招涼伝第三十六回
また、剣戟 ( けんげき ) 室で昭王様とアイオリア様が剣 ( つるぎ ) の型をお使いになられていたときに、カミュ様がおいでになったことがある。
五、六十合ほどの間、静かに眺めておいでになり、やがてそれに気付いたアイオリア様がお譲りになると、最初は遠慮しておられたが、昭王様の再三のお誘いに頷かれ、剣櫃
( つるぎびつ ) に収められているたくさんの剣の中から、幾分細身の一振りをお選びになられた。
練習用とはいえ、柄のところが銀と翡翠で飾られている立派なものだ。
重さを確かめるように二、三回お振りになってから、部屋の中央にお進みになられると、昭王様と向かい合って御辞儀をなさる。
カミュ様のなさるお辞儀はどことなく異国風で、こんなときでもとても優雅な気がするのだ。
剣を構えられたとき、額の汗をお拭きになりながら見ていらしたアイオリア様が、「ほう!」
と声をあげられ、急に姿勢をお正しになった。 なにげないふうで軽く構えておられるだけのようにお見受けするのだけれど、そうではないのかもしれない。
いざ昭王様と立ち会われると、水際立ったお手並みをお持ちなのがすぐにわかった。
最初は楽しげになさっておられた昭王様もすぐに緊張したご様子になり、鋭い刃風を受けておいでになる。
あんなにおきれいで、どちらかというとほっそりしていらっしゃるのに、昭王様やアイオリア様と同じくらいお強いなんて信じられないことだった。
興味深そうに眺めておられたアイオリア様も立会いを望まれ、夕餐の刻限になるまで、一刻ほども、お三方でかわるがわる楽しんでおられた。
もちろん、どの剣も刃引きをしてあるので、危なくはないのだ。
それに、先ほどアイオリア様のなさりようをご覧になってお覚えになられたのだろうと思うけれど、カミュ様も、昭王様のお身体に剣が当たる直前で寸止めをなさっておられた。
この、寸止めというのも、早い者でも三年、普通は五年ほど修行しないと出来ないのだそうである。
驚いたのは、昭王様とアイオリア様が、しとどに汗に濡れ尽くしておられたのに、カミュ様は、なにも汗をかかれなかったことだ。
あとで、カミュ様にお尋ねしたところ、剣を持ったのは初めてとのことで、ますます驚いた。
アイオリア様がおっしゃるには、カミュ様は、まだまだ力を抑えておられたということだ。
そうすると本当はどれほどにお強いことだろうか。
シュラ様がお怪我をなさっていなければ、きっといいお相手ができたかもしれないのに残念なことだった。
そのカミュ様が行ってしまうのは、とても悲しいことだった。 いつかはお発ちになるのはわかっていたけれど、いざそのお言葉を聞くと涙が出てきて困ってしまった。
翠宝殿にお帰りの道すがら、
「どうか行かないで、いつまでも燕においでになって下さい。」
と、お願いすると、カミュ様はちょっとお困りのご様子で、
「行かなければならないのだよ。」
とだけおっしゃって頭をなでてくださったけれど、少しお寂しそうにみえた。
昭王様も、昨日のお昼過ぎにカミュ様が発たれてからとても気落ちなされたようで、そのまま紅綾殿の奥の御寝
( ぎょしん ) の間に籠っておしまいになられる。
そのあとすぐに宰相様が来られて、昨日天勝宮にご到着なされた趙の御使節とのお話し合いのことについて、中の間から御簾
( みす ) 越しに上奏なされたときは、少し間があってから、
「よきに。」
とだけお言葉があり、そのあとは何度お声をかけられても御簾内 (みすうち )
からのお応 ( いら ) えはなく、宰相様もそれ以上どうすることもおできにならずにお帰りになるほかなかったのだった。
そのあとで、太后様のお使いで春麗さんが夜来香 ( イエライシャン ) の花をお届けに来られたので、ご様子をお話してお詫びすると、頷かれ、お声はかけずに青い景徳鎮
( けいとくちん ) の花瓶に生けてお帰りになった。 太后様もどんなにか御心配なされるだろうか。
そんな昭王様の御様子がどうにも心配でならなかったので、退出せずにずっと控えていたけれど、奥の間からは何の物音もしなかったので、きっと御寝なされたのだと思う。
それでも、大事な饗宴がある夕刻までにはお出ましになられたけれど、いつもなら、華美をあまりお好みではない昭王様が御自分で御衣
( おんぞ ) をお選びになるのに、昨日に限ってはそれも人任せになさり、何も仰せにはなられない。
困ったように顔を見合わせていた御衣係も、お気が変わらないうちにと、お気持ちに適いそうな涼しげな風合いのものを選んでお召しいただくことにした。
お召し替えのときには、いつもなら冗談事など仰せになり御衣係が困るほど笑わせなさるのに、着せかけられるままに御袖を通されるだけで、何の御言葉もおかけにはなられなかった。
玲霄殿 ( れいしょうでん ) の大饗の間での饗宴に出御 ( しゅつぎょ ) なされても、一番最初の乾杯だけは儀典通りにきちんとなさったけれど、普段ならすぐに赤くおなりのはずが、かえって蒼ざめられたようにも思えてくるし、趣向を凝らしたお召し上がり物にも殆んど箸をおつけになられない。
楊柳青でお気に召したという餃子もそのままで下げられていった。
胡人の珍しい歌や踊りも、いつもなら手を打ってお喜びなされるのに、今夜は少しもお心を動かすことができないようにみえた。
ただ一度だけ、胡弓を持った青い眼の楽人が進み出てきたときは少しばかり目を止めておられたけれど、それだけのことだった。
それに、いつもと違って、あまりお言葉もなくお顔色もすぐれない。
右隣りの宰相様には一言も口をおききにならず、そちらをお向きにもなられないので、宰相様もお困りのようだったけれど、どうしようもなくて、趙の御使節には昭王様の御不例
( ごふれい ) をお詫びして、なにか難しい政治向きのお話をなさっておられたようだ。
向こう隣りの太后様がその御様子を気にかけられて、なにかとお話しかけになられるけれど、僅かに微笑まれて、ほんの一言、二言、打ち沈んだ御様子で声低くお返事をなさるだけである。
アイオリア様もこのご様子を見てとてもご心配のようだったけれど、お席が離れているのでお声をかけることもできずはらはらなさっておられたようだ。
気がかりでならなかったので昭王様のご様子ばかりを見ていると、ご自分の左側の大きく開け放たれた窓の方を何度も見ておられるのに気がついた。 饗宴が始まったころから大きな月が昇り始めていてとてもきれいだったのでそれをご覧なのだと思っていたけれど、夜遅くなって月が高く昇り窓から見えなくなっても、まだ何度もそちらを見ておられる。
そのうちに合点 ( がてん ) がいった。 月をご覧になっておられたのではなくて、きっと、東へと向かわれたカミュ様のことを思っておられたのだろう。
あの日、カミュ様は昭王様のことを、太陽のようだとおっしゃったけれど、おきれいで物静かなカミュ様はまるで月のような方だと思えてならない。
お二人が、ここに並んでおいでになったら、どれほど楽しい饗宴になるものだろうか。
それにしても、こんなに元気のない昭王様は初めてで、もしもずっとこのままでいらしたら、一体どうすればいいのだろう、と心配でならなかったので、いつもなら瞼の重くなるような夜更けになってもちっとも眠くはならなかった。
ようやく宴がはねて、ご列席の方々の拝礼をお受けになりながら紅綾殿に戻られる昭王様のおあとに従っていて、ふと後ろを振り向くと、趙の御使節が鴻臚殿
( こうろでん ) にお戻りになるためにお席をお立ちになるところだった。
そのこちら側の広間の出口では、太后様と宰相様とがなにかお話しになっておられるのが見えた。
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