招涼伝 第十回



氷が途切れると滔滔(とうとう)とした濁流が見えてきた。
太い流木が浮き沈みしながらかなりの速さで流れてゆき、このままではこの川幅一杯の流れが土手を越すのも時間の問題であろう。
この水が昨夜の暗闇の中でアイオリアとカミュを襲ったかと思うと、昭王には、二人が、今、生きてここにいるのが奇蹟としか思われず慄然とするのである。

氷壁の端を幾分か過ぎた辺りまで来ると、カミュは至近の小高い丘を選び、下流を可能な限り見渡せる位置で馬を下りると、両肘を心持ち曲げつつ前方に手をかざした。忽(たちま)ち金色の明るい輝きがカミュを包み揺らめいて立ち昇っていくさまを初めて目の当たりにした昭王は舌を巻き、ついで、まことに人であろうか、の念が再び湧くのを慌てて打ち払った。
これほどにいとおしいものを、なにゆえ人でないことがあろう、決して神にさせはせぬ、一人そう決めた昭王の目の前でカミュは一瞬の気合と共にその手を伸ばした。
その瞬間、両腕から白色を帯びた黄金の光が河に向かって迸(ほとばし)ると、川面に達するや両岸から逆巻く水がせり上がり、見る間に二丈ほどの高さに凍りつきながら下流へと伸びてゆくのである。
激しい水音が沸き起こり、それが忽ちのうちに下流まで伝えられると、やがてあたりは静まり返っていった。
不思議なことには、これほどに濁った褐色の水が凍ったにもかかわらず、氷壁は半ば透き通った白色であり、それが延々と続いている様は実に壮観であった。
カミュはといえば、身体を包んでいた金色の光の焔(ほむら)を静かに収めると、身軽く馬上の人となる。
息を呑んで見守っていた昭王は、従っているシャイナに向かい、
「このまま河口まで同道するゆえ、天勝宮に立ち戻り、太后にその旨お伝え申し上げよ。」
決然と、そう言い放ったものである。
昭王がこの場から天勝宮へ戻るものと思い込んでいた一同は度肝を抜かれたが、その王威にはとても抗言できるものではない。
とりわけ、独断で天勝宮を抜け出した昭王に驚いて、あらん限りの速さで後を追ってきたシャイナは、一刻もはやく無事な帰宮を、と考えていただけに困惑の体(てい)であったが、アルデバランに、
「我等が間違いなくお護りする。その間、天勝宮を頼むぞ。」
と口添えされ、仕方もなく、カシオス等を護衛に残すこととして、一人帰宮して行った。

「河口まではまだ遠い。先へ参ろう。」
シャイナを見送ると、カミュは一同を後方(しりえ)にかけて早くも丘を駆け降りてゆく。 昭王も間を置かず後に続きながら、今しがたついに見ることを得たカミュの技と姿を思い返さずにはいられぬのは当然であったろう。
氷の壁ができていることについては、半日以上遅れながらも天勝宮で報告を受けてはいたが、替え馬の任に当たった兵がカミュの技を見ていたわけではないので、昭王にはカミュが氷の壁を造るときの様子など知るべくもなかったのである。
玲霄殿で水盤の水を凍らせたおりにはただ指先を向けただけであったが、たった今見た光景は昭王の想像を絶するものであった。
河水を凍らせること自体が驚きだが、カミュを包み輝いた金色の光にしても、とても説明のつくものではなく、仏身から放射されるという光明をつい思い浮かべてしまうのも無理からぬものがある。 また、仏は黄金の膚(はだえ)を持つともいうが、この黄金の鎧のことを指しているのではないかとも思われ、考え始めればきりがない。
つい先ほどは、人の身と思い定めたはずであるのに、これほどの力を目の当たりに見せられると、その確信もゆらぎかねぬのだ。

仏身には人と異なる三十二相があるという。
その一つ一つをシャカから説き聞かされたことがあるのだが、話半分に聞き、僅かしか覚えていないのが悔やまれてならぬのだ。 シャカがいれば、いろいろと神仏の身についてあらためて問い質せるものを、あいにく五日ほど前から薊よりはるか南方の盧山の霊場に篭っていて、あと一月ほどは帰らぬのである。
その高弟二人が天勝宮に残ってはいるものの、この場合は、やはり善知識としてのシャカの卓抜した智慧こそが頼みになると思われたし、昭王にとって微妙な問題を含んでいるカミュのことを事細かに問えるのは、シャカをおいてはいなかったのだ。
もっとよく聞いておけば良かったものを、シャカが何か言うたびに、抹香くさい話だと敬遠していたことを後悔するのだが、今さら間に合うものではない。
こうして、昭王に複雑な思いを抱かせながら、この工程を二十数回ほども繰り返し、一同がついに渤海を見たのは日没になんなんとする頃であった。 この間、アルデバランの手配による十回を超える替え馬も遅滞なく行なわれたため、その速さは目を瞠るものであったといえよう。

海に近付くにつれ、潮騒の響きと汐の香りが一同の興奮をかき立てた。
兵の中には海を初めて見る者も多く、驚きの声が上がる。 幾度も話に聞き、その有様を描いた絵を見ようとも、実際に大海を眼前にした衝撃はとても言葉に現わせるものではない。
昭王にしても去年に続き、まだ二度目にすぎぬのだが、なんといっても今回の旅路の心に染みることはまた格別であった。
永定河の北岸、遥かに渤海を見渡せる大沽村の丘で最後の氷壁を造る時、厚い雲の切れ間から夕日が顔を覗かせ、一同に颯然と茜の陽光を投げかけた。
おりからカミュの身を包んでいた金色のゆらめきが一層輝きを増して皆紅(みなぐれない)の炎の色となり、その荘厳ともいえる有様に、或る者は箙(えびら)を叩き、また或る者は鐙(あぶみ)を踏み鳴らしてどよめくのだった。
カミュが金の焔を収めた後も、夕陽の残照を浴びて常にも増して燦然と輝くその姿に昭王は暫時(ざんじ)見とれるほかはなく、その場にいるものが伏し拝まぬのが不思議に思えるほどであった。
何心もない者が見ても美しいと思うであろうものを、ましてや昭王がどれほど心震わせたかはいうまでもないことである。

かくして全ての水は目の前で渤海へと流れ込み、ついに燕は救われた。
昭王は馬上のカミュに駒を寄せ、
「そなたの尽力には、いくら感謝しても、し尽くせぬ。燕の国父ぞ。」
と言うと、国父という言葉が判らなかったのであろうか、少し首をかしげて、
「私にできることをしたまでのこと。」
といいつつ顔を赤らめたように見えたが、夕陽の色が頬に射していたためかもしれず、どちらにしてもいとおしさの増すことであった。
昭王は一同に向き直り、
「いずれも大儀であった。重畳(ちょうじょう)に思うぞ。宮の皆も待ちかねていようほどに、これより帰還する。」
昂然と宣すると速(すみ)やかに馬首を返し、急坂を一気に駆け下りてゆく。
それに続く一同は、いずれも晴れやかな顔で口々に喜びを語りあい、興奮冷めやらぬ様子であったが、そんな中で、ひとりカミュの胸中には、やがて来る、燕を発つ日のことがよぎっている。
各人各様の思いを抱きながら、一行は茜さす氷壁の横を馬蹄の音を轟かせ薊へと直走(ひたはし)っていった。


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