招涼伝 第一回


燕(えん)の都、薊(けい)から東に五里ほど進むと北から山が迫ってくる。


早朝に発つつもりであったが、昭王(しょうおう)の懇願とも制止ともつかぬ情にほだされてつい辞去しかねたカミュがようやく天勝宮(てんしょうきゅう)をあとにしたのは、夏の日も高くなった頃おいだった。
どうしてもそばから離れようとせぬ貴鬼とともに宮門から道を左にとりしばらく行くと、やがて薊随一の賑わいを見せる市場に入っていく。


東西交易路の東の最終点である薊には、遥か西域の国々から多くの品々が流れ込み、取引が盛んに行なわれていた。
物の移動は、むろん人の移動も伴なうもので、市場には希臘(ギリシャ)や波斯(ペルシャ)あたりの顔立ちの者も散見されるが、この地の人々も見慣れているのか、驚いた様子も見せぬのが普通である。
しかしながら、これが金髪碧眼ともなるとそうもいかぬ。
通り過ぎてもなお振り返ってまじまじと見る者もいれば、視線が合わぬようにと必死の面持ちで下を向いて避けて通る者もおり、双方ともなかなか難儀なことであるが、眼も髪も黒い燕の人々からすれば、よほどに珍しく、また、奇異にも映るのは無理からぬものがあろう。
そんな中で、瞳こそ青いものの、髪の色は燕の人々とさして変わらぬ自分がやはり人目を引いてしまうことにカミュは当惑せざるをえないのだが、燕の成人男子と比べても一尺余も背が高く、すっきりとした身ごなしのカミュが市場の人波を抜けていくのは、目立ってもこれはやむをえぬ。
それは燕にやって来たときも同様ではあったが、その後ひと月の間、昭王の住まう天勝宮に滞在し、王の賓客として礼を以って遇されていたため無遠慮な視線に晒されることのなかった身には、いささか面映いものがある。
聖域であればこのようなことはないのだが、と思いつつカミュは足を速めて市場を通り抜けた。
そのあたりで名残惜しげな貴鬼に説いて聞かせてようやく別れを告げると、今はこれまで、と思ったのであろう、小さな姿は振り返り振り返りしつつ、天勝宮へと戻っていった。


一人になって半里ほど行くと人家もまばらになり、農地が一面に広がってくる。
照りつける夏の陽射しは聖域と変わらぬように思えるが、大きく異なるのは夏の陽を受けて輝くばかりに緑豊かなこの土地の風景であろう。
夏季に雨が少なく岩肌の露出しているところも多い聖域に比べると、降雨量の多い燕では山の緑は深く植生は豊かであった。
やがて陽が傾き、真紅の巨大な日輪となって周囲の雲を黄金色に輝かせ始めると、あたりの緑も金色の紗をかけたように装いを替えてゆき、その美しさにカミュは思わず足を止めた。
カミュのいるその辺りは、南東を向いた緩やかな斜面になっており、その実を採って干果とするのであろう、棗(なつめ)の木が多く植えられていた。
初夏に淡い黄色の花をつけた棗は、秋も深まるころ、一寸に満たぬほどの小さな暗紅色の楕円果を実らせるのである。
山麓を巡りつつ次第に上り坂となっていくこの径も、昼日中は人馬の往来もあるのだろうが、今は通る人とてなく、そのかわりに蜩(ひぐらし)の高い澄んだ声がそちこちから幾重にも重なり合って響いている。
もとよりカミュは、それが蜩とは知らぬのだが、哀調を帯びたその声は、独特の余韻をもって、聴く者の心を内省の時に導かずにはおかぬ。
振り返れば、紅蓮の火球の沈んでゆくあの辺りがたしか薊ではなかろうか。
一月余を過ごした天勝宮で知り人となった多くの顔が浮かんでは消える中で、やはり脳裏から離れぬのは昭王のことであった。
とりわけ、今朝、出立を切り出したときのあの表情は、カミュの胸を痛ませた。
今日は日の暮れから饗宴があるのに、こんな御様子ではどうしよう、と困った顔をして貴鬼が云っていたが、今ごろどうしていることか。


夏の盛りとはいえ、さすがに陽も落ちるとあたりは急速に暗くなる。
東の空に十六夜の月が昇り始めるころには、夕焼けの残照が僅かに空の隅を彩るのみであった。
濃い群青となった夜空には、早や幾千の星が浮かび上がり、その中に見い出す見慣れた幾多の星座は、季節の移り変わりを忠実に追いつつも、聖域とさほど変わることがない。
それも道理で、薊と聖域との緯度は僅かに二度ほどしか違わぬのであった。
その星明りの中、どこからか甘くあえかな香りが流れてくるのに気付いたカミュは、ふと風上に足を向ける気になった。
辿ってきた道筋から左にそれて潅木の間を抜けると、山の手側に少し登ったところがやや開けており、大きな木が二本立っている。
近づいてみると、それは何れも三丈ほどの槐(えんじゅ)の木であった。
槐は人々に好まれているのか、薊の街中でも方々で見かけたものだが、この近辺では珍しかった。
二本の槐は枝先に今を盛りと淡い薄緑の花房をつけ、枝先を差し伸べている。
樹下より見上げると、双方の枝が翡翠の天蓋を成しており、緑の中に散り落ちた花が夜目にも白く見える。
あたりは甘く柔らかな香りで満ちていた。

夜を徹して歩いても些かも疲れるものではないのだが、先を急ぐ旅でもなく、カミュはそこで休息をとることにした。一つには、あまりに早く燕を離れることに、心残りがあったのやも知れぬ。
人中にいることは好まぬほうだが、一月あまり滞在した燕を辞し一人になってみると、想いは彼の地で過ごした日々に知らず知らず立ち返ってゆくのは否めない。


燕は豊かな土地柄で、薊の東から南西までは肥沃な平野が広がっており、北部には遠く内蒙古(うちモンゴル)に続く山地が途切れることなく連なっている。
西方の黄土高原から流れ出した河は網の目のように広がり、豊饒の大地は燕に多くの実りをもたらしていた。
二年前に薨去した先王のあとを継いだとき、昭王は十八歳の若さであったが、母后の後ろ楯もあり、その治世は安定しているように思われる。
もともと政権の基盤が確立していたのに加え、昭王の明朗闊達な性格が、臣民に好感を持たれていたといえよう。
しかし、燕の将来にわたる大きな問題の一つは「治水」にある、とカミュはみていた。
この季節、川の原流の山地に降った雨が濁流となって下流の穀倉地帯に襲いかかることが数十年に一度はあり、その度に甚大な被害が出ていたのだが、それがカミュの滞在中に起こったのである。

雲の重く垂れ込めたある朝、上流地域の豪雨が降り止まぬという知らせが早馬でもたらされ、天勝宮は一瞬にして憂色に包まれた。
過去の例からして、ニ、三日後には燕のかなりの地域が水に浸かり、その水が引くまでには一ヶ月以上かかるというのである。
人的被害に加えて畑作物や家屋の被害も夥しく、また、氾濫した河水により運ばれて分厚く堆積した土砂、泥土がその後数年間の収穫の大きな障害となっていた。
こうしたことを、カミュは昭王の侍童の貴鬼から事細かに聞かされた。
まだ八歳だというが、歳のわりに利発なこの子供は昭王にことのほか可愛がられており、カミュが天勝宮にきてからというものは、昭王のいいつけで何くれとなく世話をやき、忙しく立ち働いてくれていた。
常日頃、昭王の傍らに侍して細かな私用を弁ずる貴鬼は、この凶報とそれに続く緊迫したやりとりを見聞きしたうえで、討議の場へ赴く昭王を見送ったのちに翠宝殿(すいほうでん)にいるカミュのもとへ駆けつけてきたのである。
こうした異変は寸刻を措かず宮中に伝播していくものだが、貴鬼のおかげで、カミュがそれと知ったのは人々の中でも最も早い部類に属していたろう。
そのため、カミュには考える時間が十分にあった。

この異変の急報をうけて、直ちに昭王、太后、宰相及び文武百官による討議が開かれていたが、被害が予想される地域から人民を避難させる、という従来からの対策を一歩も出るものではなかったのは無理もない、川幅が何百倍にもなろうというほどの量の水を防ぐ手立てなどあろう筈もなかったのである。
討議の散会を待って、昭王に会うため貴鬼と共に回廊を急ぐと、そこそこに役人たちが集まって鳩首協議している姿があった。
年老いた者はみな一様に肩を落とし、諦めの表情を浮かべているが、まだ若く血気盛んな者達は、何か策はないかとしきりに論をたたかわしていた。
といって、彼等に何ら危機回避の名案があるわけもなかったのであるが。
その脇を過ぎると、話が中断されそれぞれが向き直って丁寧に辞儀をしてくるのには未だ慣れかねるカミュであったが、今はそんなことを気にかけている場合ではなく、会釈を返しながら足早に進んで行く。


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