自分のことは一人でなさることが多く、あまり御用事をおいいつけになることもないのだった。
そんなときにカミュ様を訪ねていくと、優しくお部屋に招き入れてくださって、異国の不可思議な話をたくさんしてくださるのだ。
希臘 (ギリシャ) や波斯 (ペルシャ) 、印度や露西亜の話は、何度聞いてもわくわくするものだった。 何日歩いても砂しかない土地や、長い鼻でものをつかんで食べる動物のことを聞いたときはとても驚いてしまった。 自分もいつか、そんなところにいけるだろうか。
あるとき、カミュ様が燕の文字のことをお尋ねになったので、昭王様の御祐筆のお部屋から竹簡と筆をお借りしてきて、いろいろと書いてお見せすることになった。
「山」や「川」や「鳥」の字が、ほんとうの形をそのまま線で表していることをお話したら、とても驚かれて感心なさる。
それから、昭王様のお名前の「昭」と言う字は、ご践祚なさったときに偉い学者様達が相談なされて、たくさんのめでたい字の中からお選びになったもので、「日を召す」という意味なのだ、と申し上げたら、カミュ様はとても合点なされた御様子で、昭王様は天勝宮のなかでも一番明るくて、まるで太陽のようにほかの者に光を与えられるようなお方だから、ぴったりの御名前だ、と誉めてくださったので、とても嬉しいと思った。
そこで今度は、カミュ様のお国の希臘の文字のことをお尋ねしたら、二十四しかない、とおっしゃるのにはとても吃驚してしまった。
たった二十四個しかなくて、いったいどうやって話したり書いたりするのだろうと首をかしげていたら、カミュ様はとても丁寧に教えてくださるのだけれども、ちょっと難しくてよくわからない。 けれども、たくさんの学問を修められた昭王様ならきっとおわかりになられるに違いないと思った。
それから、燕の字は竹簡を縦にして書いていくのが当たり前なのに、カミュ様が竹簡を横にしてお国の文字をお書きになったときは、本当に驚いた。 竹簡も筆も初めてとのことで、ちょっと書き辛そうになさりながら、ゆっくりとお国の希臘の文字を書いてくださったけれど、文字というより何だか模様のように見える。
なんでも、ほとんどの国は横に書いていくのだそうで、燕のように縦に書くほうが珍しいのだということだ。
それどころか、カミュ様がお通りになった国の中には、右から左に書いていく国もあったそうで、とても信じられないことだけれど、カミュ様がおっしゃるのだからきっとそうなのだろう。
ふと思いついて、もしかしたら下から上に書いていく国もあるかもしれない、と申し上げると、ちょっと考えられてから、
「貴鬼のいうとおりかもしれぬ。」
と優しくおっしゃって、にっこりなさったので嬉しくなった。
カミュ様のお笑いになったところは、まるで紅綾殿の奥庭に咲く酔芙蓉の花のよう、と太后様が仰せになられたことがあるほどおきれいなのだ。
酔芙蓉は朝のうちは白くて、夕方になると桃色になるという珍しい花で、天勝宮では紅綾殿だけに咲いている。 太后様がこの花をお好みでいらっしゃることをよくご存知の昭王様は、毎年初めての花が咲くと太后様を紅綾殿にお招きなさってご一緒にお茶をお楽しみになられる。 カミュ様がおいでになった今年は、もちろんカミュ様もお招きになり、お三方で酔芙蓉をご覧になられたのだ。
そのときに太后様が、カミュ様の旅してこられた国々のことをおたずねなされたので、カミュ様はそれはそれはいろいろなことをお話もうしあげ、昭王様もご一緒になってとても楽しくお過ごしになられたのだ。 昭王様のご冗談に、普段はあまりお笑いなさらないカミュ様が何度も微笑まれ、ついには声を立ててお笑いになったので驚いた覚えがある。
そんなふうに、普段はお静かに過ごされるカミュ様も、昭王様とご一緒のときには楽しげにお笑いになることが多い。 といっても、大きな声でお笑いになるのではなく、優しげに微笑まれるのだ。

まだ子供の自分にもカミュ様はたいそう優しくしてくださり、朋輩たちから羨ましがられることも多い。 昭王様から目をかけていただけることがたいへん名誉なことなのに、天勝宮中で評判の、お綺麗なカミュ様にも親しくしていただけるのだから皆が羨ましがっても当然なのだと思う。
何人もの宮女方が、カミュ様に、といってお手紙やお品物などをおことづけにおいでになるけれど、昭王様から、そういったことはカミュ様のご迷惑になるので一切受け取ってはならぬ、と固くご注意をうけているので、そうご説明するとどの宮女方も残念そうになさりながらお帰りになるのだった。 だからカミュ様は、ご自分が天勝宮の宮女方に評判になっておられることを何もご存知ないと思う。

宮廷では、侍童風情に目をくれる方は、そうはおいでにならない。そんなふうに優しく接してくださるのは、他にはアイオリア様だけである。
もう少し大きくなったら、アイオリア様から馬と剣とを教えて頂けることになっているし、時々は獅藝舎 (しげいしゃ) の御部屋にお呼びくださって遠来の珍しい水菓子などをくださるのだ。
そのアイオリア様もカミュ様とは親しくなさっておられ、お暇なときには広い天勝宮の中をご案内なさることがある。 そんなときは魔鈴も一緒についてくるのだが、たいていの人が怖がって近寄ろうとしないのに、カミュ様はしばらく魔鈴の様子をご覧になってから静かにお手を出されて喉や耳を撫ででおやりになり、すぐに仲良しになられたのにはびっくりしたものだ。
これで、天勝宮で魔鈴にさわれるのは、昭王様とアイオリア様とカミュ様、それに自分だけなのでなんだかとても誇らしい気がする。


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