招涼伝 第九回


馬を走らせているうちから氷の壁は白く見えていたが、近づくとそれは身の丈の三倍ほどもあろうかという高さで眼前に迫ってきた。 確かに報告は受けており、かくもあろうかと想像はしていたが、上流から下流にかけて延々と続くそのさまは、まさに天下の奇観である。
頭上を二羽の鵲(かささぎ)が飛んでゆく。
あの高みから俯瞰すればどれほど見事な眺めであることか。この身が空飛ぶ鳥であるならば、眼下に続くこの氷河を追いかけてどこまでも飛ぶものを、と思わずにはいられぬ昭王である。

河畔では馬寮の役人が既に新手の馬に鞍を乗せ替えており、終夜走り続けた馬はゆっくりと堤の草を喰(は)んでいた。重荷から解き放たれた馬体は汗で光っている。
心尽くしの朝餉をしたため終わったばかりの一行は、思わぬ昭王の出御に顔を見合わせ、急ぎ拝礼をする。
最も天勝宮に近いこの地点では、疲れの溜まっているであろう一行に温かい食事が供されることになっており、その間に馬を飛ばせばかろうじて間に合うだろうということは計算済みの昭王であった。
引き止めようと追っ手がかかるのは間違いないが、それも魔鈴さえついてくれば引き離すのは可能なことである。 途中で追いつかれようものなら、無理矢理振り切るわけにもいかず止まらざるを得なかったことを考えれば、魔鈴を残していったアイオリアにも密かに感謝する昭王であった。

「皆には苦労をかける。ここまでの無事、祝着至極。」
下馬した昭王が三人に声をかけ、労をねぎらっている間に、追走してきた魔鈴も喜び勇んで主のもとに駆け寄ったため、一斉に怯懦(きょうだ)した馬を抑えるのに、皆、些か、てこずったものだ。
その様を見たアイオリアは、擦り寄る魔鈴を急ぎいなしながら脇へ連れてゆくと、喉と耳の後ろを撫でてやり、さらには手を口の中に入れて甘噛みさせてやる。見慣れているとはいえ、その豪胆な有様に驚かぬものはない。
そのころになってようやく到着したシャイナは、昭王の無事な姿をみて安堵の胸を撫で下ろしていた。 馬にかけては右に出る者のない昭王のことではあるが、十二分に雨を含んだ路をあれほどに飛ばせば、万が一ということも考えられたのである。
いったん昭王の身にことあらば、太后への申し開きもならず、燕の先行きもたちまち暗雲立ち込めるのであった。 一つ子(ひとつご)の昭王にいまだ後継者のいないことについては、天勝宮でもひそかに囁かれ始めており、それに関して何らかの決定がなされるのはもはや時間の問題となっていた。
「氷の技を見とうなったゆえ、シャイナもこの先までついてまいれ。」
息を切らせながらもいかにもほっとした様子のシャイナに向かい欣然と告げ、まだ先があるのかと愕然とさせておいて、昭王は再び馬に乗る。
このあとは、永定河を辿って渤海まで行くのみであり、雨も止んだ今となっては、一瀉千里の道程であった。 この街道は薊と海とを結ぶ重要路であり、燕としても整備に力を入れていたため、最も水害の危険が少ないと考えられるところから、最後の行程に残されていたものである。
すでに前日から雨も上がっており、道も乾き始めていたため危険は少なかったが、さもなければ、昭王の同行はなんとしても阻止されていたであろう。
創られたばかりの丈高い氷の壁に沿って馬を走らせながら、間近で見るカミュの聖衣姿の美しさに密かに感嘆していた昭王が、肝心なことに気付いたのはまもなくであった。
これは何としたことか、カミュの左の二の腕にありあわせの布が巻かれ、血が滲んでいるのである。
久しぶりに無事な姿を見た嬉しさに気を取られ、迂闊(うかつ)にも大事なことを見逃していたものだ。 手綱を取るのに支障はないようだが、昭王は顔色を変えた。
「あれは一体どうしたのだ。」
思わず急きこんで傍らのアイオリアに問うと、
「昨夜、この上流の狭隘(きょうあい)な場所で鉄砲水に襲われ、馬ごと流されようとしたときにカミュ殿に既(すんで)のところでお助けいただきました。しかし、その折り、尖った岩に当たられ怪我をなされたのです。まことに申し訳ないことをいたしました。」
と云うではないか。 そのアイオリアの額にも乾いた血の跡が見える。 かなりの危険はあるだろう、と案じてはいたものの、宮のなかで想像しているのと現実に聞くのとでは雲泥の差があり、血の気が引かずにはおられぬ。
急ぎカミュの横に馬を寄せながら、
「腕は大事ないか。よもや深手ではあるまいな。」
と問えば、形の良い眉を曇らせ、受傷したことにいかにも困惑しているようで、
「さしたる傷ではなきゆえ、御懸念は無用のこと。」
さらりと受け流され、気が気ではないが昭王もそれ以上は問うことができぬ。
それにしても、ひそかに危惧していたとおり、カミュが傷ついてしまったことが口惜しくてならず、昭王は歯噛みをして天を仰いだ。 こんなことなら自分が怪我をした方がどれほどよかったかと思うが、それも周りが如何に騒ぐかと思うと口に出すことすらできるものではない。
仔細に見ると、左手を微妙に庇っているようで、手綱捌きも常とは異なっているように思われる。 血は止まっているようでも、あの様子では痛みがあるに違いなく、傷に障(さわ)ることは今すぐにでも止めさせたいが、如何せん、渤海までは遥かに遠い。
と、其のとき、昭王の脳裏に天啓の如く閃いたことがある。
神仏が其の身に傷を負い、血を流すものであろうか、このことであった。 昭王はしばし茫然とし、背筋を伸ばして手綱を緩め、馬を走るにまかせていた。

   そうだ、そうに違いない、血を流すからには人の身に相違あるまい。
   などか、神仏が血を流すことやある、怪我の功名とはこのことか。

数日来の懊悩が雲散霧消していくようで、思わず相好を崩していると、いつのまにか大きく遅れ、先を行く者達が怪訝(けげん)そうに振り返っている。 これはいかぬと、急ぎ追いつこうとして慌てて馬の脇腹を蹴れば、そのような手荒な扱いをうけたことのない愛馬が首を振り立てて抗議のいななきを上げ、その、常ならぬ様子がさらに人目を引いた。
とりわけ、昭王の馬の扱い方を熟知しているアイオリアには不審に思えたらしく、追いついた後もしきりにこちらを見ているのには閉口するのだが、それでもつい、口元がほころぶのを抑えることはできぬ。 それならば、と軽く鞭を入れて一気に先頭に出た昭王は、氷の壁の尽きるまで、誰にも見られずに心ゆくまで破顔していたのであった。


          ←戻る                 ⇒招涼伝第十回                 ⇒副読本その9