招涼伝 第四回



三人が促し合って足早に出て行ったあと、昭王にもなすべきことがあった。 むろん、座しているだけではないのである。
事後承諾ではあるが、宰相等の合意を取らねばならぬ。
一刻を争う事態ゆえに宰相ら老臣達には図らずに事を進めたのであるが、頑迷な彼等のことだ、自分達を差し置いて若年者だけで重大事を決するなどは前例のないこと、などと聞きたくも無いことをくどくどと具申してくるのは目に見えていた。
しかし、再度召集をかけて、討議などに時を費やしていては、刻々と増していく水嵩が、実際に濁流に対峙するカミュとアイオリアの困難を倍加させていくのである。
水盤の水と濁流とでは、わけが違うことは昭王にも容易に想像された。
それも、おそらくは豪雨の中で足場も定まらぬに違いないのだ。
さらに、状況に応じてどのような行動もできるように、後方支援を受け持つアルデバランと共に三人に全権を委任したことも論われると思われた。
とはいうものの、いかに自分達の意に添わなかろうとも、昭王の判断に異を唱える者などもとよりいよう筈もなかったし、アルデバランとアイオリアが表立って批判されることも有り得なかった。
武官筆頭のアルデバランは、気骨のある人物で信望篤く、宮廷での地位も確かであり、また、昭王の乳兄弟であるアイオリアは、その人格篤実に加えて、実兄アイオロスが命に替えて幼い昭王を救ったことにより、今も尊敬を受けているのである。
しかし、西域から来訪して日の浅いカミュには何もなかった。


カミュを守らねばならぬ。
首尾よく燕を救えればよいのだが、いや、昭王はそうと信じて疑わぬのだが、他所から来た者が差し出がましいことをして王の判断を誤らせた、などと老臣共が言い出すことは十分に考えられた。
彼等は、自らの沽券に関わることでもあり、自分達が無視されたことをあからさまに言い立てることはせぬが、そのかわりに搦め手から攻めてくる。
他の者を批判出来ないだけに、遠まわしにせよ、カミュが矢面に立たされる恐れは大きく、事実それは昭王の根拠のない危惧とばかりはいえなかったであろう。
王位に就いてよりまだ二年足らずではあるが、老臣達との大小様々な衝突を経て、如何に彼等を懐柔し、意見を調整していくことが重要かは十二分に学んできており、今ここで好手を打っておかねば後の局面は期待できぬのだ。
カミュと出会ってからまだ一月にも満たぬが、その人となりはまるで百年の知己の如くにわかっているつもりの昭王である。
そのような事が耳に入れば、カミュのことだ、何も云わずに黙って燕を去るであろうし、その心は傷つくやも知れぬ。
それを思うと昭王は全身の血が逆流する思いであった。
ただ立ち寄っただけの縁もゆかりもないこの国のために、自ら進んでその力を使ってくれようというカミュの、名誉も心も、いや、たとえ髪の毛一筋さえも傷つけさせることなど決してあってはならぬのだ。


カミュを守らねばならぬ。
この考えは、昭王の心にかなうことであった。
あれほどに腕の立つカミュを実戦において守ることなどおよそ考えられぬが、しかし、立場を守るとなれば、話は別だ。
これは是非とも必要なことであり、そして、昭王にしかできぬことでもあった。
そう思うと胸の高鳴るものがあるが、また、やりすぎてもならぬ。
王の立場として一人の人間を擁護することは、時として余計な詮索を招くことにも繋がりかねず、その益体(やくたい)もない揣摩臆測がカミュを傷つけるなど、全くもって慮外なことである。
付け加えておくと、この時の昭王には、その揣摩臆測の指し示すものが何たるかについては明確にはわかっておらず、ただ、漠然とした予兆を持っていただけなのであった。
情勢分析は得手でも、自らの心の分析には、まだ長けていないものとみえる。

すばやく考えをまとめると、昭王は銀鈴を鳴らし近侍を呼んだ。

「これより太后様のところへ参る。御都合をお伺いして参るように。」

深々と拝礼をして近侍が出て行き、窓の外に目をやった昭王は大きく溜め息をついた。
先程から降り始めた沛然たる雨が薊を鉛色に閉ざしており、これから出発する者の苦労を偲ばせずにはおかぬ。
彼等と共に、雨中を能う限り動けたらどれほどよいか。
同じく時を過ごすなら、自分のみが宮の中で安閑としているのには耐えられぬ思いであった。
もとより、そのようなことが王である身に許される筈もないことは、アルデバランに云われるまでもなく分かってはいたのだが、口に出さずにはおられなかったのだ。
聞き分けのない子供のようだと思われはせなんだか、と今さらながら昭王は自らを省みずにはおられず、密かに唇を噛んだ。
しかしそれよりも、これからのことを考えねばならぬ、と昭王は頭(かぶり)を振った。
この度のことは、まず母后の理解を仰ぎ、それからその同意あるを以って、宰相等を説くのが最善と思われた。
l昭王の治世となってから早や二年が経とうとしているが、太后の影響力は強く、老臣等に否やのあろう筈もないのだ。
太后は当初からカミュに好意を持っていると思われるが、いったい、この氷のことを何と言って説明したものか、さすがに昭王も考えずにはいられない。
なにしろ常人にできることではないのである。
「聖闘士」という言葉すらも、カミュと四方山話をしている際に偶然出てきたもので、正直なところ昭王にもその意味するところはわからぬことであったし、「聖闘士」だから水を氷に変えられるのか、それとも異国の人間だからできるのかさえ把握できていなかったのだ。
とつおいつ思案してはみるものの良案が浮かばず、考えあぐねて、ふと振り返ると、貴鬼が水盤のそばから離れず、ためつすがめつ氷をみている。

「昭王様、夏に氷なんて本当に不思議でなりません。カミュ様はまるで神仙のようなお方ですね。」

貴鬼のその言葉は、昭王の意表をつくものであった。
なるほど、神仙とは言い得て妙ではないか、これは良いかもしれぬ。
神仙たる者が真夏に水を凍らせることができるなどとは、ついぞ聞きつかぬことであったが、これを目の当たりに見せられれば信じぬ者はあるまい。
神仙の神通力と称しても、あながち間違いではなかろうと思われる。
宰相等が、カミュのことを神仙だと考えてくれれば、なんら問題はないはずであった。

「貴鬼、そちはまことに愛(う)い奴だな、いつまでも余の側にいるがよい。」

突然そう言われて貴鬼は真っ赤になった。
なにがなんだか分からなかったが、心から敬愛している昭王からそう言われて嬉しくてならなかったのである。
 

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