招涼伝 第二十七回


天勝宮の朝は早い。
暗くなれば動けなくなる道理であるから、いきおい人々は空が明るくなると同時にそれぞれの仕事に精を出すことになる。
貴人の方が起きるのは遅いのはそれを踏まえてのことで、仮に昭王が夜明けと同時に野駆けに行こうとでもしようものなら、
御側係、御衣係、厨師に始まって、厩舎の役人、門の衛士、警護の近衛の騎馬隊に至るまでどれほどの人数が暗いうちから動かねばならぬか想像だにできぬものがある。
太后、昭王が起き出すのは、それらの人々が充分に用意を整えてのちのことなのであり、むろんカミュもその例外ではない。
本来早起きな性質(たち)のカミュだが、天勝宮に来て最初の朝、常の習慣通りに夜明けとともに起床したところ、次の間でようやく起き出したばかりの貴鬼と鉢合わせをしておおいに慌てふためかせて以来、やむなく起床を遅らせているのであった。

今朝もとうに目は醒めていたのだが、いつものように貴鬼が声を掛けてくるまでは臥所から離れることもならず、いささかつらいものがある。
ただでさえ風もなく寝苦しい夜の眠りは浅く、かてて加えてこの数日の物思いがカミュをさらに思い悩ませていた。

「カミュ様、お目覚めになられましたか?」
貴鬼が御簾の向こうから声を掛けるのを合図に、カミュがほっとしたように起き出すのはいつものことで、すでにそれがわかっている貴鬼と顔を見合わせて笑うのが毎朝のことなのである。
「お召し替えを」
大きな塗盆に貴鬼が用意してきた衣装は白綾の長衣と白絹の細帯で、いずれもつやつやと光を帯びているようにも見える。
「あまり白すぎはせぬか?」
寝衣を脱ぎ落としながらカミュが首をかしげると、
「いえ、カミュ様には白が一番お似合いになります。先日も昭王様が、そう仰せになられました。」
にこにことして答える貴鬼もそう信じて疑わぬようである。
そういえば、燕に来てより昭王から贈られた衣装は確かに白地が多いことに思い至るのだ。
「御髪のお手入れが終わるころには朝餐の用意も整います。きっと昭王様がおまちかねになっておいでです。」
貴鬼の手が届くようにと低目の椅子に掛けたカミュの長い髪を丁寧に貴鬼が梳いてゆく。
「私の世話を貴鬼一人でこなすのは忙しくて困りはせぬか? 昭王様のお世話をする者が多いのは当然だが、アイオリア殿にも常に五人ほどの侍僕がついているように思うが。」
「いいえ、天勝宮の他の貴人方とは違い、カミュ様はご自分のことはご自分でなさることが多いのでそれほど忙しくはありません。それに、カミュ様が天勝宮においでになったとき、昭王様から、カミュ様のお世話はできるだけ一人でするように、と仰せ付けられていますから。」
それは、カミュには初めて聞く話で、気にとめずにはいられない。
常日頃、翠宝殿の中で立ち働くのは貴鬼だけで、たまの賀宴などの用意のために太后付きの春麗が幾度か入ったことがある程度なのだった。
大人の侍僕を一人もつけず、子供の貴鬼一人に任せているのはなぜなのか、もう少し詳しく聞こう、と思ったときには、髪の手入れも終わり、腰の帯に象牙の佩玉が下げられている。
なんとなく機会を失ったままで、カミュは紅綾殿へと足を向けた。

早朝の回廊は夏とはいえ涼しい風が吹き、カミュの白い衣装が遠目にも涼しげに目立って見えているのに違いない。
遥か離れたところを通る宮女たちがしとやかに拝礼をするのに合わせて、カミュの方も軽く答礼をする。
「明日は趙の御使節が天勝宮においでになるので、また忙しくなります。」
「ほう! この頃は宴続きで貴鬼も疲れるであろう。」
「いいえ、いろいろなご用事を仰せつかり、出たり入ったりしますから気も紛れてあっというまに時間がたちます。
それに、みな、自分のお仕えする方のお召し物には気を入れて用意いたしますから、太后様、昭王様をはじめご出席の方々のお召しになるたいそう御立派な衣装を拝見するのがとても楽しみです。」
なるほど、宴があるたびに、カミュの新しい衣装が届くわけである。
昭王だけでなく太后もカミュの衣装を気に掛けているらしく、どれも贅を尽くしたもののようでなんとも恐縮せざるをえない。
「先日の宴の昭王様の衣装もまことに見事であったな。」
「はい。」
崇敬してやまぬ昭王のことを褒められた貴鬼は、得意そうに胸を張る。
昭王が正宴の衣装を二度着ることはなく、明日の華やかであるはずの正装をカミュに見てもらえることも貴鬼の密かな喜びなのだ。
「けれども、昭王様はたくさんの人が集まる正宴があまりお好きではないので、もしかしたらお疲れかもしれません。昭王様は、お親しい内輪の方々でお集まりになる内宴のほうをお好みになられます。でも、明日の宴はお慶びごとの御相談かもしれませんから、また別かも。」

話しながら紅綾殿まで来ると、すべての扉が開け放たれ、出入りする人の姿も多いのは、さすがに燕王の常の御殿である。
カミュの姿を待ち受けていた宮女に導かれて奥まで行くと、待ちかねていた様子の昭王が佩玉の音に振り向いて驚いたような表情を見せた。
来るのがわかっていて何故? という気持ちが表情に出たのだろうか、昭王が笑いながら、
「そなたには白が似合う、と思っていたところに、まさしくその通りの姿で現れたゆえいささか驚いたのだ。貴鬼が選んだのであろう?」
と控えている貴鬼を見る。
「御意に。」
嬉しそうに答える貴鬼がいかにも満足げにしているのが、カミュには可愛く思われるのだ。

促されて腰掛ける重厚な作りの猫足の食卓には、太后から毎朝届けられるという百合の花が祥瑞の花瓶に生けられ、朝露を含んで芳香を放っている。
朝餐は滞りなく進み、昭王も時々考え込む様子を見せるものの、冷茶を喫しながらいつも通りに話を弾ませていたそのときだ。
「昭王………」
いかにも改まった様子のカミュの声が昭王をびくりとさせたのは、そのことを心の隅で予感していたためかも知れぬ。
「一月余の長きに亘り逗留していたが、もはや夏も終わろうとしている。」
昭王が蒼白になり、わずかに身を震わせたように見えた。
「明朝、発ちたいと思う。 お許しいただけようか。」
目を伏せたカミュが静かに告げた。
昭王が、部屋の隅で静かに泣いている貴鬼に気付いたのは、かなりあとのことであった。


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