招涼伝 第十七回


かなり夜も更け、母屋から聞こえていたざわめきもすでに途絶えていた。

心尽くしの寝衣に着替えたカミュが綿のように疲れた身体を横たえると、こんな土地でも天勝宮と同じく陶の枕を使っているのが面白く思われる。
カミュが翠宝殿で使っていた陶枕は、達者な筆致で水中に群れ遊ぶ魚と水草を描き、鮮やかな青の濃淡が涼しげな佳品である。 両の側面には熱を逃がすためか、いくつか穴が開いている。
希臘(ギリシア)をはじめとする欧羅巴(ヨーロッパ)ではついぞ見かけぬもので、カミュも驚いたのだが、貴鬼の云うには、暑い夏の夜にはこのほうが涼しく眠ることができるのだという。 これほどに硬いものでは眠れないのではないかと危ぶみはしたものの、使ってみれば丸みを帯びた形が思いのほか首筋に馴染み心地良いものだったが、最初の晩にカミュを悩ませたのはもう一つの点だった。
この枕は、中で香をくゆらせる仕掛けになっており、側面の穴は熱を逃がすためだけでなく、そのためでもあったのだ。 最初の晩は慣れない香りに戸惑いながら寝てはみたものの、どうにも気になり、かえって熟睡できぬようだったので、翌朝になり、洗面のための湯を盥(たらい)に運んできた貴鬼に、香をはずしてくれるようにと頼むと、どうやら焚く香の種類まで工夫をこらしていたらしく、いかにも残念そうにしながら香を除けてくれたものだ。
貴鬼の云うには、この香は神経を休めるだけでなく、寝ている間に髪に芳しい匂いを移すことができるので、貴人は皆、それぞれ好みの香を使っているという。 昭王が使っているのは採蘇羅 ( さそら ) という香で、生まれた時にそれと定められて以来、禁香とされ、ほかには誰一人使うものはいないのであった。
高価なものは同じ重さの白銀と等しい値段で取引されるというのにはカミュも驚いたが、昭王からいつも同じ涼やかな香りがするのは、なるほどそういうことかと納得できたものである。

ここ楊柳青の陶枕は白地に青で簡素な花模様が描かれており、上面中央には大きな文字が一つ書いてある。おそらく安眠を願う意味が込められているのだろうが、あいにくカミュには何の意味かは全く分からぬ。
よい香りがするのは、どうやら中に香草を乾燥させたものが入っているようで、翠宝殿の最初の晩の香よりもはるかに爽やかなものだったのが妙に可笑しい。 このことは貴鬼には云わぬ方がよかろうと思ったことであった。

さて、こうして手足を伸ばし、落ち着いて寝るのはさすがに久しぶりのことで、かえってすぐには眠れず、カミュの胸中を様々な思いがよぎって行く。
氷壁を造ることは、思っていた通りそれほど困難ではなかったが、先を急ぐあまりに、夜間もゆっくりとではあるが駒を進めることも多かった。
豪雨を避けるため大樹の陰に寄り、馬の背で仮眠を取ったこともある。木の間を洩れてくる雨の雫はその場で気化させたものの、熟睡できるというわけではむろんなく、雨を防ぐことがかなわなければ、全員が肺炎にでもなっていたに違いない。
それに、ほとんど馬に乗り詰めだったのも身体にはかなりこたえていた。日に数時間、好天下の野駆けをするのとは大違いで、その疲労は予想を遥かに上回ったのだ。 馬替えの際には、アルデバランが馬を連れて待機していた兵に問い質し、一番扱いやすい馬をカミュにまわしてくれたので助かったが、それでも苦労は多かった。
雨天の騎乗は、できることならもう願い下げだが、昭王との野駆けなら、燕を去る前に今一度行ってみたいとカミュは考えている。
蒼穹の空の下、どこまでも続く草原を駒を走らせてゆくのは、燕に来て初めて知った喜びであった。
とても及びもつかぬが、昭王もアイオリアもまことに馬巧者で、 「鞍上 ( あんじょう ) 人なく鞍下 ( あんか ) 馬なし」 というのだと、これは貴鬼が教えてくれたことなのである。
二人とも弓矢に巧みなことは驚くばかりで、特にアイオリアの技は目を瞠るものだった。 思い返してもなんと野駆けの楽しかったことだろう、それに昭王もアイオリアもまことに話し上手で、異国から突然やって来た自分に対してなんの分け隔てもなく接してくれるのだ。
特に昭王の自分を厚遇してくれるのにはまた格別のものがあるように思われ、それとなく貴鬼に訊ねてみると、今までにも異国の客人を逗留させたことは幾度かあるが、一月余も留まった者はないという。 それに、翠宝殿は践祚以後成年に達するまでの間、昭王が常の御殿としていたところで、紅綾殿に引き移ってからは誰を住まわせたこともなかったというのだ。

「その翠宝殿にカミュ様がお入りになったので、別格のお扱いをなさることだ、よほどに大切な御客人なのだろう、という噂でした。」
どうやら翠宝殿は、貴鬼が初めて天勝宮に上がったときに最初に足を踏み入れた殿舎のようで、よほどに思い入れがあるらしい。 その日以来立ち入ることができなかった翠宝殿で、カミュの世話をできるのがずいぶんと嬉しいらしい口ぶりであった。
カミュは、貴鬼が子供だからといって、とりたてて遊び相手になったりはしないのだが、どういうわけか貴鬼のほうから慕い寄ってくるというところがあって、話し始めれば尽きることがない。
特に、貴鬼が昭王を崇敬することは並大抵のものではなく、カミュも 「 昭王様のご立派さ 」 についていろいろと聞かされたものだ。
そこには子供なりの誇張も混ざってはいるものの、その観察が正しいことは、ほんの僅か接しただけのカミュにも頷けるところである。 燕の昭王は確かに国を率いるにふさわしい人物であり、またその魅力には抗し難いものがあるとカミュは考えている。
その昭王に縁あって手厚くもてなされていた間に起こった水難を、自分の持てる力で回避できたことにカミュは深い喜びを感じていた。
アテナの聖闘士となって以来、多くの闘いを経てきたがそのいずれも人の命を奪うものであったことは否めない。如何に正義のためとはいえ、その度に幾許かの良心の呵責を感じなかったかといえば、これは嘘になろうというものだ。
しかし、今度のことは、すべて人の命を救うために自分の力を使うことができたのだ、それを思うとこの身体を蔽っている疲れさえも心地良く感じられようというものである。
特に、暗く沈んでいた昭王が一転して明るい表情を見せていることがカミュにはたいそう嬉しくてならぬ。 やはり昭王には笑っていて欲しい、それでこそ昭王なのだ。
ことによるとその笑顔を見たいがために、このとんでもない難局に名乗りを上げたのかもしれなかった。

    笑顔をみたいだけ? 果たしてそれだけか? 
    ・・・・・・いったい何を期待しているのだ?
    自分は昭王のことをどう考えているのだろう・・・・・・・・・・・・。

そんなことをとりとめもなく考えているカミュの耳に、隣室から昭王とアイオリアが声を落としてなにごとか話しているのが聞こえてきた。

「この場合は 『 推 ( お ) す 』 が良いと思うが。」
「いえ、やはり 『 敲 ( たた) く 』 のほうがよろしいかと。その証拠にうまくいったではありませぬか。」
「では、『 兵 』 はいかがなものか。いささか風情に欠けよう。 『 壮士 』 もいまひとつ当てはまらぬ。いっそのこと、『 僧 』 は如何に。」
「『 僧 』 とは。 これは妙案。」
「であろう。 会心の作ぞ。」

声をひそめた二人の話が続くなか、アルデバランの声は聞こえず、どうやら一人で飲み続けている気配である。
いったい何のことを話しているのかと訝っているうちに、さすがに眠りが足りないのだろう、いったんはおさまっていた頭痛がまたぶり返してきたようだ。
幾度か寝返りをうっているうちに、カミュはいつしか深い眠りに落ちていった。

 
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