招涼伝 第十四回


部屋の中央に大きな円卓が運び込まれると、家人総出で立ち働いたとみえ、急なことにもかかわらずかなりの皿数が卓に並び、温かいものを久しく口にしていなかった一同をおおいに喜ばせたものだ。 薊ではおよそ見かけぬ食材も多くあり、特に様々な形の餃子が昭王をいたく珍しがらせた。
盃に注がれる桂花陳酒の甘い香りが、綿のように疲れていた身体をさらに解きほぐすのはいうまでもなく、話題は当然の如く今回の遠征のこととなる。
今朝方、合流してのちも、馬替えの際にわずかばかり小休止するのみであったので、昭王も詳しく話を聞く暇とてなく、天勝宮を出発してからの様子は今初めて耳にすることであった。
「すると、やはり最初の時点で決壊箇所に行く手を阻まれたというのか。」
盃を運ぶ手を止め、昭王はアイオリアを見た。
「はい、思わぬところで堤が切れており、濁流に遮られたときはどうなることかと思いました。」
「迂回しようにも、どこまで行けば向こう側に渡れるかしれたものではありませぬ。あの時ばかりは、このアルデバランも立ち往生したものですぞ。しかし、さすがはカミュ殿ですな。」
そう云ってカミュを見ると、酒が回るのが早いとみえて、既に目のふちを赤くして黙している。
「我等が、行く先を変える相談をするより早く、あっという間に決壊した箇所に氷壁を造られたのには肝を潰しましたぞ。」
「まことに驚きました。確かに天勝宮で話は聞いてはおりましたが、百聞は一見にしかず、とはまさにこのことでありましょう。実に見事なものでした。」

聞くほどに昭王の胸には、思い切って天勝宮を抜け出し、渤海まで同行した喜びが涌き上がってくる。 この機を逃そうものなら、いかに口惜しく、後々まで悔いを残したか知れはせぬ。
今宵の昭王はよほどにくつろいでいるとみえ、白い単衣のなよやかなのをしどけなく着なして、屈託なげに頬杖をついているところなどはなんともいえず魅力があるのだった。 その昭王に一献さしたアイオリアは、誉め言葉に面映そうなカミュの様子を見て、居住まいを正し、話を変えた。
「ときに、今朝のことですが、天勝宮を留守にされることにつき、どなたかとご相談なされましたか?我等もぜひ、カミュ殿の技をお見せ申し上げたいとは思いましたが、まさか王御一人でおいでになるとは予想もいたさぬことでしたが。」
昭王が一人で永定河に来た時点で、誰にも言わずに宮を抜け出したことは容易に想像がつき、また、そのときの様子も道すがらシャイナに聞いてはいたが、昭王の目付け役も兼ねているアイオリアとしては、これを訊かないで済ませるわけにはいかなかった。
盃を空けた昭王、得たりとばかりにうち笑ひ、
「だれが打ち明くるものかは。 ひとたび意を洩らせば、宰相あたりが聞きつけて意見をしにやってくるのは必定ぞ。 事前に馬の用意をさせるにしても、いかに口止めしたとして、後になってその者が咎められるのは知れたこと。 ゆえに誰にも云うてはおらぬ。 もっとも、今日、瞬が馬寮に詰めていることだけは、さりげなく確かめておいたが。」
馬寮の役人の中でももっとも機転がきき、昭王の寵愛しているのは瞬である。
雨や公務で馬に乗れぬ日にも必ず馬寮に立ち寄り、馬の様子を見る昭王が、昨日も瞬に言葉を掛けるのは当然であり、怪しむ者は誰もいなかった。 こうして昭王は、馬寮で諸官、侍僕に取り囲まれながら、渤海行きの成算を得たのである。
今朝も、前触れもなく現われた昭王の 「 鞍を。」 の一言で、望み通りの馬を即座に引き出し、好みの鞍を手早く乗せたのみならず、行き先を察したのか、馬の腹帯をきつめに締め、前輪に水の瓢を二つ括り付けるまでに心利きたることをしてのけたのは、さすがであった。 いま少し年経れば、馬寮の長官を任せようとの心づもりの昭王である。
「帰還すれば宰相がとやかく云うであろうが、なに、かまうものか。 この未曾有の国難に……」
突然、言葉が途切れ、はっとしたアイオリアが昭王を見ると、その視線はカミュへと注がれている。 そのカミュは先ほどまで静かに話を聞いていたはずが、眼を伏せて少しうつむき、眠っているようにも見えるではないか。
指先まで赤くなった手を膝におき、それでも端正に背筋を伸ばしているが、かすかに聞こえているのはなるほど寝息に違いなく、首が微かに揺れている。
燕王の前で眠るというのは有りうべからざる非礼であり、昭王と共に有ることの多いアイオリアにしてもかつて一度も見聞きしたことがなかったが、この数日間の疲れを考えると、さもありなんとこそ思われた。
こんなとき、アイオリアの知る今までの昭王ならば、興がったであろうものを、今宵は、優しい眼をして声を抑えながら、
「つい長話につき合せてしまい、悪いことをした。早く寝かせねばならぬな。」
と言うと、そっとカミュに声を掛ける。
その声にはっと目覚めて、自らが寝入っていたことに気付くと、カミュはさすがに狼狽の色を見せ、酔いに染まった頬をさらに赤くした。 国、時代を問わず、貴人、それも最高位にある者の前で眠ることが如何に礼を失する行為であるかは、考えるまでもなかった。
「これはとんだ不調法を……」
「そんなことはかまわぬ。 救国の士には、王の前でも眠る権利があろうというものだ。」
うたたねとはいえ、普段は見られぬカミュの姿を見た昭王は、密かに心の弾むのを覚えずにはいられない。
そのカミュを促して、アイオリアが隣室に連れてゆこうとすると、
「よい。たまには人の世話もしてみよう。」
これも酔いの回ったらしい昭王がゆらりと立ち上がった。
それは、と腰を浮かしかけたアイオリアだったが、アルデバランに制止され、ためらいながら再び腰を下ろす。 止めなかったところをみると、アイオリアも相当に酔っているのかもしれぬ。
「今宵は無礼講ゆえ、そのくらいはよかろう。 王のお心のままになさればよいのだ。 どのみちカミュ殿の世話など、女ではあるまいし何の手もかからぬ。 ただ 、隣りへお連れするだけのことではないか。」
そう云ってアルデバランは次の瓶子に手を伸ばし、アイオリアの盃を満たす。
昭王は酔った二人にちらと目をやると、カミュを伴ない、隣室へ姿を消した。


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