招涼伝 第十五回


人に侍されていないこのような酒宴は、昭王には初めてのことである。
これが天勝宮であれば、内宴であろうと陪食であろうと、十人からの人間が出入りをし、室内にも常にそれぞれの侍僕が、拝承することはないかと全身を耳にしているものなのだ。
特に、昭王の傍らには年嵩 ( としかさ ) の侍僕頭が侍しており、その合図一つで更に後ろに控えている侍僕達が音もなく動くのである。 盛夏ともなれば、長柄の団扇であおぐ者も控えている。
あまりにも当たり前のことであるので、昭王もアイオリアもアルデバランも気にしたこともなく、また、方々の宮廷を垣間見たことのあるカミュもそれを当然と受け止めている。 政 ( まつりごと ) や内向きの洩れては困る話ならば、その時々に人払いをするだけのことであった。

しかし、ここ楊柳青では、貴人の接待など嘗てしたことがない。
昨年、昭王が燕の各地を視察した折りには、永定河沿いの街道から少し離れている楊柳青の人々は、半日も前から街道沿いに出て行幸の列を待ちうけ、いざ昭王が通った時には深く遥拝していたため、その姿を見てもいないのであった。
宮仕えを経験したことのある者も村にはおらず、夜更けてからの燕王の突然の訪問に遺漏なく対応できるはずもない。 昭王を迎え入れたとはいえ、どうすればいいか一向に分からずに困り果てている家人の様子を見かねたアイオリアが、食事と寝所の用意だけを頼んだのは当然のことであったろう。
それだけをすれば、後は母屋にいてもいいと分かると、家人も恐縮しながらもいかにもほっとした様子であった。 その他細かなこと一切をアイオリアが取り仕切り手配したのだが、そのようなことはアルデバランや兵士たち、ましてや異国人のカミュにはとてもできるものではなく、昭王には知る由もないのだがアイオリアの気の使いようは実は大変なものであった。

さほど身分に縛られぬアイオリアやアルデバランならば、自邸で侍僕たちを下がらせたうえで、夜っぴて酒宴、というのもままあるのだが、昭王にはおよそ考えられぬことである。 そのようなことを望もうものなら、すぐに 「 宰相がやってくる 」 のであった。
それだけに、この旅先の鄙の宿でのささやかな酒宴の珍しさは、昭王を喜ばせていたのである。 最初で最後かも知れぬこの夜にカミュが共にいることも、密かな歓びであった。

隣室には小さな灯りが一つともり、室内の様子をほのかに浮かび上がらせている。 すでに寝台が三つ用意されているところをみると、奥の間には昭王のためのそれもあるに相違なかった。 外に面した窓は開け放たれているが、真夏のことで室内はかなり蒸している。 それでも天勝宮よりは過ごし易いかもしれなかった。
外から聞こえてくるのは虫の音ばかりで、昭王にも耳慣れた蟋蟀 ( こおろぎ ) や松虫に混じってひときわ美しいのが、どうも邯鄲 ( かんたん ) の声らしい。
「さぞかし疲れたであろう、傷は痛まぬか?」
「いや、さほど。 たしかに疲れはしたが、それよりも、なんとか氾濫を防げたことに安堵している。 あとは、水位が下がったのを確かめたうえで氷を解かしていくだけだ。」

   氷を解かしていくだけ、か………

昭王は胸の中でその言葉を繰り返した。 それが滞りなく終わったら、カミュは燕を去るのだろうか。 ずっと胸の奥にわだかまり、自分でも触れるのを避けている、認めたくない先行きが昭王を見つめていた。
初めて天勝宮にやってきたときから、西比利亜 ( シベリア ) にいく途上だと云っていたカミュである。 急ぐ旅ではないのだろう、薦められるままに滞在し、野駆けも共に楽しむまでになってもくれたのだ。
これからカミュの向かう西比利亜は、雪と氷の国だという。 夏が終わるまでに行くのが良いというカミュの言葉を思い出すたび、暑さが終わらぬようにと心密かに念じていた昭王であったが、さすがに日も経ち、そろそろ出立を言い出すのではないかと気に病んでいた矢先に起こったのが今回の水難であった。 その後始末が終われば、いかにも長逗留の理由を無くしたかのように旅立つのが自然なようにも思われる。
行かないでほしい、できればいつまでも燕にとどまり、自分と共にあってほしい、と言えばカミュを困らせるだけであるのはよく分かっていた。 それでも、何も云わずに行かせることなど、いったいどうしてできようか。
明日、天勝宮に戻ってしまえば、二人だけでいる機会は無いも同然であった。
カミュが来てから余人を交えぬ時間など僅かに数度、それも極めて短い偶然の所産ではなかったか。
異国の客人であるカミュと、人を去らせてまで話すことなどあろうはずもない。 人を遠ざければ確かに誰にも聞かれぬが、その代わりに、人払いをしたことだけは隠しようもない事実として残るのだ。
心のうちを伝えるのは、今をおいてはないと思われた。
「カミュ……もしも……」
自分でもおかしいほどに喉の奥が震え、あとの言葉が続かない。
ほの暗い中でも我が頬がかっと熱くなったように感じられ、カミュに気付かれはしないかと思うとますます動悸が高まってくるのであった。
その沈黙に、よほどに日頃の昭王らしからぬ様子が感じられたのだろう、振り返ったカミュがいぶかしげに昭王を見詰めた。 昭王には、部屋の空気が急に密度を増したように思われた。



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