あの大雨の降るより少し前に、昭王様がカミュさまをお誘いになり、蓮の花の咲くのをお見せになられたことがある。
蓮はとても朝早くに咲き始めるので、前の晩からカミュ様とお約束をなさった昭王様が、間に合うように觀蓮亭までお連れするようにと何度も何度も念をお押しになられるので、とても緊張したものだった。
次の朝、できるだけ早く起きて、まだ少し暗いうちに翠宝殿のお部屋にお伺いすると、カミュ様はもう起きて身支度をなさっておられ、すぐにお部屋をお出になられた。
翠宝殿から渡殿を行き、蓮池のほうにつながる回廊に出ると、二つ角を曲がれば觀蓮亭が遠くの方に見えてくる。
ところが、いろいろなお話をしながら回廊を曲がったとき、カミュ様がふいに足を止められ、
「王が独りでおられるぞ。」
と前のほうを指し示されたのだ。
はっとしてそちらを見ると、ただお一人で觀蓮亭でお待ちになっておられる昭王様のお姿が見えたのには、すっかり驚いてしまった。
誰かが昭王様をお待たせする、ということは大層ご無礼なことだし、また、お一人でおられるということも、何かご用事があったときには、昭王様がご自分で用事をいいつける人をお探しにならなくてはならず、やっぱりとんでもないことなのだ。
それにそれに、こんなに朝早くてまわりに誰もいないようなところで、万が一、賊でもきたらどうしよう。
アイオリア様のおっしゃるには、天勝宮はとても広くて建物の数も多いので、いくら警備の衛士を増やしてもとても追いつくものではなく、賊がその気になれば中に入り込むのは簡単らしい。
燕ではそんなことを考える者などもういるはずもないけれど、よその国の賊が来ないとも限らないのだ。
それは、昭王様はとてもお強くておいでになるけど、儀式などで正装なさるときでなければ、太刀をお佩きになることはなく、もちろん今は無腰で觀蓮亭にお越しになられたに違いない。だいいち、昭王様は花をご覧になるときに太刀をお持ちになるような無粋なことをなさるお方では決してないのだ。
それに、仮に佩刀がおありだとしても、賊には太刀打ちしようがない。
前に叔父上のところで見せていただいたことがあるけれど、あの飾り太刀は刀身が細くてあまり役には立たないそうで、それに比べて賊などが持っている蛮刀は長くて重くて切れ味もすごいそうだ。
もしも立ち合えば、飾り太刀のほうが鍔元から折れてしまうそうで、そんな重い刀を腰に差すと、普通の人では腰がふらついてまっすぐ立てないそうだけど、「力のある者が使えば、人など簡単に一刀両断にできる。切るというよりも叩き割るというのに近い。」と叔父上がさらりとおっしゃるので、震え上がったものだ。
いったい叔父上はそんなところをご覧になったことがあるのだろうか。

以前、危ないことがあったころには、近衛府の衛士がいつもお側で警護していたけれど、春頃からは、衛士の警護は、夜、紅綾殿の御寝の間の外廊下とお庭周りを夜明けまで、ということになっている。 本当は大臣方は、お昼の間も警護を続けたかったらしいのだけれど、もうよいのではないか、というご意向を昭王様がお持ちのようなので、太后さまともご相談なさって、夜だけになったのだ。
そのかわり、公務のないお昼の間はたいていご一緒のアイオリア様が、万が一のときには昭王様をお守りできるし、アイオリア様がおいでということは魔鈴も一緒なのでますます安心にきまっている。
そのアイオリア様は、以前に蓮の花が咲くところをご覧になったことがおありなので、今回はお声を掛けなくて良い、との仰せで、今朝はおいでにはならないけれど、いざというときにはカミュ様が昭王様をお守りできるので大丈夫なのだ。 そこで、ゆうべのうちに昭王様とご相談し、カミュ様にお目覚めいただいてから、ご一緒に紅綾殿に伺う、という順番をきめておいたのに、いったいどうして、お一人で先に来ておいでなのだろう。
叔父上からは何度も、昭王様がお一人でどこかにお出ましになられるようなことがあってはならぬから、よくよく心配りするように、と固くいわれていて、もしも何か落ち度があったら、お側仕えのお役目は返上しなくてはならないし、叔父上も責任を取らなくてはならないに違いない。
それよりも何よりも、もしかして、今このときに、大事な昭王様の御身になにかあったら、お詫びのしようもないのだ。

そんなことがいっぺんに頭に浮かんできたので、あっと思って走り出したとたん、隣りにおられたカミュ様の長い髪とお召し物が揺らいだかと思ったら、一呼吸もしないうちに、あんなに先の昭王様のお隣におられるのには、本当に驚いてしまった。 こっちに向かって軽く手をお上げになり、大丈夫、と合図をなさるカミュ様を隣りにして、昭王様も眼を丸くしておいでになる。
いったいどうやってあんな遠くまで行かれたのか、さっぱり分からないけれど、ともかくほっとして、はあはあ言いながらやっとお二人のおそばまでいくと、驚いたのと、安心したのと、走ったのとで、しゃくりあげてきてどうすることもできなくなってしまった。
どうしても我慢できなくなってとうとう泣いてしまったら、誰かの腕に抱き上げられて背中をさすられたので、驚いて目を上げると、それはカミュ様なのだった。
お召し物が汚れてしまいそうで慌てて顔をそむけると、今度は、困った御様子の昭王様のお姿が眼に入り、ますますどうしてよいかわからなくて全身が熱くなってしまう。 すると、カミュ様が昭王様に、さっきお一人でおられる昭王様を見たとたんに頭に浮かんできたいろいろなことを、静かにお話なさり始めたのにはすっかり仰天してしまった。 そんなことを一度もカミュ様にお話した覚えはないし、どうしておわかりになったのだろうか。
どれもこれも自分からは絶対に昭王様に申し上げられないことばかりではらはらしていると、黙って聴いていらした昭王様は、
「よく考えもせず、貴鬼にはすまぬことをした。 許せよ、少しばかり冒険がしてみたかったのだ。 以後は、きっと慎もう。」
と仰せになられた。
許すだなんて、昭王様を許すだなんて!
優しく背中をさすってくださっていたカミュ様のお手が止まり、大きく息を吸われてから、やがて吐かれた息が少し震えておられたので、カミュ様も同じ事を考えておられるのがわかった。
なんということだろう、昭王様にとっては、誰にも告げずに朝早くお一人でお部屋をお出になって、回廊を幾曲がりかしたところにある蓮池までおいでになるのが冒険なのだった。 それなのに、遠い国に行っていろいろなものを見てみたいとか、いつか渤海に行ったら泳いでみたいとか、言いはしなかっただろうか。
それを、昭王様はいつでもにこにこなさりながらお聞きなされていらしたけれど、お心の中ではどうお思いになられただろう。
昭王様は燕で一番偉いお方なのに、ご自分だけのお考えでは何一つできないのかもしれない。 もしかしたら、周りの者が困らないようにと、いつも気を使っておいでになるのは昭王様のほうではないのだろうか。
そう思ったらますます悲しくなって涙が止まらなくなって困ってしまった。 叔父上のご推挙で天勝宮にあがってから、泣いたのも、人に抱かれたのも初めてなのだった。
頬にさわっているカミュ様の御髪がさらさらと気持ちよく、何かしらいい匂いがしたのを覚えている。

 
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