招涼伝 第三十一回
そうしたなか、ふとした弾みで昭王の指先が左腕の傷に触れ、カミュは一瞬身を固くした。
帰宮した後、侍医から届けられた薬を用いて翠宝殿で甲斐甲斐しく手当てをしてくれた貴鬼には口止めをしておいたのだが、思いのほか傷は深く、受傷時に満足な手当てができなかったこともあって、いまだに鋭い痛みが走ることがある。
それと察した昭王は沈痛な面持ちとなった。
「すまぬ、カミュ。もしや、傷は残るのだろうか。」
燕は救われたが、その代償としてカミュは傷を負ったかと思うと、昭王の心にも深い痛みが残るのだ。
「私の未熟さが招いたことゆえかまわぬ。それに、傷跡が残ったとしても、それはそのまま、この身に刻む燕の記憶となろうものを。」
いつか聖域へ帰れば、治癒能力を持つ者もいるが、あえてこの傷は消すまい、とカミュは考えている。
燕の記憶とはいい条、それはそのまま、ただ一つ我が身に残す昭王の思い出となるはずのものである。そう思えば傷跡といえども、いとしさも増そうというものだが、これは昭王には言わいでものことであった。
むろん、カミュは昭王に傷などつけてはおらぬ。
燕王の玉体には毛ほどの傷もついてはならぬことは貴鬼からきかされたことがあり、そのために周囲がどれほど腐心し、また、それを承知している昭王が、やむを得ず如何に多くのことを我慢しているかも見聞きしてきていた。
時々は、それに耐え切れなくなった若さが、昭王を野駆けや剣技にむかわせ、周りをはらはらさせてはいるのだが。
それを熟知しているが故に、昭王がこの場に現われた驚きがさめた瞬間から、カミュは近辺に害意を持つものがいないか細心の注意を払っていたが、小動物のささやかな動きがあるだけで、今に至るまで夜陰の安寧は保たれていた。
半里四方に人の気配はなく、かなり離れたところを狼らしい群れが北へ向かって駆けていったのみで、カミュの注意を逃れたものは何もないに違いない。
昭王がカミュと過ごすこの夜、その安全は、太后からカミュ一人の手に託されており、それはまた、カミュがそれに値する者であると、太后が暗に認めていることにほかならぬのであった。
その負託に答えることは当然であったし、また、それがなくとも、カミュは昭王からあらゆる危険を遠ざけたであろうが。
今、昭王はカミュに寄り添い、傷に触れない程度に右手をそっと当てていた。
その手のひらからは不思議なほど心地良い温かさが伝わってき、まるで治癒能力があるのかと疑うほどである。
「実を言うと、そなたが神か人かわからず迷っていたことがあった。」
しばらく続いた沈黙の穏やかさに、ふと眠気に誘われかけたとき、昭王が思い切ったように言った言葉はカミュには初耳であり、最初は意味がわからなかったものだ。
訊き返された昭王が照れたような笑顔を見せる。
「そなたが神だとすれば、我ら凡俗の人間には触れることはできぬように思われた。人が神に触れたらどうなるのかを知りたくとも、
頼みのシャカは廬山に居り、聞くこともできぬ。 しかし、そなたに触れたい気持ちを抑えかねたこの昭王の気持ちを思うても見よ。
そなたがこの傷を負っておらねば、いまだに判別がつきかねていただろうことを思うと、この傷さえもいとしく感じられる。
我らがここ
にこうしているのも、この傷のおかげぞ。」
そう言って昭王が全てを語ると、カミュは信じられぬというように笑う。
「あれから天勝宮での接遇がことさらに丁寧になったように感じてはいたが、そういうことだったとは。まさか神と思われているとは
知らぬことだった。」
確かに十二神将のことは洩れはしなかったが、カミュの為した技は多くの者の目に触れ、その結果、神仏の化身と思われてもなんら不思議はなかったのだ。
なにしろ、天勝宮でカミュと出会った者の中には、五体投地をする者まで現われる始末で、偶然それを目撃したアイオリアから知らせを受けた昭王は、予想もしていなかっただけに、その驚きもひとしおであった。
五体投地とは仏教における最高の敬意を表す礼法で、両膝、両肘、頭を地に着け、手と頭で相手の足を頂くのであるが、一国の王もしくは霊山の有徳の高僧に対して行なうことがあるくらいのもので、滅多に見るものではない。
昭王にしても今までに見たのは一度きりで、五年程前に、西蔵から経を伝えに来た老僧が先王に五体倒地を行い、その場にいた者すべてが、さすが霊地から来た僧は礼儀が違うと、驚いたものである。
まだ十五歳だった昭王は五体投地については何も知らず、さすがに驚いて隣りにいたシャカに小声で問うと、感に堪えぬ様子でその懇篤なことを説明してくれたものだ。
もっとも、あまりに大仰なので、天勝宮では構えて行なわぬように、という内旨があり、その後、昭王の代に至っても一度も行なわれてはいない。
それがカミュに対してなされたというのは、やはり神仏の化身と思われたということなのであろうが、回廊で偶々出会った相手に、突然そんな態度に出られたカミュがどれほど困惑したか、察するに余りあるというものであろう。
アイオリアがそれを見たのは、渤海から帰還した翌々日のことで、紅綾殿での午餐を終えて翠宝殿の近くにさしかかると、一足先に出ていたカミュを三人の下役人が取り囲み、五体投地の礼を行なっている最中で、壁際に追い詰められた形のカミュは逃れることもならずその場に立ちすくみ、まさに進退窮まったといった風情であった。
来合わせたアイオリアを見たカミュの目は明らかに助けを求めており、急ぎ近寄って、口々に経文を唱え始めている三人を押しのけて連れ出したときには、いかにもほっとした様子であったそうだ。
「先日は鉄砲水からお救いいただきましたが、今日はとんだところでカミュ殿をお助けいたしました。」
とアイオリアは、半ば可笑しそうに言ったのだが、昭王にしてみれば笑うどころの話ではない。
水難の去った今、ただでさえ、カミュが旅立ってしまうのではないかと、心密かに懼れているというのに、そのようなことが続こうものなら、恐れをなしたカミュは、翠宝殿から出なくなり、やがて燕を離れることになるのは火を見るより明らかであったのだ。
昭王が直ちに、五体投地を禁ずる勅を発したのも当然であったろう。
やがてシャカが廬山から戻ったときに、このことを知ったらどれほど呆れるものか、昭王はぜひその場に居合わせたいものだと考えていた。
「すると、もし私がこの傷を負わずにいて、神か人かわからないままであったら、昭王はどうするつもりであったのか。」
カミュが珍しく悪戯めいた表情で訊ねると、
「それは・・・、」
昭王は言葉を濁し、目線をそらしていたが、やがて堰を切ったように答えた。
「それでもカミュに触れたかった。この手が触れた途端に姿が消え失せてもやむを得ぬ。たとえ神罰を受けても構わぬから触れさせ
たまえ、と祈ったのだ。」
昭王にも、カミュの鼓動が早くなったのが感じられた。
カミュは昭王の首に右手を回して自分の方に引き寄せると、そっとささやいた。
「私も神でなくてよかったと思っている。」
昭王は目を上げてカミュを見た。
「人だからこそ、ここにいて、昭王と一夜を過ごせるのだから。」
熱い吐息が昭王の首筋にかかり、人の身の歓喜を伝えてきた。
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