招涼伝 第十一回
やがて日入り果てて、照りもせず曇りもはてぬ朧ろ月のほのかに夜道を指し示す頃ともなれば、互いに交わす言葉も稀になり、いつしか駒の歩みもゆるやかになる。
もはや氷壁は全てつながっており、慣れぬ夜道を無理に急ぐこともない。
日が落ちてからは、先頭の兵二名に松明を掲げさせ、カシオスともう一名の兵、アルデバラン、昭王、カミュ、アイオリアと続いて、しんがりには二名の兵が従っていた。
明るいうちは近在の農民が氷壁を見物にも来たのだろうが、夜ともなれば出歩くものは誰一人おらず、深閑とした闇の中、馬具の触れ合う音と蹄の響きだけがしじまを縫ってゆく。
松明の明りが傍らの氷壁に照り映えて、その前を行く騎馬の列がほのかに浮かび上がるさまは、幽明いずれのものともつかぬ幻とも見える。
氷壁に間近く寄れば、発散する冷気が身体を包み、今が夏の盛りであることを忘れさせる不思議さであった。
ゆっくりと駒を進めながらアイオリアはこの数日間のことを考えていた。
天勝宮を出発してからは夜に日をついでの行軍で、当初は驚異そのものであったカミュの黄金の鎧や、水を凍らせる力のことはいつしか自然に受け止めるようになっていた。
そもそも話題にするような暇もなければ、必要もなかったのだ。
しかしすべての氷壁を造り終えた今、ふたたびその不思議が頭をもたげてくる。
昭王の乳兄弟であるアイオリアは、学友、護衛も兼ねているところがあり、自邸よりは天勝宮にいることのほうがはるかに多い。
昭王から、カミュのいる翠宝殿の東側の獅藝舎 ( しげいしゃ ) を賜っており、もっぱらそこを自邸のように住みなしているのだった。
一月ほど前にカミュが天勝宮に来てからは、昭王とともにカミュと行動を共にすることも数多く、昭王の公務あるときは、カミュを誘って野駆けに行きもしたものだ。
そんな中で、カミュのことについては大体わかっているつもりのアイオリアだったが、今度のことでは驚きの連続であった。
まったく、なんという人なのだろう、燕も我等もカミュ独りの力で救われたのか、と思うと今さらながらアイオリアの胸中は畏敬と感謝の念で溢れるのである。
天勝宮を表敬訪問したカミュは、当初は長居をするはずではなかったようだが、昭王が是非にとひきとめたため逗留することになったように聞いている。
もしあの時に昭王がカミュを送り出していたら、今ごろは燕の将来は閉ざされ、我等は薊を蔽い尽くす濁水の前になすすべもなく立ち尽くしていたのかと思うと背筋が寒くなるというものだ。
アイオリアの前を行くカミュの鎧が松明の明りを受けて鈍い金の光を放っている。
闇の中でも左腕の傷に巻かれた布がかすかに見えて、昨夜のことをまざまざと思い起こさせた。
流れの急な川岸に沿って慎重に馬を進めていた時に、突然、大きな水音が響き渡り、急流に足元をすくわれかけた瞬間、一瞬あたりが輝いたかと思うと誰かの腕に抱えられ、気付いたときには川から少し離れた高台に倒れ込んでいたのである。
鉄砲水に襲われたところをカミュに助けられたのだと気付いたのは、その後のことで、二人の乗っていた馬は濁流に流されてしまったが、少し離れたところにいたアルデバランが無事であったのは幸いだった。
「二人とも無事か!!」
闇の中から安否を確かめる呼び声にかろうじて答えながらふと見ると、傍らのカミュが妙な具合に左腕を押さえているではないか。
「カミュ殿、怪我をなされたか?!」
急いで助け起こそうとすると、カミュはその手を制止し、
「少し……、岩に当たったようだが、たいしたことはない。 それより、そちらは大丈夫か?」
尋ね返すその声がいつもとは違っているように感じられ懸念が増すものの、この暗闇の中ではアイオリアも傷の具合をしかと見ることはできぬ。
急いで駆けつけてきたアルデバランがこの様を見て、曳いてきた馬の腹帯を裂き、カミュの腕に巻きつけて応急の処置をしたのだが、翌朝になってみると元の布の色が分からぬほどに血が滲んでいるではないか。
慌てて新しく布を裂き取り替えようとすると、どうやら人には傷を見せたくはない様子で、その気持ちも分からぬでもない。
カミュが瓢 ( ふくべ ) の清水で傷口を清め、布を巻きつけ終わってから、ただ一頭残った馬に渋るカミュを無理矢理乗せて、次の替え馬との合流地点までやや遅れながらも一同揃って行くことができたのだった。
昭王が異国から来たカミュに好意を抱き、手厚くもてなしていることはよくわかっており、それだけにカミュが受傷したことには責任を感じているアイオリアだったが、怪我のことを知った当初は衝撃を受けていた昭王は、その後はどういうわけか、心配するというよりは、機嫌がいいようにも思われる。
おそらく、怪我が思いのほか軽く、案ずるほどのことではなかったため、燕が救われたことのほうに気持ちが向いているのに違いなかった。
見渡せばその辺りは一面の燕麦の畑のようで、降り続いた雨でかなり穂が倒れているとはいうものの、この分なら収穫に問題はなかろうと思われる。
ほっとしたアイオリアが視線を前方に戻したとき、すぐ前のカミュの影が、一瞬だが馬上で揺らいだではないか。
すぐに体勢を立て直したはしたが、この様子では、よほどに疲れているに違いなかった。
いかに暗いといっても見間違えようはずもなく、道幅が広くなってきたのを幸い、さりげなく馬を並べて横目で見遣ると、なにごともなかったようにして駒を進めてはいるものの、少しうつむき加減にして、やや乱れた髪が額にかかり、ろうたげな面差しのただでさえ色白なのが今宵はさらに雪のように白くも見える。
寡黙な性質 ( たち ) なのはわかっていたが、宵を迎えてからは一言も口を開いてはおらず、右手だけで馬を操り、左の手は力なく膝に置かれているのも気にかかることだった。
前を進む昭王からは、その様子は見えぬようだが、気がつけばどれほど気にすることだろうか。
もっとも、昭王が轡を並べれば、無理にでも両手で手綱を持つのかもしれなかった。
連日連夜の強行軍の疲れのあまり落馬などされては、と心騒いだアイオリアが休息を進言しようとしたとき、突然、昭王が肩越しに後ろを見遣るとアルデバランに呼びかけた。
「いささか夜も更けた。 皆にも疲れが見える。 どこぞに宿を求められぬか?」
「じきに集落が見えてまいるはずです。 誰かこのあたりに詳しいものはおらぬか!」
駒を止めたアルデバランの声に、カシオスがすぐさま名乗りをあげた。
「自分はこの辺りの出身でありますが、あと小半時ほど行くと楊柳青というかなり大きい村があります。」
かなり訛りの強い、野太い声の返答に、一同はなんとはなしに心が弾む。 鍛え上げた兵でさえ、実のところは暖かい食事と寝床が恋しくなってきているのだ。
あまりにカシオスの訛りが強かったのでカミュには聞き取りにくかったのでは、とアイオリアが伝え直すと、さすがにほっとしたようで笑顔を見せた。
それからはカミュを中に挟んで三頭が並んで進む。 今宵の宿の当てができたこともあり、疲れの見えていたカミュの気を引き立てるかのような昭王の冗談に笑いさざめきながら行けば、暗い夜道も苦にはならぬというものである。
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