招涼伝 第三十回
どれほど経ったのだろうか。
いったんは途絶えていた虫の音が、そこかしこの草叢からすだくように聞こえている。
昭王は、片側に豊かに流れているカミュの黒髪の感触を確かめずにはおられず、密かに掌に掬ってみた。
よほどの幼ない子供でもない限り、燕では当然ながら男女とも髪を結い上げており、それも香油や髪油を用いて結髪している者が大半である。このように、腰までも届くほどの丈長い髪の者を見ることは皆無であった。
たまさか外出(そとで)した折りに、異国の女の中に長い髪の者を見ぬでもなかったが、王の身でそれに触れる事など有りうべくもなければ、また、望んだこともない。
然り乍ら、今、夜の中で捉えた直 (す) ぐな美しい髪は、そっと握った掌を緩めると、競い合うかの如くにさらと流れ落ち、あとには一筋も残ることがない。
初めて会った時からこの髪にこうして触れたかったのだ、と昭王は今さらながらに気付かされ、溜め息とともに幾度となく愛でつつ、懐かしさ、愛おしさが増すのを覚えてゆく。
冴えかえる月の光は木の間を洩れつつはなやかにさし出でて、すべらかな髪に瑠璃の彩(いろ)を帯びさせる。
気の迷いかと幾度も目を凝らしてみてもそれは変わらず、色艶やかに持ち重りのするその髪を頬に押し当てれば、不思議な冷たさが昭王の心を魅了してやまぬ。
夜半過ぎから吹いていた風が大きく槐を揺すり、枝がざわめいた。
そのとき、不意にカミュの瞼に触れたものがある。
吹く風に耐えかねた数え切れぬほどの槐の花が、馥郁 (ふくいく) たる香りを伴なって、さながら雪のように散り落ちてきたのであった。
摘み上げてよく見ると、一つ一つが薄緑の蝶の形をしており、その幾つかは、昭王の髪や肩にも羽を休めている。
「 天に在りては 願はくは比翼の鳥と作(な)り
地に在りては 願はくは連理の枝と為らん………」
舞い落ちる花を捉えようと高く手をかざしながら、昭王が低く誦 (ず) した。
「それは………?」
「詩を詠んだのだ、カミュには難しいかもしれぬ。……意味は……」
昭王が言いよどむのは珍しいことである。
「空飛ぶ鳥ならば翼を交わし、地に立つ木ならば枝を連ねん、ということになろうか。」
「 詩人ではないか。」
「 なに、さほどのこともない。子供のときから叩き込まれたからな。王たるもの、詩の一つや二つは詠めんといかんというわけだ。」
面白くもない進講ではあったが、真情を吐露するのには、なるほど向いているもので、昭王は生まれて初めて、詩も悪くはない、と考えぬわけにはいかぬ。
武芸百般ことごとくに練達の技を持つ昭王ではあったが、詩の腕前の方はあまり誉められたものではない、と自分でも思う。
共に詩作を学んだアイオリアの方も五十歩百歩の出来で、お互い上手くもない詩を見せ合っては、笑ったものである。
ところが、今日のは、よくできている。
よくできているのだが、まさか、これはアイオリアには見せられまい。おのれ一人の胸に収めておくよりほかにない。
昭王は声もなく笑い、カミュの碧玉の瞳を覗き込んだ。
「 カミュ、なぜ我等は同じ地に生を受けなかったのだろう。共に馬を駆り、戦い、歓びを分かち合えたら、どんなにかよいものを。」
「 私とて、同じこと。しかし、それが定めであれば、致し方もあるまい。
そなたは燕の王、私はアテナの聖闘士であり、お互い持って生まれた運命は変えられぬ。
僅かの時間とはいえ、こうして巡り会えたことを僥倖と思うべきなのではないか?
シャカ殿の説く輪廻 (りんね) とやらによれば、いつかまた生まれ変わって、会えることもあると聞く。」
「 そんなことが、あてになるものか!
いつのことか分からぬそんな遠い先の話より、同じ星を眺め、同じ風の音に耳を傾け、
共に生きていることを感じるこの瞬間 (とき) がいとおしくてならぬ!」
昭王の声音にも腕 (かいな) にも、思わず知らず力がこもるのであった。
「 分かっている…………」
「 そなたがいないなど…………敢 (あ) えて云おう、そんな世界ならいらぬと。」
「 目に見える世界だけが全てではないぞ、昭王………」
「 なれど………」
夏の宵の短さに心急かるるまま互いの言葉は途切れがちになり、夜明け前の闇に溶け込んでゆく。
その満ち足りた静寂の中、濃密かつ忍びやかな所作は倦むことを知らぬ。
過ぎ行く時を如何に惜しめども、東の空の裾に暁紅の色が訪れるまで、あと幾許 (いくばく) もないのであった。
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