招涼伝 第二十八回


まことに、振り返れば胸中に浮かぶ思いは尽きることがない。
久しぶりに旅に出た心地よい手ごたえと、わずか一月余とはいえ、馴染みかけていた燕を離れたことに対するいいようのない喪失感が拮抗してカミュを捉え離さなかった。
寄りかかっている槐の木の、風にそよぐやわらかい葉ずれの音も、否応なしにあの日の野駆けを思わせる。
考えまいとしても、あの時の昭王の真摯なまなざしと、ついに語られることのなかった言葉がカミュを思い悩ませていた。
自らの中に新たに生まれた感情に戸惑うばかりのカミュの目に、これから越えるであろう河の流れが映る。
あたりにはもはや人家もなく、月の光に川面のわずかに光るのが見える程度の小河であったが、先日の豪雨の折には御他聞に洩れず氾濫したに違いなく、河岸の草木もなぎ倒され水に浸かっていたらしい様子がこの高みからでも月に照らされてはっきりとわかるのだ。。
この流域には耕地もほとんどなく、ついにカミュ達も回りきれなかった地域の一つであった。



燕に至るまでに通ってきた何処の国も治水には神経をつかっており、それなりに努力しているのがうかがえたものだ。
燕の西方にある蓁も中原の強国で、侮れぬ力をもっているのが、初めて訪れたカミュにも容易にみてとれた。
以前は、辺境の地、と軽侮の対象になっていた秦だが、今では急速に力を蓄えること著しく、蓁王の支配力は国の隅々に及び、戦国七雄の覇者とならんとする意志が感じられるのである。
今はまだ外交手段によって自国の地位をより強固なものにしようとしているようだが、いつなんどき、力で他国を捻じ伏せにかかるかと警戒されている国でもあった。

何処の国の支配者も他国の動静を知ることには多大の注意を傾けるものであり、遠来の旅人を間近く招いて話を聞こうとするものだが、蓁王サガもその例外ではない。
秦を通行するための査証を求めに来たカミュが、諸国の事情を聞きたい、という高官の求めに応じて昼食の饗応を受けることになったのもそう珍しいことではなかったが、その場に秦王サガ自らが不意に姿を現したのは予想外のことであった。
秦の都、咸陽宮は重厚にして荘重な趣きで、無意識に秦王が壮年であるかのように思い込んでいたカミュにとっては、意外にもサガは眉目秀麗、長身の青年王で、その弁舌は爽やかなものであった。
その知識は遠く亜剌比亜(アラビア)以西にまで及び、旺盛な知識欲がカミュを驚嘆させる。
その場に連れ立って現れた王妹、近隣諸国に鳴り響く美貌の持ち主薔薇公主は扇の陰からカミュを見て瞠目したものであるが、カミュがとりたてて賛美の詩を献呈するでもなく丁重に拝礼しただけだったのが癇に障ったのだろうか、早々に退席し、サガを面白がらせたようである。もっとも、そのあたりの事情は、遠来のカミュには想像も得出来ぬことであった。
サガは、カミュが控えめながらも披瀝した豊富な新知識、洞察力に興味を惹かれたのか、咸陽宮に逗留することをしきりと勧めたのであるが、先を急ぐから、という理由で断ったのは、あとから考えれば燕のためには最良の選択であった。
もし、カミュが秦に長逗留でもしていようものなら、燕を水難から救うことは到底不可能であったし、昭王と会うこともなかったはずなのである。

サガに先を急ぐと言ったのは別に口実ではなく、シベリアに行くのが当初の目的である以上当然のことだったのだが、その自分が同じく通過地点に過ぎぬはずの燕に一月余もいることになろうとは、カミュの思いもせぬことであった。
蓁は、活力のある中にも、その治世は秋霜烈日、一種の張り詰めた緊張感があり、それが息苦しささえ感じさせたものだが、燕の領内にひとたび入るや、村や町には、政務寛厚にして威刑に任ぜずの趣きがあり、その明るく伸びやかな雰囲気がカミュをおのずから寛がせていたと云えよう。

それが明確な形となって現れたのは、カミュが天勝宮を訪れたときであった。
秦に引き続いて順当に魏、趙を通過し、渤海に程近い燕に入ったカミュが薊に着いたのは夏も盛りになろうとするころである。
諸国の事情を求めたがるのはどの国も同じことで、時に、その土地の事情に通じた者を差し向けて様子を探らせることもするが、この時代、異国の旅人を間近く招いて、その話を聞き取ることも大いに行なわれており、それらの話の殆んどは既に聞き知ったものであることが多いのだが、時には千金にも値する話が聞けることもままあった。
この習慣は旅する側としても益があり、商人などにはそのあとに供される食事は得がたいものであるし、また、旅券に査証をもらうことが身分証明と安全保障を兼ねることにも繋がっていた。
勿論、聖闘士であるカミュにとって安全保障などは問題にもならぬことではあるのだが、無用の軋轢を避け、かつ見聞を広めるには、この習慣は有用であった。
だいたいこの頃の旅人といえば、交易の商人や遊牧の民が殆んどで、彼等は彼等なりに作物の出来不出来、市場の様子などを語り、他国の経済状態を伝えることが出来るのだが、それ以上のことには目が及ばぬものであるし、燕の言葉に不案内な者も多かった。
こうした旅人の話は、下役人が聞き取ることが多いが、訪れたカミュを一目見た応対の役人はすぐにもっと上位の者を呼んできた。さすがに、商人や遊牧民とは人品が違うのは一目瞭然なのである。
そうしてお定まりの幾つかの質問に答えているうちに、カミュとしては自然に話しているのだが、その筋道立った話し振りが感銘を与えたのであろうか、今度はいま少し奥まった部屋に座を移して更に話を続けることとなった。
今まで目にしてきた西方の国々についての見聞を話していると、役人が下役を手招きして何か囁いた。
やがてやってきたのは、薄紫の衣装に身を包んだ優しげな顔立ちの青年である。
「 ムウと申します。 遠来の客人の珍しい話を伺いに参りました。 お仲間に入れていただきましょう。」
丁重に礼をされたカミュも同じく辞儀を返す。
新来のムウは諸国の動静について関心が高く、自分の聞き知っていたことをさらにカミュに確認し新たな知識を得ることに喜びを感じているらしくまことに嬉しげである。
話を弾ませていると、侍僕が深く拝礼するとムウの傍に寄り、何事かささやいた。
頷いたムウに案内されたカミュがさらに奥の別間に招じ入れられ暫くするうちに、奥に繋がっているらしい続き間の向こうから、内容までは分からぬが時折り楽しげな笑い声が聞こえてくる。
言葉を切ったムウが立ち上がり恭しく拝礼するのを見たカミュが、これは、と思いそれに習うと、衣擦れとなにかしら軽やかな音が聞こえ数人が部屋に入ってくる気配がし、それとともに芳しい香りが流れてきた。
「 客人、燕によう参られた。」
思いのほか若々しい声が耳を打ち、カミュが静かに顔を上げた。
一際優れた風采の人物が、諸官侍僕に侍されながら親しげに笑みを浮べている。
「 ムウ、そなた一人に聞かせるには惜しい話であろうに。 この昭王も仲間に加えてはくれぬか?」
「 仰せのままに。 上は天文、下は地理、このカミュ殿の話は汲めども尽きせぬ泉のようでございます。」
「 それはよい、ちょうど喉が渇いていたところぞ。 泉の水を所望する。 さ、カミュ殿、こちらへ参られよ。燕の水も口に合うとよいのだが。」
昭王の気さくな言葉に一同がうち笑み、部屋はなごやかな空気で満たされる。
これが昭王とカミュとの、初めての出会いであった。


燕のことも昭王のことも、思い出せばきりがない。
一人で過ごすことには慣れている筈であったが、眠ろうとしても眠れるものではなく、気がつくと北斗七星は大きくその位置を変えている。
宵のうちは月の位置も低く、さして地上を照らすというのではなかったが、夜も更けた今は、白色の光が槐の枝葉を透過してカミュの上にも影を落としていた。
眩しいほどに木の間から洩れてくる月の光を避けつつ、幾度目かに目を閉じた時、
「 やっと見つけたっ! ちょっとお待ちくださいね、カミュ様!」
弾んだ声が頭の上から降ってきたではないか。
はっとして目を開けると、なんと、上から貴鬼が覗き込んでいる。
と思うまもなく、その姿は、かき消すように見えなくなった。
さすがに驚いて立ち上がり、周囲を見回した時、再び貴鬼の声が響いてきた。
「 ほら、こちらにおいでです! カミュ様、昭王様をお連れ申し上げましたよ。」
その声に耳を疑いつつ振り返れば、満面に笑みをたたえている貴鬼と共にその場に立っているのは、紛れもない昭王その人ではなかったか。
二度と会えぬはずの人の姿に、カミュが息をのんだ。


             ←戻る              ⇒招涼伝第二十九回        ⇒副読本その28