招涼伝 第二十九回


突然のことにカミュが瞠目している間に、あらかじめ言い含められてあったとみえて、貴鬼は槐の下に平らかな地面を探し出し、小脇に抱えていた緋の房のついた青い練絹(ねりぎぬ)の敷物を敷き延べた。
そして、五色の紐で腰に結び付けていた緻密な象嵌を施した丹塗りの酒壺(しゅこ)と杯を敷物の上に置くと、深々と礼をして瞬く間に姿を消してしまった。
それを見届けた昭王はいまだ驚きの醒めぬカミュをその場に誘(いざな)い、並んで座するとカミュに盃を持たせて自らそれを満たす。
「 先ほど初めて知ったのだが、貴鬼は、一瞬で他の場所に移動できる技を会得している。 『飛雲の法』 というのだそうな。
 どんな理屈でそんなことができるのかは知らぬ。どうやら、あれの叔父に習ったらしいな。」
そう云うと、昭王は満足げに盃を飲み干した。
貴鬼の叔父といえば、宮廷で知遇を得た兵部(ひょうぶ)省長官のムウのことに違いない。
カミュは、人をそらさぬ温かみのあるその人柄を思い浮かべ、今更ながら懐かしく思うのだった。天勝宮で初めて会ったときからお互い通じるものがあり、何かの折には昭王を交えて話に花が咲いたこともある。
ムウの古今の武具についての造詣の深さはその職責に由来するのだろうが、広く学問に通じた博雅の士として、宮廷に占める位置は確かなもののようであった。
酒宴の折も、斗酒なお辞せずという様子のアルデバランの隣に位置しながら、その端正な様子を崩すことなく、杯を口元に運んでいたものだ。それでいて、この二人は話が合うらしいところが面白いのだが。
それにしても、「飛雲の法」とは、どうにも恐れ入ったことである。

杯を傾けながら、昭王が東の方を指し示した。
「 我が燕の領土は、あの河岸までだ。山麓を辿って行けば、錦州、瀋陽と続き、やがて黒竜江に至る。
 その先のことはよくは知らぬが、荒涼とした土地だと聞いている。それにしても、聖闘士とは思いのほか足が速いものだな。
 もう少し先に進まれて隣国に入られたら、王たるこの身では一歩たりとも足を踏み入れることはできぬ。」
昭王の指差す先を眺めれば、一筋の河が月の光に水面を煌めかせながらゆったりと流れている。
あの河を越すことがそのまま昭王との永訣を意味するのであれば、カミュが槐(えんじゅ)の花の香りに惹かれてこの場所にとどまっていたことがどれほど幸運であったか知れようというものである。
まこと、槐の音(おん)は 「縁樹」 に通ずると、今更ながら思い当たるではないか。

をりから、冴へ冴へとした月が地上を照らし、佳き人とともに飲む酒は甘露となつて五臓六腑に染み渡り昭王を陶然とさせずにはおかぬ。
甘やかな花の香は風に乗り濃く淡くただよひ、仄かな想ひを彼の人に伝へるのだ。
やうやくカミュが盃を飲み干せば、待ちかねたやうに昭王が酒壺(しゅこ)を持つ。
「 もうこれ以上は……とても飲めぬゆゑ…」
頬を染めたカミュが遠慮がちに云へば、
「 天勝宮では、王たるこの身が人に酒を注ぐなどあるはずもない。生まれて初めての、そして最後のことぞ。
 今宵限りのことゆゑ、せめて今一献、参らせよう。」
と、昭王にそうまで云はれては、とても断りきれるものではない。
なみなみと注がれた盃を置くこともならず、やつとの思ひで飲み干すと、みるみるうちに首筋まで朱を刷いたやうになり、頬に手を当てて恥ぢ入るさまが、ひそかに昭王を喜ばせるのだつた。

「 では、こちらからもお返しを 」
少し手足が重くなっているらしく、慎重に酒壺を持つカミュの指先が桜色に染まり、昭王はその美しさに瞠目する。
楊柳青の酒宴の折には双方ともアイオリアに酒を注がれており、差しつ差されつなどむろん初めてのことである。
嬉しげに甘露を含む昭王の耳に、カミュの声が聞こえてきた。
「 こうして、もう一度会えたのは嬉しいが、燕王の身で天勝宮を留守にしたことが露見すれば太后がどれほどお探しになられることか。」
貴鬼の飛雲の法にも驚いたが、それにも増して、昭王がかくの如き辺境の地に現れたことがカミュを驚愕せしめるのだ。
その言葉に、昭王は白い喉を見せ軽い笑い声を立てた。
「 それが、今宵ここに来たのは太后のお考えなのだ。」
驚くカミュに昭王は続けた。
「 つまり……その………趙の使節を饗応する今宵の宴でいささか口数が少なすぎたゆえ、気鬱の病ではないかとご案じなされたらしい。」
「それほどまでに……昭王が気落ちなされたと?」
供も護衛もつけずに燕王が天勝宮を一晩も留守にするなど、カミュが今までに見聞きしたことから考えるに、あまりにも破天荒なことなのである。
秩序を重んじるであろう太后があえてその道を選ばざるを得なかったところをみると、よほどに昭王の様子が尋常ではないように見えたということになりはしないだろうか。
あの快活な、周囲を気にかける昭王がそれほどまでに意気消沈するなどおよそ考えられぬことで、その意味するものがカミュの胸を打ち、白い頬にさらに血の色がのぼる。
それに気付いた昭王は少し面映そうにすると、咳払いをしながら立ち上がった。
「 まあ、ともかく、ゆっくり別れも云えなかっただろうと、太后が気を利かせてくださったということだ。
 余人はおらぬ。公認の冒険ということになろうか。」
いかにも、これは冒険に違いあるまい。
昭王はカミュに笑いかけると、真剣な面持ちとなる。
「 夜明けには戻らねばならぬゆえ、今宵が最後となる。
 趙の使節との饗宴が長引き、ここに来るのがかくも遅くなってしまったことが悔やまれてならぬ。」
そう言われて見上げれば、東の峰から昇り始めていた真円の月は、いつの間にか中空にその座を移し、透徹した白い光を放っていた。
遼遠の彼方まで連なる山々が、静謐な明るさの中でその稜線をくっきりと浮かび上がらせている。
一本々々の木々の梢の先までが見分けられるほどの、不思議な清明さである。
あたりは寂として音もなく、この天地の間に息づけるものは二人だけかとも思われた。
 
饗宴の折の正装のままで来たのであろう、今宵の昭王は、青磁色の双龍紋を織り出した光沢のある白緑(びゃくろく)の綾絹の長衣に、蝉の羽のように透けてみえる丈長の紗の上衣を重ね、青海波(せいがいは)に瑞雲模様の金糸の帯という姿である。
胸には銀と翡翠の瓔珞(ようらく)をかけ、腰には銀梨子地(なしじ)の瀟洒(しょうしゃ)な造りの太刀を佩き、双の手には、手の込んだ鳳凰の浮き彫りが施された、この上なく鮮やかな翡翠の腕環を嵌めていた。
微かに香るのは、衣に薫き込めてある採蘇羅であろうか。
月明かりの中に立つその姿は、若いと謂えども王者の風格を漂わせ、見ても見飽かぬ風情ではある。
一方、昭王の見るカミュはといえば、翠の黒髪もけざやかに、いにしえの神もかくやと思われるほどの精緻な横顔に蒼い星を宿した瞳を併せ持ち、その白い衣裳と相俟(あいま)って、鮮やかに深更(しんこう)の闇を払っていたものだ。 
艶(えん)なる人とは、まさに、この人のことをいうのであろう。綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)に包まれずとも、昭王の息を呑ませるには十分すぎるほどの佳人であった。
神か人か、またしてもその問いが胸を掠めてゆく。  

「 昭王………」
カミュが口を開きかけたその時、
「 夏の夜は短い。カミュ、話は後だ。」
昭王の乾いた声が響いてきた。
はっと目を上げたとき、佩刀を投げ捨てた昭王の身体がすいと動き、思わず身を返したカミュの黒髪をはしなくも捉えた。
逃れることもならず抱きすくめられたカミュの手から盃が落ち、敷物の緋房のあたりまで転がっていって止まった。


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