招涼伝 第八回

まんじりともせず迎えた雨の朝は、鳥の声一つせぬ。
東の空が白み始めるのを待ちかねて跳ね起きた昭王の元には各地の降雨や被害の状況が頻々と報じられてくるのだが、そのいずれにもカミュ等に関するものは含まれておらず、その心中は穏やかとはいえぬ。
落ち着かぬままに朝餐(ちょうさん)を終えた後の朝議(ちょうぎ)では、カミュ達が最初に目指した筈の川堤が一部決壊したとの報告があり、昭王の心胆を寒からしめること甚だしいものがあった。
それより早くその地点を通過していたかは全く分からず、焦慮の念は募るばかりであったが、こればかりは如何(いかん)ともしがたく、待つ身の辛さを味わうしかないのである。
出水に備えた臣民の避難や食糧・財物の確保については、既に打てる手は打ってある。
今の昭王にできることといえば平静を保ち、人心を安からしめることだけであったが、これが一番難しいともいえただろうか。いかに焦燥感が大きくとも、決して表に出してはならぬ立場であった。
よき友、よき臣であるカミュ、アイオリア、アルデバラン、この磐石の三人に揺るぎない信頼を置くことこそが、今の昭王にできる唯一のことであったといえよう。

待ちに待ったカミュ達の動静が昭王の元にもたらされたのは、昼過ぎのことであった。
替え馬は無事おこなわれたのだが、その報告の早馬は豪雨の中で泥に足を取られて転倒し、足を痛めた馬の代わりを求めるのに手間取ったため天勝宮に着くのが甚だしく遅れたのだという。
その後は前後しながらも早馬が届いたが、乗り手は疲労困憊(こんぱい)の様子で、特に遠方から来た者は、口を聞くのがやっとの有様であるという。報告を聞き取るとすぐに休ませてやるのだが、それにつけてもカミュ達の疲れを思いやると、昭王には心の休まるときがないのであった。
そして、最初の氷壁の報告は二日目の夜中に届けられた。
突然現われた氷の壁は近隣の民を驚かせ、かなりの降雨にもかかわらず蓑笠をつけて見に来る者が絶えぬという。報告の使者もさっぱり訳がわからない様子であったが、その驚きの言葉はたちまちのうちに天勝宮中に伝わっていった。
むろん、昭王の喜び安堵することは一通りではない。ともに心配していた貴鬼もやっと笑顔を見せた。

翌朝、昭王は太后とともに玲霄殿(れいしょうでん)へと足を向けた。三人を送り出してから初めてのことである。
用のない者が勝手に立ち入ってよい場所ではないので、中は静まり返っている。下吏に重い扉を開けさせ足を踏み入れれば、満たされた冷気が昭王を迎え、瞬く間に心身が爽やかになるのを覚えずにはいられない。
深く息を吸えば、五臓六腑のすみずみまで涼感が染み渡ってゆく。 ここにはいないカミュの、その確固たる意思が昭王を包んでいた。

「最初からここへ来ていれば、あのように不安にとらわれずにすんだものを。どう やら無駄に案じていたのかもしれませぬ。」
昭王が本音を漏らせるのは、太后だけであった。 太后にしても、昭王の笑顔を見るのは久方ぶりのことであったろう。
「わたくしは最初から心配してはおりませぬ、カミュ殿は、なんといっても十二神将のお一人であられるのでしょう?」
太后の目が探るようにこちらを見ているようで、昭王は答えをためらった。
神か人かは何も分かってはおらず、この目で見極めなければならぬとは思うものの、天勝宮にいる身ではいかんともしがたいのである。
水盤の氷に触れながら深い想いに沈む昭王からは、ついに答えは聞かれなかった。

昭王が一日千秋の思いで密かに待っていた一報が届いたのは四日目の朝方であった。 天勝宮から一里も離れていない永定河 (えいていが) からの替え馬の知らせである。
「参る。」
その一言を言い捨てて、正殿を風のように出て行く昭王に仰天したのは、伺候してきた諸卿であった。 口々に何か叫びながら慌てて追いすがろうとするが、とても追いつくものではなく、昭王が馬寮(めりょう)に着いたときに供をしていたのはアイオリアの命令で昭王のそばに残されていた魔鈴のみである。
夜の明けぬうちから替え馬を連れた役人達が出払っているので、馬寮は人少なになっている。
朝の気配の中で、昭王の姿を見た馬たちが軽い嘶 (いなな) きをあげ、蹄で土を掻く様をみれば、日頃いかに昭王が馬を可愛がっているか知れようというものであった。

「一人もついて来れぬとは情けなし。いかに文官といえども、いま少し鍛えねばならぬな。」
笑いながら手早く王衣を脱げば、いつの間に着込んでいたのか、馬に乗るには相応しい服装である。
脱いだ王衣を近くにいた小者に押し付けると、昭王は履いていた沓 (くつ) を革履 (かわぐつ) に履き替え、黒毛の愛馬に朱房の鞍を置かせるが早いか、単身、宮門を目指し駆けてゆく。
ちょうどそのころ、早朝から門の傍らに詰めていた副将軍シャイナが、時ならぬ馬蹄の響きに驚き、その方向に目を凝らすと、こちらに向かってくる騎乗の人は、誰あろう、なんと昭王ではないか。
あっと思う間もなく、その姿は目の前を駆け抜け宮外へ消え去った。
瞬時に事情を察したシャイナが手近の馬に飛び乗り、カシオス等屈強の部下六名とともにあとを追わんとすると、続いて猛追してきたのは魔鈴である。
天勝宮の馬たちが獅子を恐れることは甚だしいものがあり、突然現われた魔鈴に恐慌をきたした馬たちが高くいななき棹立ちになると、いかにシャイナといえども抑えるのにはいささか時間がかかる。
馬を駆りながら肩越しに振り返った昭王は、その様子を見つつ、無事に天勝宮を抜け出したことに、してやったりと会心の笑みをもらさずにはいられなかった。
獅子は瞬発力はあるのだが、馬ほどには長距離を走り続けることはできぬので、どうしても昭王からは遅れてついてゆく。 これでは、いかに体勢を立て直したシャイナ達が鞭を入れようとも、魔鈴を恐れた馬を昭王に近づけることは到底できず、その差は開くばかりである。
薊の南を南東に流れる永定河までは、昭王にすれば指呼の間に過ぎぬ。
毎日のように野駆けに出ていた昭王が、四日も雨に降り込められていたのさえ珍しいことであるのに、ようやくカミュ達に会おうというのだから手綱を握る手にも力がこもるというものであった。
雨は前日からやんでいる。
乗り手のはやる気持ちは馬にも伝わり、まさに天馬空を行くが如くに、昭王は永定河畔に着いたのである。


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