招涼伝 第三十九回
お一人で蓮池をご覧の昭王様は、きっとそのときのことを思い出されて、お寂しくお思いなのだろう。
今宵の宴にもしもカミュ様がお出になっておられたら、お二人でそぞろ歩きをなされて蓮池を楽しくご覧なされたのだと思うと、昭王様のお気持ちが、取るに足らないこの身にも察せられるのだ。
あんなに仲良しでいらしたカミュ様とお別れになったのをお悲しみなのだと思い、畏れながらなんとかお慰めしたいとは思うのだけれど、カミュ様が燕にお戻りにならない限りはどうしようもない気がする。
なにかお役に立てることはないかといろいろ考えてみても、なにもして差し上げられないのが残念でならなかった。
そんなふうに觀蓮亭に足をお留めなされておられた昭王様に気付いた御用掛が慌てて篝火を運んできたらしく、右手の回廊の角辺りに火が揺らめいた。
そちらの方にお目を向けられた昭王様がかすかにかぶりをお振りになられたので、音を立てぬように足を早めて御内意を伝えに行くと、承った数人の御用掛は篝火とともに急いで姿を消した。
蓮池を照らすのはまた月の光だけになり動くものはなにもない。 ときおり蓮の葉がゆらりと揺れて水のこぼれる音が耳に響くだけなのだ。
昭王様がお動きになられない限りは、誰一人動かずにいつまででもお待ち申し上げているので、その場にはまるで誰もいないようにも思われるほど静かになっている。
そのまま四半刻もたったかと思われたとき、右手の回廊の先の方からどなたかの朗々とした歌声が聞こえてきた。
低く押さえてはいるけれど、それは確かにムウ様のお声で、きっと宴のあとの管弦のお楽しみに加わっておられたのに違いないのだった。
昭王さまが觀蓮亭においでのことをお気付きではないらしく、お声がだんだんとこちらに近づいてくるので、そっとお側を離れて叔父上のところに御注進にあがるとさすがに驚かれる。
叔父上の宴の御席も昭王様のお近くだったので、鬱々としてお楽しみではなかったことをご存知に違いなく、「
お早く御寝あそばされるとよいのだが 」 と云われ、夜が更けたがお側を離れぬようにせよ、と小声でご注意を受けた。
だいぶお酔いのご様子で赤いお顔をなさっておいでだったのだが、昭王様の御名を聞かれた途端に真剣なお顔になられたのは、よほどにご心配なされているのに違いない。
伯父上がそのまま来た道筋を戻っていかれるのをお見送りしていたら、向こう側から小さな灯りが近づいてきた。
おや?と思って見ていると、それはどうやら春麗さんのようで、叔父上と何か話しておいでだと思ううちに連れ立って急ぎ足で行ってしまった。
こんな時刻になんのご用事かと思ったが、昭王様をほんの少しでもお一人にしてはならないと気付き、すぐにおそばに戻る。
気がつけば風に乗って聞こえていた管弦の音もとうにやんでいる。 水辺をわたっていた風も吹きやんで草雲雀や蟋蟀
( こおろぎ ) がいっせいに鳴き出すと、夏の夜の暑さが急に身に滲みてきて、じっとりと汗ばんでくるのだ。
やがて昭王様が觀蓮亭をお離れになり、侍僕たちを待たせていた回廊の角までゆっくりとお進みになられると、行列はまたゆっくりと動き出す。
昭王様は蓮池をお振り向きになることもなく、そのまま紅綾殿へお入りになり、侍僕の半分は内向きの者を残してここでお側を下がっていった。
こんなに夜遅くに宴からお戻りになられたときは、すぐにご更衣なされて御寝なさるのがいつものことだけれど、今日の昭王様は珍しいことに御酒をご所望になられた。 もしも、この場に宰相さまでもいられたらお諌めになられたかもしれないけれど、侍僕はそのような意見をする立場ではないので、みな謹んで承るのだ。
二人の侍僕が拝礼して御前をさがってゆき、しばらく待つうちに丸盆を捧げて戻ってきたが、一緒に春麗さんがやってきた。
「太后様が貴鬼をお召しにございます。」
「貴鬼を?」
恭しく拝礼した春麗さんの言葉に、昭王様もお驚きなされる。 こんな夜中に太后様が起きておられるということはほんとうに異例のことで、なにか大事が起こったのかとも思ったけれど、それなら昭王様をお呼びになるはずで、まったくわけがわからない。
それでも昭王様はすぐにお許しくださり、お暇をいただいて春麗さんと御前をさがったのだ。
「こんな夜中に、いったいなんのご用事でしょう?」
「さあ、私にもわからないのですが、ともかく急ぎ参りましょう。」
通り過ぎるどの殿舎も灯りは消えて、天勝宮は夏の闇の中に沈んで見える。 起きている人間は、紅綾殿と、そしてこれから向かう斉綾殿のわずかな人数に過ぎないのだった。
急ぎ足で行くと、ところどころで衛士に誰何 ( すいか ) されるけれど、春麗さんが太后様の侍女なのはよく知られているので、会釈するだけですぐに通ることができるのだ。
斉綾殿に入るとき、交代の衛士がやってくるのが見えた。
太后様の御前にお伺いすると、驚いたことに宰相様と叔父上もそこにおいでだった。
「貴鬼、そなた、飛雲の法とやらを使えると聞きますが、まことですか?」
「え……!」
突然のご下問に魂が消し飛ぶようで、すぐにご返事ができずに叔父上を見ると、
「太后様にはすべてお話したゆえ、包み隠さず申し上げよ。」
とやさしくおっしゃるのだ。
「あ、あの……はい、できます。」
「飛雲の法で、自分以外に人一人連れてゆくこともできますか?」
そのお言葉にますます驚いて、やっと頷きはしたものの、太后様がなにを仰せになろうとしておいでなのかさっぱりわからず、ドキドキしてくる。
こんな夜中に宰相様と叔父上が太后様のところでなんのお話をなさって、それに飛雲の法がどういう関係があるというのだろう。
太后様のお声掛かりなのだから、ご身分の高いお方をどこかへお連れするとしか思えないのだけれど、いったいどういうことだろう?
「大丈夫のようですね、ムウ。」
「わたくしが幼い頃より仕込みましたゆえ、間違いはございませぬ。」
「けれども、どこにいるかわからぬ人のところへ、どうやって行くことができるのですか?」
どこにいるかわからないって、どういうことだろう。 ますます心臓が高鳴ってきて、顔が赤くなるのが自分でもわかるのだ。
「気というものがございます。気とは、人が持って生まれたもので、一人ずつ異なり、その人との結びつきが強ければ強いほど、はっきりと感じ取れるものなのです。
ましてや、このたびは、おおよその方向と距離がわかっておりますゆえ、貴鬼の腕ならば難しいことはございますまい。」
「それならば貴鬼に頼みましょう。」
にっこりなされた太后様の次のお言葉を聞いたときは、畏れながら思わず耳を疑ってしまった。
「昭王をカミュ殿のおられるところへご案内するように。」
あっと驚いて声も出なかった。 みるみるうちに涙があふれてきて太后様のお姿が滲んで見えなくなった。
それができたら昭王様はどんなにお喜びになられることか! さっきまでの打ち沈まれた昭王様のご様子が思い出され、太后様の思し召しのありがたさが身にしまずにはいられない。
でも、どうして叔父上でなく、まだ子供の自分なのだろう? 飛雲の法は叔父上から伝授していただいたのだし、昭王様にはもう十年以上もお仕えしておいでなのだもの、このような名誉なお役目には叔父上こそふさわしいのだ。
そう思ったとき、叔父上の方からそのことについてのお話があった。
「気を探ってその人のところに飛ぶには、よほどに強い繋がりを持っていなくてはなりません。
時々しかカミュ殿にお目にかからなかった私より、一月あまりの間お側で仕えしたそなたの方がカミュ殿の気を我が事のように感じているはずです。
貴鬼、そうではありませんか? 私では、カミュ殿が隣の部屋においでのときくらいしか感じることができませんでした。
これでは、薊からすでに遠く離れておられるはずのカミュ殿を捜すことはとてもできないのですよ。」
ほんとに叔父上の言われた通りなのだ。 これまでも、野駆けからお帰りになられたときには、蹄の音が門に近付くより早く、昭王様とカミュ様の気を感じていたし、お別れ間近の昨日今日は、きりきりと心に響くほどに感じられたのだった。
それでは、ほんとうに自分が、昭王様をカミュ様のおられるところにお連れするのだ! 夢のような話に頭がぼうっとなりかけたときだ、大切なことに気がついた。
「ああ、でも、できません!叔父上ほど力が強くないので、他の方をお連れするにはその方に触れていなければならないのです。 昭王様の尊いお身体に触れることなど、私にはできません。」
叔父上の顔色が変わった。
「貴鬼、そなたにはまだできませんでしたか?!」
「はい、そのころに昭王様のおそばに上がったので、あまり修行が進まなかったのです。」
「これは………なんとしたものでしょう……」
気落ちなされた太后様がつぶやかれ、あまりの申し訳なさに膝ががくがくと震えた。
昭王様をカミュ様にお会わせすることは、やはり叶わないのだろうか?
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