副読本 その37  「 食前酒」


「おい! 前に、お前が貴鬼を抱いたっていうんで俺が怒ったことがあったが、これがその実態か?」
「そういうことだ。 なんでもなかろう?これで、 お前の考えすぎだということが、証明されたな。」
「ああ、悪かったよ。 しかし、ふうん…………お前が泣いてる子供をあやすっていうシチュエーションが意外だね、俺は。
 お前、今までに、子供を抱いたことある?」
「いや、 聖域では貴鬼と接することはほとんどないし、氷河とアイザックの子供時代にも抱いたことはない。」
「そうだろうな、でも………」

今度はカミュも問い返したりはしない。 さすがに話の方向が見えている。 人は学習する生き物なのである。
いつまでたってもカミュが知らぬ顔をきめ込んでいるので、ミロはとうとうあきらめて、話を進めることにした。
「なんといっても、お前は、抱かれる専門だからな ♪」
「あ…………」
半ば予想していたこととはいえ、ミロの行動はさすがに素早く、あっというまに抱かれている自分を発見するカミュなのである。
「まったく、お前ときたら、すぐにそれだ!」
「あれ? 俺に抱かれるのがいやなの?」
「……そういうわけではないが……」
「じゃあ、問題ないな。 俺もお前を抱くのが大好きだし♪」

幾つかのキスを経たところで、カミュがやっと腕を振りほどく。
「ともかく、まだ早すぎるっ、夕食もすんでいないのだぞ?」
「うん、夕食前の食前酒♪ あるとないでは、食事の味わいが違うんだよ♪」
湯上りのカミュの頬が、いっそう上気したようで、それがミロには楽しいのだ。
「ところで、蓮っていうのは中国だけにしかないのか? 一度、見てみたいんだが。」
「いや、蓮はアジアを中心に分布するアジア種と、アメリカ、オーストラリアに分布するアメリカ種とがある。 アジア種の花色は、赤・ピンク・白が中心だが、アメリカ種は黄花だ。 ここ日本でも、夏には開花する。」
「なにっ? 日本にもあったのか? 夏には見かけなかったぜ!」
「地下茎が凍ったら越冬できぬから、北海道ではおそらく無理だろう。 そのため我々の眼に触れなかったのだ。」
「う〜ん、箱根に行ったのも秋だったからな。」
せっかく日本にいたのに、蓮を見ていないのは口惜しいミロである。
「よしっ、決めた!!次の夏まで日本にいようぜ、俺は蓮をこの目で見たい ♪」
「無茶を言うな。 どれだけ日本にいると思っている?」
「うん、もうすぐ7ヶ月 ♪」
「長すぎるとは思わんのか?」
「カミュ………」
真剣なまなざしがカミュをドキッとさせた。
「夜中に一人で蓮を見ていた昭王が可哀そうだとは思わないか?」
「え………それは………」
いつの間にか抱き寄せられ、耳元でささやかれると、もう自分ではどうにもしようがないのだ。
「俺は、お前と一緒に、月の光に照らされた蓮の花を見たい……。」
「ミロ…………」
「あの時の昭王がどれほど寂しかったと思う? 天勝宮の誰にも一言も云えず、態度にも表さずにずっと生きていかなくちゃならないんだぜ。 おまけに、縁談を持ってきた趙の使節を歓迎する賀宴なんだろう?これで、いつも通りににこにこ愛想を振りまけっていうほうが無理だ。 出席して乾杯もした、もう十分だろう、俺ならそう思う。 たぶん、あの宴の夜だけは我儘を通させてもらう気で、黙って時を過ごしていたんじゃないのか?とても笑える状態じゃない。」
一気に言ったミロが重い溜め息をつく。
確かに宴のあとの昭王が、念願かなってカミュと逢えたことはよくわかっている。 わかってはいるが、そのあとの長い年月のことを思うと、嘆息せざるを得ないのだ。
「だから俺は、お前と蓮の花を見たい。 昭王が望んでいながらできなかったことを、すべて叶えてやりたいんだ。」

   夜の蓮を見ながらカミュをそっと抱きしめて、そっと口付けよう
   昭王が望んだように、寄り添って月の光を浴びていよう
   カミュ カミュ お前と二人で蓮の花を見ていよう

「私も………」
ミロのやさしい口付けに頬を染めたカミュの声が耳をくすぐった。
「蓮を……お前と一緒に蓮を見たい」
「きっときれいだぜ。 昭王は蓮の中にお前を見ていたに違いない。 どっちがきれいか、俺にも考えさせてくれ♪」
「またそんなことを……」
うつむくカミュを、ミロはとてもいとしいと思うのだ。

その夜の食前酒には時間がかかり、夕食の膳につくのはかなり遅れたのだった。


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