招涼伝第三十八回


そうしているうちに涙もようやくおさまったので、カミュ様も腕から下ろしてくださる。 いくら小さい子供といっても、昭王様が臣下をお抱きになることは決してなく、カミュ様の横にお立ちになってお二人ともども言葉を尽くしてさまざまに慰めてくださるのがほんとうに畏れ多くて身の竦む思いがした。

昭王様のおいいつけでお茶をお持ちする頃には、すっかり夜が明けていた。
一番近い緋暁舎 ( ひぎょうしゃ ) からお盆を捧げて觀蓮亭へ戻るころには小雨が降り出していたけれど、空はとても明るくて、雨のせいでかえって蓮がきれいに見えるような気がする。
遠くから見ると、柔らかい緑色の蓮の葉と白や桃色の大きな花の向こうにお立ちの昭王様とカミュ様のお姿がとてもお美しくて、胸がどきどきしてしまうほどだった。
ふと思いついて、途中に咲いている桃色の蓮の花びらを一枚とって、お茶受けにとお持ちした巴旦杏(はたんきょう)の実を載せてお手元にお出しすると、お二人ともたいそうお喜びになられた。
ご自分だけでお召し替えなされたのだろうか、瑠璃色のの裾濃 ( すそご ) のお召し物に深蘇芳 ( ふかずおう ) の帯をしめておいでの昭王様は、蓮の花をご覧になりながらカミュ様とお話をなさる。
「この場所はもともと水を引き込んで池を造ってあったのだが、廬山の東林寺で修行していたシャカが五年ほど前に戻ってきたおりに蓮の種を持ち帰り、先王に願い出て蓮池となしたのだ。 太后もこの花をお好みで、しばしば清賞なさっておられる。 シャカの説教癖にはどうにも辟易させられるが、この池はたしかに良い。」
それから昭王様は左側の蓮を指し示された。
「あのあたりの白い花は青蓮華 ( しょうれんげ ) といって、東林寺にしか生えておらぬということだ。 なかなか良い香りがするぞ。」
青蓮華の花は普通の蓮よりはちょっと小さいけれど、一番外側の花びらが薄い緑色をしているのがとても珍しいし、花びらの数がとても多い。 去年、昭王様のお許しを得て、盛りを過ぎた花を一つ取って数えてみたら百八枚もあったのを思い出して、そのことをお話しすると、
「おお、そうであった。 そのときはシャカがともにいて、数珠の珠の数と等しいと言い出し、有り難い説法を長々と聴かされたのであったな。」
昭王様はシャカ様が数珠をつまぐるご様子を真似なさり、それがまたよく似ておいでになるので、カミュ様も困ったようになさりながらご一緒に微笑まれるのが、水も漏らさぬ御仲らいに思われた。
カミュ様のお国には蓮はないらしく、蜂の巣のような形をしている蓮の実をとても珍しくお思いのようなので、高欄の近くのすっかり乾いているのを手繰り寄せてお目にかけたら、丸い穴の一つ一つに大きな種が入っているのを見て、不思議そうに首を傾げておられる。 そのうちに、今度は高欄から少し身を乗り出されてお手をお伸ばしになり、手近の桃色の蓮の花を引き寄せて、よくよくご覧になると、なるほどというお顔で頷かれた。
昭王様はそのご様子を見て、蓮の育ち方や、蓮の根の食べられることをご説明なさり、カミュ様が感心なさるのでたいそう嬉しげになさっておいでになる。
夏の終わる頃になれば実が赤くなって甘く美味しくなるので、きっとカミュ様もお気に召されることと思う。

そんなふうに楽しくお話しなさっていると、回廊のすぐ向こうの角から熊手と大きな箕 ( み ) を持った下働きの仕丁 ( しちょう ) が二人現われて、足元を気にしながらすぐそこまでやってくると、仕事に取り掛かろうと衣の裾をたくし上げ始めた。
下ばかり見ていて、昭王様が臨御 ( りんぎょ ) なさっておいでなのに気付かないようなので注意しようと思ったら、昭王様はお手で制されて、黙っているようにと合図をなされたのは、きっと、どんな話をするのかと興味をお持ちになられたからに違いなかった。
お聞き苦しい話が出たらどうしよう、と心配していると、こんな早い時刻に昭王様がおいでになるとは夢にも思わない仕丁は、のんびりと  「去年の夏は寒くて畑のできもよくなかったが、今年は大丈夫そうで、まず良かった」 「暮し向きもまずまずだろう 」  などと話しながら蓮の手入れを始めている。
すると、そのうちの一人が枯れた花茎を引き抜いた拍子に、ふと顔を上げてこちらを見た。
最初はきょとんとして、どなたがおいでなのかわからない様子だったが、すぐに昭王様のお召し物が禁色の瑠璃色なのに気付いたのに違いない。 遥か彼方から遥拝したことしかなかった昭王様が思いがけない近さにおいでになったのに仰天したらしく、手に持った道具を取り落とし、二人して大慌てでその場に拝伏してわなわなと震えている。
天勝宮では、昭王様と太后様のお目に止まらないところで全ての清掃が行なわれている。 そういった端仕事は上つ方のお目に触れてはならないのだった。 きっと二人は、厳罰を受けるかと、おおいに怖れたのに違いない。
カミュ様と顔を見合わせ、どうしようかと思ったとき、
「花を見ているゆえ、手入れはのちにせよ。」
と昭王様が直におっしゃったのには、あっと驚いてしまった。
昭王様と仕丁では天と地ほども違っていて、こんなに近くで仕丁が竜顔を拝することなどあるはずもないし、また、昭王様が直接にお言葉をお掛けになることも決してないのだった。 こんなときは、昭王様のお言葉をお側のものが承り、それを取り次ぐのがご定法なのだ。
思いがけない成り行きにますます気が動転した仕丁たちは、落とした道具をほうほうの体でかき集めると慌てふためいて駆け去っていってしまった。
衣が泥だらけになったのにお目を止められたのだろう、あとになって仕丁溜りに新しい衣が下賜されて、一同を驚かせたということだ。

その日のカミュ様は、先だって昭王様がお贈りなされた、袖先に浅葱色 ( あさぎいろ ) の縁のついた白い練絹のお召し物を着ておられ、露草色の細目の帯を締めていらしたのをとてもよく覚えている。 そして、これはご自分がお持ちの、ふわっと柔らかい瑠璃色の長い布帛 ( きれ ) を右肩から異国風に引き掛けて、端を帯にはさみ、左肩のところで、真ん中に濃い瑠璃色のきれいな石を嵌め込んだ、不思議な模様の丸い白銀 ( しろがね ) の飾りで留めておいでなのだった。
カミュ様が身に付けておいでになる飾りといえばそれだけなのに、銀や珊瑚、翡翠の簪 ( かんざし )、笄 ( こうがい )、珥飾りや腕輪を付けておめかしをした、色とりどりのお召し物の女の方よりおきれいなのは、いったいなぜなのだろう。
「 天勝宮におられる大勢の宮女方の誰よりも、カミュ様が一番おきれいな気がいたします」  とあとでこっそり昭王様に申し上げると、にこにこ頷かれてから 「 このことは内緒にするように 」 と仰せになられたのも尤もだと思う。
女の方ではないのだから、そんなことをお伝えしてもお喜びにはなられないに違いないし、他の女の方のお耳に入っても御機嫌を損ねられるに決まっているのだもの。
昭王様はその日一日、たいそう御気色 ( みけしき ) うるわしくお過ごしになられた。




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