招涼伝第十六回


そのとき、廊下に面した扉の向こうから誰かが呼びかける声がした。
生じ始めていた緊張が解け、すっと身を返したカミュが扉を開けると、灯りを持った少年と、なにやら白いものを捧げ持った男が立っている。
「何か?」
カミュが問うと、わずかの灯りの中でもカミュの青い目と異国の顔立ちに気付いたのであろう、あっと驚いた顔をしてものも云えずに立ち竦み、話にもなにもなったものではない。 重ねて問い掛ければ、さらに緊張したようで、逃げ出したいのを必死にこらえているようにも見えるではないか。
異国の人間を見慣れている薊の者でも、面と向かって話をする機会のある者は稀である。 ましてや、薊から遠く離れたここ楊柳青では、異国の存在や、眼の色が違う人間がいることについては何の知識もないものと考えられた。
仮に、金髪碧眼の人間を見ようものなら、いったいどんな騒ぎになることか。 情報があまねく伝わる時代ではないのである。
それに、カミュの背の高さにも驚いたのに違いなかった。
門の前では、昭王一行が馬に乗っていたのに加えて、家人のほうは辞儀ばかりをしていて、ろくに昭王たちを見てはいないのである。 兵の持つ二本ばかりの松明の明りでは、昭王の陰にいたカミュの眼の色どころか黄金聖衣に気付いたかどうかも怪しいものであった。

それはさておき、一向に話が進まぬのに困惑したカミュが、どうしたものかと振り向くと、小さく溜め息をついた昭王が替わって進み出て、話を聞くことになった。
目の前に立っているのが、やはり同じく背の高い貴人とはいえ、まさか燕王その人とは思わぬのであろう、男は明らかにほっとした色を見せ、
「新しく寝衣を縫い上げましたのでお召しください。」
と言って、昭王にたたみ重ねた寝衣をおずおずと差し出した。
差し出した方もさぞかし緊張したろうが、昭王も予期せぬこととて当惑したものだ。
常に大勢に囲まれている昭王にしてみれば、このような状況のもとで人から物を受け取るなど初めてのことである。 天勝宮で昭王に献じられる品物は様々であるが、その軽重に応じて、例えば他国からの親書ならば宰相が、それほどに重要性のないものならば侍僕が受け取ったのち、昭王が披見するのが通例である。それも綾錦の袱紗に載せて恭しく献じられるのであった。
昭王が直接に物を受け取るとすれば、その相手は対等の間柄、たとえば太后であろうか。 ほかには、さよう、よほどに胸襟を開いた仲らいであるなら別かもしれぬ。
一瞬のためらいのあと、自分で受け取ったと言ったら、さぞかしアイオリアが呆れ返ることだろうと思いながらそれを手にし、少し考えて、
「大儀である。」
と云うと、よほどに聞き慣れぬ言葉だったに違いない、男は一瞬あっけに取られた顔をしたあと、慌てて礼をして下がっていった。 灯りを捧げた少年も急いで頭を下げるとそのあとを追って行った。
適切な応答ではなかったのかも知れぬ、と苦笑しながら扉を閉めて振り向くと、カミュが奥の寝台に腰を下ろし、額に手を当ててうつむいている姿が目に映り、昭王をはっとさせた。
「つい、酒を過ごしたようだ。すまぬが、先に休ませていただこう。」
そうはいうものの、それほど酒量が進んでいたようにはみえなかった。 おそらく盃を四、五杯干しただけではなかったろうか。
ここ数日来の疲れが出て来ているのだろうが、それを云えば昭王が気にかけると考え、酔いのせいにしているに違いなかった。
薊を出立してから連日の厳しい行軍が続き、まともに寝るのは今宵が初めての筈で、疲労が昂じて一刻も早く横になりたかったかもしれぬのに、どうして早く気付いてやれなかったかと、昭王は自らを悔いた。
水難を回避できた喜びについ時を忘れていたが、馬に乗りなれておらず、また氷壁を造るためにその持てる力を使ったカミュがどれほど疲れていたことか。 遅まきながらそれに気付いた昭王は蒼ざめずにはいられない。
天勝宮では、昭王を前にして 「 先に寝る 」 などと言える者は皆無である。 周囲の者すべてが昭王の意向を伺い、その意を受けて動くのに慣れきっていたことに昭王は今ようやく気付いたといえよう。 楊柳青の今宵は無礼講であったが、そのようなことがカミュにわかるはずもなく、ひたすらに耐えていたのではあるまいか。
疲れを払い落とそうとするかのようにカミュが軽く頭を振り長い髪が揺れたとき、ふいに昭王は、カミュをかき抱き、できるものなら疲れを癒してやりたいという衝動に駆られたものだ。
これには自分でも驚いたのだが、背に流れる黒髪ごとこの手で抱きしめられたら、という思いはまさしく本物であったろう。 ここでそれができたらどんなによかろうものを、今はまだ、手をこまねいて見ていることしかできぬ自分が口惜しく思われてならぬのだ。
昭王は、寝衣をカミュの側の寝台に置くと、自分の分を一つ取り、
「ゆっくり休むように」
と声をかけ隣室に戻っていった。 心のうちを語るには、そもそも時も場所も向いていなかったのである。




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