“首相自らが50周年行事で謝罪を”

=吉井前水俣市長が第2回水俣病懇で要求=

犯人探しでなく原因追求の指摘も出る


第2回水俣病懇(左から4人目が有馬座長)
環境大臣の私的懇談会「水俣病に係る懇談会(水俣病懇談会)」の第2回会合が2005年6月14日、東京・霞が関の環境省で開かれた。座長の有馬朗人元文部大臣の進行で進められたこの日は冒頭に吉井正澄委員(前水俣市長)が「報告」を行ない、市長として水俣病に関わってきた経験に照らして問題点の指摘と、今後実現してほしいことを広範囲にわたって述べたが、中でも《責任の所在と謝罪》のところで、「最も重大な責任は当時の通産・厚生両省の対策の誤り」であり、1995年に出された「“村山談話”は行政責任には触れていない道義的・心理的な謝罪だ。関西訴訟最高裁判決で行政責任が確定した以上、総理大臣から反省と謝罪がなされるべきだ」とし、そのタイミングとしては来年の公式発見から50年の記念すべき水俣病犠牲者慰霊式において行なわれるのが望ましいと提案した。
1時間遅れて出席した小池大臣

所用で上京していた潮谷・熊本県知事(左)も傍聴した
引き続き各委員から、「日本の官僚組織は個人の責任を追及されないから無責任になる。責任を取る形をはっきりさせる必要があるのではないか」(屋山太郎委員)、「いまだにその存在が明確にされていない、当時の通産省の資料を環境省として発掘して欲しい。それによって、組織と個人の問題を解明できるのではないか」(丸山定巳委員)、「事故調査は原因を追求するのが目的で、犯人探しではない。その時々の担当者がなぜそのような判断をしたのかという見地からの責任問題を論じよう」(鳥井弘之委員、柳田邦男委員)、「ここでの原因追求は水俣病を超えた大きな問題の道筋をつけることにつながる」(亀山継夫委員)、「社会が情報を共有する、情報公開が大事だ。そこから掘り下げよう」(金平輝子委員)、「中身が伴わなければ真の謝罪にならない。被害者の立場に立った謝罪を考えるべきだ。また、胎児性患者への福祉は環境省だけでなく厚生労働省と一緒に取り組むべき問題だ」(加藤たけ子委員)、「琵琶湖に比べまだまだ多くの自然が残されている。自然モデル都市の方向で水俣の地域振興を考えたらどうか」(嘉田由紀子委員)などの意見が出され、“公務のため”1時間遅れて出席した小池環境大臣が「この場の議論は日本のシステムについて議論されざるを得ない。これからも率直な討論をお願いしたい」と要請。最後に有馬座長が「水俣病は一つの例題だ。次回以降、類型ごとに分けて議論を進めていきたい」と集約した。

次回は7月21日と26日に水俣市や鹿児島県出水市などを日帰りで現地視察するとともに、被害者団体からのヒアリングを行なう。

=吉井正澄委員の「報告」全文=
吉井委員の了承を得て「報告」の全文を掲載する。
≪水俣病に係る懇談会への報告≫
2005年6月14日
吉井正澄
<はじめに>
 今回は、私に発言の時間をいただいてありがとうございます。水俣病の経過などは、資料もありますので省略して、私が市長として水俣病問題とどう関ってきたか、行動と反省、問題点、素朴な疑問、ぜひ実現してもらいたいことなどについて発言いたします。

 まず、JR福知山線で脱線事故が起きて大惨事となりました。直接の原因はカーブでのスピードの出し過ぎだそうですが、その根底にJR西日本の経営効率主義、営業優先の企業体質があると有識者の皆さんが指摘なさっておられます。     
 三菱自動車、東京電力など、この類いの不祥事が続発しているのを見ますと、水俣病公害事件が残した経済優先主義、安全と人命軽視、隠蔽体質が大惨事を引き起こし、それは企業自体のリスクを増大し、社会的信用を失い、その存続さえ危機に陥るという教訓が、何一つ生かされていないのは誠に残念で悲しい限りであります。
 水俣病公害事件は、人命、人権、環境の問題、そして政治、経済、企業の在り方など、多くの問題に教訓を残しています。改めて真剣に学習しなければならないと思います。

 ところで、福知山線の運転再開については、国土交通省は厳しい条件を付けるなど、JR西日本を監督し、体質改善を強く指導されているようであります。
 だが、水俣病公害事件の場合は、国は高度経済成長を国策として推進していた時代で、原因企業チッソを厳しく監督し体質の改善を指導されるどころか、企業の経済優先主義をむしろ幇助し支援して、被害を拡大長期化してしまい大きな悲劇を招きました。このことが、50年を経て改めて問われることになったのです。
 それに、チッソを高度経済成長の重要な担い手として、庇い、操業を続けさせたこと
が、むしろ逆にチッソに大きなリスクを負わせ、死に体になるように追い詰めることになったのは誠に皮肉と言わざるをえません。


<責任の所在と謝罪について>
 環境省は、水俣病の担当省庁として謝罪をされ、直面する患者救済問題で、ご苦労されておられます。担当として当然ではありますが、かっての国の過ちの処理を一手に引き受けてのご苦労は、お気の毒という感じがいたします。
 だが、環境省も1977年の環境庁保健部長通知の「後天性水俣病の判断条件について」の是非が大きな論議となっており、それを決着されなければならない責任がございます。このことについては、後でふれることといたします。   
 最も重大な責任は、漁獲禁止、排水の規制、汚染の範囲や被害の全貌など、実態の把握を怠り、被害を拡大、救済を混乱、長期化させてしまった当時の通産省、厚生省の水俣病対策の誤りであります。危機管理が欠如したことであります。資料としていただいた「水俣病に関する社会科学的研究会」の『水俣病の悲劇を繰り返さないために』という報告書にも、その責任を明確に指摘してあります。
 薬害エイズの問題や金平先生がご努力なされたハンセン病問題は、被害者と担当者庁が直結していて、責任の所在が国民にはっきりと見え、謝罪、反省、教訓、その対策が明瞭に分かります。

 ところが水俣病公害事件は、担当の環境省と、患者救済問題が前面に出て、直接関わった通産省や厚生省や政治家は、その背後に隠れてしまっています。
 直接の責任省庁が、判決をどう受け止め、どう反省されているのか。何が問題だったのか検証されたのか、体質をどう改善されるか。水俣病患者、地域にどう償いをされるのか。コメントはありません。今、最も求められていることは、経済産業省、厚生労働省、政治家の明確な表明だと思います。

 1995年、未認定患者救済の政治解決の時、時の村山内閣総理大臣は談話を発表され謝罪されました。その内容は行政責任には触れず道義的、心情的な謝罪でありました。被害者から行政責任に触れていないと反発があったものの、一応の評価をされています。
 今回、国の責任が確定したのですから、総理から反省と謝罪がなされるべきであります。
 しかし、謝罪のタイミングを失ってしまいました。そこで、来年、水俣病公式発見から50年目の記念すべき水俣病犠牲者慰霊式があります。その慰霊式に参列され、直接、謝罪されるのが良いのではと思います。小池大臣から是非お勧めいただきたいと存じます。

「首相自ら被害者に謝罪を」との要求を含め報告した吉井委員(左手前)
 何の罪もないのに、もがき狂いながら貴い命を落とした人、楽しいはずの人生を棒に振ってその上、精神的圧迫で苦しい生活を余儀なくされている人、生まれながらにして重い障害を背負わされた胎児性患者の皆さんは、いかに多額の金銭的補償でも償えるものではありません。加害者や国が、心のこもった謝罪、再発の防止への決意と取り組みを表明することで、患者の無念、怨念はいくらか和みます。そういう温かい配慮は大切な患者救済のひとつであります。


<水俣市と市民の責任について>
 水俣病が公式に発見されて間もない1959年、時の市長、市議会議長、商工会議所会頭、チッソ労組など、市をあげて「チッソの排水を止めると、チッソと水俣市は破壊されるので止めないで欲しい」と排水の規制反対を県知事に強く要望しています。このことが示すように市の姿勢は、どちらかと言えば国、県、チッソの側に立って、患者の側に立っていなかったと言えます。
 水俣市は、チッソによって繁栄し、市民の大半はチッソに依存して生活してきました。チッソとの「運命共同体」で、チッソ城下町と言われていました。城主チッソの倒産は即、市の疲弊であります。そこでチッソの倒産を極度に恐れたのです。それに、被害の拡大で水俣市のイメージが悪化すると、観光産業などに大きな影響が懸念されます。国の水俣病問題を「できるだけ小さく収めよう」という姿勢と利害が一致しました。
 また、不測の事態に遭遇した場合の処理能力の弱い水俣市が、国、県の政策に依存したのは無理からぬことであります。仮に私が市長であったとしても、そのような姿勢を取ったであろうと思っています。        
 しかし、市民の生命、財産に責任を持つ水俣市が、患者救済、被害の拡大防止に積極的な行動を起こさなかったことは、被害の拡大を許し、ひいては地域社会の崩壊を促進するという結果をもたらしてしまいました。法的責任は問われていないが、道義的責任は誠に重いものがあります。

 一般市民には、チッソの倒産は自分たちの生活の基盤を失うのではという恐怖がございました。地域の衰退をも恐れました。そのような予想もしていなかった事情や原因があったにせよ、水俣病患者を差別し、中傷、非難を浴びせ、患者に精神的苦しみを与えたこと。その精神的圧迫が患者をして水俣病申請を躊躇させ、断念させるという多くの事例を起こしたことを思うと、その罪は誠に重いものがあります。


<市長の謝罪について>
 私は、水俣病発生当時には、市の山手の方で生活し、農林業を営んでいましたので、水俣病問題とは関係が薄いものでした。1975年、市議会議員に当選してから当然、水俣病問題に問わることになります。
 やがて「市民の生命、財産を護る」ことが地方自治体の第一の責務であることを考えると、市民の側に立っていない市の水俣病問題の取り組みに疑問を抱くようになります。

 そこで、1994年、市長に就任した2カ月後に開催された「水俣病犠牲者慰霊式」の式辞の中で、「十分な対策を取り得なかったことを、まことに申し訳なく思います」と、市の水俣病対策が間違っていたことを謝罪しました。そして被害者の側に軸足を置く水俣病対策へ変換してまいりました。
 「チッソを潰す気か」とか、「市長が謝罪すれば、国や県の水俣病対策を否定することになる。今後、水俣市には、国や県の支援はなくなる」など多くの批判や圧力がございました。
 私は、謝罪は求められてするものではなく、間違いに気づいたとき、良心に照らして自発的にすべきものと思っています。

 1958年、チッソは水俣湾周辺に水俣病患者が多発すると、密かに排水口を水俣湾から水俣川河口に変更いたしました。ところが、翌59年には、早くも河口に魚が死んで浮かび、河口周辺に患者が発生し認定されます。汚染が表面化しました。この事態を重く見た通産省は、排水口を再び水俣湾へ戻すよう指示しました。
 これは、チッソの排水が水俣病の原因であると明確に証明した事件であります。
通産省の担当官は、排水を流し続けると、さらに多くの生命が失われると予想しなかったのか。排水を止めるべきだと思わなかったのか。多くの人の命を殺めることになると良心の疼きはなかったのか。素朴な疑問を抱き続けて来ました。
 そんなことはないと思います。最高の教育を受け、厳しい試験を経て国家公務員となられたエーリー卜集団です。おそらく組織が良心を殺してしまったのだろうと思います。組織の中で、なぜ一般的常識が通用しなかったのか。なぜ正論が通らなかったのか。なぜ組織は良心を持ち得なかったのか。改めて検証されるべきでしょう。組織の在り方がそのままでは必ず同じことが何回も起きると思われます。

 政治に「大の虫を生かすために小の虫を殺す」という言葉があります。これは政策の選択については国益が優先するということでしょう。
 水俣病事件は「国の経済成長という大の虫を生かす為」という国の意志が大きく働いた事件であります。水俣病は踏みにじられる小の虫だったのです。
 ところで、国益とは国民の安全と繁栄を護ることだと思います。国民の生命を殺してまで、生かさなければならない大の虫は存在してはならないと思います。少なくとも国
民の生命に危険が予測されれば、大の虫の歩みを抑制することが大切で、不幸にして踏みにじられた虫が出たら早急に心を込めて救済する。これが政治の大切な要諦だと思います。


<謝罪の時期について>
 謝罪は、タイミングが外れると「今更」ということになります。
 未認定患者の政治解決の時、関西訴訟の高裁判決の時など、謝罪と方向転換の機会は何回も存在しました。政治解決の時、行政責任を認め、それなりの対応をしていれば、現在の混乱は無かったと思われます。人命の尊重より法律の解釈とメンツが優先し、謝罪が遅きに失した感は否めません。謝罪と政策転換のタイミングの取り方でも反省し、教訓として今後の行政に生かすべきでしょう。


<反省と謝罪と、その後の対策について> 
 如何に反省の意を表明しても、それに基づく対策が伴わないと、謝罪の真心は伝わらない。空虚なものに終わります。反省と謝罪とその後の対策は1セットでなければなりません。
 水俣市民は、水俣病犠牲者慰霊式で私が謝罪した後、その反省に立って「生きているうちに救済を」という患者の悲痛な要求を実現させるため、政治解決に向け市民挙げて行動を起しました。
 また、患者救済は金銭的補償とともに患者の精神的安定が必要であります。そこで患者を苦しめていた差別、非難中傷など、精神的圧迫を取り除くために「もやい直し運動」を展開しました。お陰で、混乱した内面社会は闘争や抗争のない平穏な社会を取り戻し、患者と一般住民の関係もほぼ正常に蘇ってまいりました。
 産業廃棄物が海水を汚染し、生態系を壊し、食物を有毒化して起きた。即ち環境破壊による公害の反省から、公害も環境問題もごみ、水、食べ物の関係ととらえ、まず入口のごみの問題から取り組んだ「環境モデル都市」づくりは、全国のNGO、NPOが主催する「環境首都コンテスト」で総合第一位になるなど進んでまいりました。

 「何故、ごく短期間に意識改革ができたのですか」と質問を受けます。
 私は、市民の心の底に、かって患者に加えた精神的圧迫について、反省と謝罪の気持ちがあったからだと思っています。
 私は、水俣病犠牲者慰霊式の式辞の中で「きつかったなー、すんませんでした。知らなかったもんで」とか、「あんたたちもきつかったなー」と水俣弁で言葉が交わされる社会づくりを提唱しました。その気持ちに市民が賛同してくれた結果であります。
 「もやい直し」は、市民の罪を償う贖罪の行動であると思っています。
 「もやい直し」が進んだもう一つの理由は、市民は、患者の悲惨な状況に同情をし、理不尽な災難を起こした者を呪いながら、生活の基盤であるチッソの側に立たざるを得ないという、患者とチッソの間での心の葛藤、ジレンマの解消を、また抜け出す道を「もやい直し」に求めたとも言えます。

 この様に地元では、謝罪と贖罪の行動が進められております。
 今回の大臣の謝罪が、空虚なものに終わらないよう、今後の対策によって温かい実のあるものにしてもらいたいと切に願っております。


<科学者、「医学者、研究者」の責任について>
 水俣病対策の遅れは、原因究明の遅れたことが大きな要因の一つだと言われています。
 国や産業界、それにチッソに関わりのある学者の中には、恣意的な研究発表や発言などがなされたと「水俣病に関する社会科学的研究会」の報告書にも指摘されています。
 多くの生命が失われていく非常事態の中で、生命の尊重よりもセクト、学閥、身の保全を優先し、原因企業を擁護された学者の行為があったとすれば、私どもが、最高の有識者として尊敬している学者であるだけに、その倫理を問わなければならないということは、なんとも悲しいことであります。
 この際、医学会をはじめ科学者自らの反省の論議が必要でしょう。


<公害地域の振興について>
 水俣病の発生で水俣市は、偏見差別、中傷非難が渦巻く内面社会が出現し、地域全体が全国から危険視される被差別地域となりました。
 経済的にも、チッソの疲弊による雇用の減退のみならず、温泉地は閑古鳥が鳴き、農産物まで敬遠されるなど、徹底して疲弊してしまいました。市民一人当たりの平均配分所得は、水俣病発生以前には熊本県の上位に位置していたのが、水俣病発生によって県下市町村平均より15パーセントも下に落ちて、県下で最も貧しい地域に転落してしまいました。

 そこで地域の再生を図る為に、78年に熊本県の指導で水俣市と芦北郡3町で「水俣、芦北地域振興計画」という計画を策定し、現在、第3次計画を実施しています。
 市と町の事業計画を寄せ集め一本にしたもので、国に事業の採択と補助金の交付を陳情してきました。この計画は、閣議了解の計画としていただきましたが、特別には何の恩典もなく、疲弊して苦しい市と町の財政のやり繰りで計画を実施してきました。
 特別な事情で痺弊した地域の振興には、離島振興法とか、産炭地振興法とか、過疎地域振興法とか、特別立法で補助金などが優遇されてきました。
 そこで、公害による特別な疲弊だから特別立法での救済を要望し続けましたが、実現しませんでした。なぜ、産炭地並みの支援ができないのか、疑問は残っています。
 今、患者団体から、特別立法による救済が要望されていますが、今回もうやむやに終わるのではと心配していますが、出来ないはできないで、その理由を十分に説明がなされるべきだと思います。              


<地方蔑視について>
 水俣病発生の翌々年の58年に本州製紙江戸川工場の排水が東京湾を汚染してると、漁民が操業停止を求めて工場に乱入した事件が起きましたが、通産省は製紙工場の操業を停止させています。翌年の59年には、不知火海沿岸の漁業組合の漁民が、チッソに排水の停止を求めた交渉が決裂、工場に乱入する事件が2回も起きています。数多くの負傷者がでる過激なものでしたが、排水の規制、操業停止もなされませんでした。
 それは、チッソの操業停止は、製紙工場と比較にならないほど国の高度経済成長に大きな影響があるというのが理由だと思いますが、東京湾で公害問題が大きくなれば収拾がつかなくなるという心配があったと聞いています。とすれば、水俣湾は地方であり間題にされなかったと言えます。まさに水俣病は、地方蔑視の公害であります。 
当時の浮池正基市長が「東京湾で水俣病が発生していたら国はこのような対策で済ませなかっただろう」と言っていましたが、噛み締めてもらいたい言葉であります。


<未認定患者救済の政治解決について>
 95年の未認定患者救済の政治解決は患者、患者団体を中心にして、水俣市、市議会、商工会議所など全地域挙げて支援し、国に強く要望して実現したものです。
 この解決には多くの批判がありました。一時金は患者要求の3分の1程度、行政責任に触れず、水俣病とは認められないなど、患者の不満を圧縮したもので「苫渋の選択」と言う言葉で表現されたように、批判は当然だと思っていました。

しかし、水俣病問題は矛盾と混乱の渦巻きの歴史であり、理路整然とした解決は難しいと思います。しかも政治解決は和解であり、やむを得なかったと思っています。
 それでも「生きている内に救済を」という患者の切実な願いには応えられたと思いますし、事実、その後に多くの患者が生命を落とされていることからも、不完全であっても生前に救済が実現していて良かったと言えます。
 また、患者と地域住民の「もやい直し」が一層進化し、救済された患者の多くが「一時金は少なく残念だった。だがホッとした。隣近所も昔のように親しくしていただけるようになった」と笑顔で話されており、患者の精神的安定が図られたことはうれしいことです。
 今、2000人を超える新たな申請者があると聞きますが、政治解決で「もやい直し」が大きく進化して、申請を躊躇させていた周囲からの精神的外圧がなくなったからでもあります。これも政治解決の効用だろうと思っています。
政治解決の問題点であった行政責任は決着しましたが、水俣病としての救済をすべきだという問題は残っています。


<すでに救済されている患者の気持について>
 7月の委員会は水俣で開催いただくとのことで、直接患者など関係者からお話しをお聞きになりますので、患者団体などの意見は省略しますが、公健法や、政治解決で救済された一部の患者や語り部の方々のご意見をお聞きしますと、国、県の責任が認められたことを歓迎され、心からの謝罪とすっきりした救済の手直しなどを期待されています。
 その一方で、政治解決以後に実現した一般市民との「もやい」が壊れないか、ようやく手にした精神的安定が崩れるのではないかと心配もなされています。

 患者の救済は、金銭的補償とともに、患者の精神的安定が絶対に必要ですと先に述べましたように、如何に多くの金銭的補償がなされても、田舎社会では羨望と卑下が横行します。「似せ患者、金の亡者」などと疎外されかねないのです。それでは決して幸せな生活はできません。周囲、隣近所から理解され、同情され、励まされ、助け合いがあってはじめて、生きる喜びが生まれます。特に地方の共同社会では「良好な人間関係の醸成」が必須の条件であります。「もやい直し」は、少ない金銭的救済を補完する役割を果たしたと思っています。その「もやい」が壊れるのではと危惧されている。
 このことは、水俣病は地域住民も大きな被害者で、地域社会を巻き込んだ社会病であり、水俣病対策は、患者や地域住民が共有できるものでなければ成功しないということを物語っています。
 そういう意味で、これからの対策では地域社会対策、精神面の救済をも重視していただきたいと思います。


<PPPについて>
 水俣病公害は、原因者のチッソの補償負担能力を越えた大きな公害になったために、PPPが機能しなくなりました。そこで、国はPPPを堅持して水俣病患者補償を解決しようと、チッソ県債という形の公金を注入してチッソの患者補償を支援してきました。
 このチッソ県債は、チッソの倒産を防ぎ、地域経済の崩壊の歯止めの役を果たしましたが、「被害者を救済する前に加害者を救済する」という矛盾、ジレンマを抱え込むことになりました。一方、救済するはずのチッソは、逆に経営は破綻し、借りた県債の元利の償還ができなくなる。国は、県債の償還をさせるために新たなチッソ県債を発行しなければならなくなる。際限もなくチッソ県債は膨らんで国も本県も泥沼こ引き込まれる。そこで「水俣病を小さく収拾しよう」という国の内部の方針は、ますます強まって行ったと推測しています。患者などから「チッソを助けるために患者を切り捨てる」と非難が起こります。患者の行政不信は高まり、闘争の相手はチッソから、国、県に変わります。もがけばもがくほど底深く引きずり込まれる蟻地獄であります。PPPで治療するはずの傷口はますます大きくなり、今もひどく疼いているというのが現実です。
 PPPを堅持し、原因企業のチッソを前面に立てて解決というシナリオが破れ、皮肉にも今回の判決で、国、熊本県もPPPの原因者の仲間入りをなされました。これを機会に、水俣病公害のようなPPPの範囲に収まらない公害処理の在り方、国が取って来た政策の功罪など、PPPをめぐる問題を徹底的に検証していただきたいと思います。


<患者救済策について>
 水俣病患者救済は、公健法によって一定条件の症状が認められた患者にチッソとの補償協定で、A,B,Cの3ランクの補償が実施されています。
 その公健法による救済の下に「水俣病と認めることはできないが水俣病でないと否定もできない」という厚い層をつくってしまったのが、混乱の原因であります。
 現実には、裁判による司法認定による救済、そして政治解決の医療手帳と健康手帳による救済と、合わせて3投階の救済措置があり、一応、おおまかに各症状に応じた救済が並んでいると言えます。
 しかし行政救済、司法救済、政治救済と異質のものの羅列であり、釈然といたしません。矛盾を多く含んでいて論議を呼んでいます。すっきりした形に整合できないかと思います。
 その前提となる、水俣病という新たな定義づくりが必要だと思いますが、公健法やチッソとの補償協定などの絡みで非常に困難だと承っています。なんとか知恵を絞って、すっきり整理しないと収まりはつかないのではないでしょうか。
 認定基準は、医学的に水俣病か、そうでないかを識別するもので、いろいろな立場の医学者の異なった知見が発表され混乱しています。 いずれの学者の説をお聞きしても「なるほど」と無節操に納得してしまいます。ほとんど医学の知識のない者の悲しさです。
 同じ症状でも、水俣病によるものか、他の病気が原因なのか、判断が難しい例もあるようで、認定された患者の中にも、あるいは若干は水俣病でない他の病気の人も含まれているでしょうし、棄却された人の中にも本当の水俣病の患者が数多く存在しているのではと想像できます。
 かって、市民の一部に「似せ患者発言」があり社会から指弾を受けました。事実に基づかない中傷でありますが、その根底に、水俣病でない他の病気で補償金を貰ったというネタミや嫌悪感が潜んでいます。
 そこで認定審査は、できるだけ他の病気の混入をなくすために努力されてきたと思います。だが、本当の水俣病の患者が棄却されているとしたら、その方がより道義的に見過ごすことのできない問題であります。
 政治救済は、そういう意味で厳密な医学的判断だけでなく、公害病としては幅広く救済しようという理念が根底にあったと思っています。その理念は大切であり継続していくべきでしょう。
 いずれにしても医学、法律などの「専門家による論議の場」づくりを提案したいと思います。直接、論議を重ね知恵を繰って着地点を見出すことは専門家の責務だと思います。
 また、不在になっている認定審査会の委員の選任を急ぐべきでしょう。


<地域社会の「再生、融和」策について>
 水俣の患者と住民は、世界に類例のない公害の中で長い間、苦しみに耐え、戦いながら、それらのマイナスの遺産をプラスの資産に価値転換しようと努力してきた貴重な経験があります。
 市民の力で「もやい直し運動」を起こし、内面社会を立て直し、環境都市を目指して努力してきたという自信と誇りを持っています。
 また、このような悲劇が、何処にも二度と繰り返させないように、世界に向かって教訓を発信しなければならないという責務も感じています。
終了後、記者団に囲まれる吉井委員
=写真はいずれも2005年6月14日、環境省第2会議室で
 国は、このことをしっかりと評価し支援してもらいたい。地域の再生、融和を進めるには省庁を越えて国全体としての取り組みが重要であり、特に、責任を問われた経済産業省、厚生労働省の積極的姿勢が望まれます。
私は、市長就任前、中国のシンセン市を視察しました。中国の現在の経済発展の牽引車となっている経済特区です。それを視察して、環境立国を日指す日本は、国策として水俣市を環境特別区にして、心の豊かさ、物質的豊かさと環境保全をみごとに整合した都市、世界に類例のない公害都市を環境都市に価値転換した、世界のモデルになる都市をつくるべきだと提言してきましたが、公式発見50年を迎える今、改めて国家プロジェクトとして大きな構想の検討が必要でしょう。


<50年記念事業について>
 来年は、水俣病公式発見から50年を迎えます。記念行事の具体的な案が立案されることになりますが、「幕引き」になると危惧する声があります。そういう印象を与えないように、一過性のイベントでなく、50年を総括し、次の飛躍につなぐ企画が大切でしょう。また、これまで献身的な努力をしてきた患者、支援者、市民の出番を考えることも必要です。それに、住民全体が参加できるものでなければなりません。

 今、水俣市には、住民全体の参加を阻害するのではと危惧される事件があります。それは、水俣市の水源に当る山に、九州最大の産業廃棄物処理場を建設する計画が進められていて、水俣病患者や市民の心配が日増しに大きくなり、水俣病関係者を中心に反対運動が盛り上がっています。
「産業廃棄物で命を失い、50年間も塗炭の苦しみを味わわされた。それに、膨大な水銀へドロの産業廃棄物処理場である『水俣湾埋め立て地』はやがて耐用年数を迎える。堤防の鋼矢板の腐食が進んでいるというが大丈夫か、地震で護岸が壊れ、シートが破れ水銀へドロが流れ出すのでは、と常に心配が絶えない生活を強いられている。その上にまた、水源の山に産業廃棄物処理場か」と大変な精神的不安、動揺が起きているのです。この騒動で再び内面社会が混乱し、50年記念事業が順調に実施できないのではと危惧されています。
 すでに海に大きな産業廃棄物処理場を持つ水俣市に、さらに産業廃棄物処理場が集積するのは、産業のリスクの公平な負担ということでも問題があります。

 法律に合致すれば、国、県は建設の許可をされるのではないかと心配されています。
 今回の最高裁の判決を受けて、国は「地域の再生、融和」という対策を示されています。いろいろ困難な問題が絡んでいても「もうこれ以上、産業廃棄物で水俣を混乱させ市民を苦しめない」と毅然とした態度を示されるものと確信しています。
 以上、私の意見、感想を述ペさせていただきました。ご検討いただきたいと思います。

 水俣病公式発見50周年は、期せずしてチッソ創業100周年に当たります。
 記念行事も大切ですが、この大きな節目に当たり、被害者救済や残されている懸案の解決がなされなければならないと思います。環境、福祉、健康、産業などなど多くの問題があります。福祉の問題などは、加藤委員が提言されると存じます。私も次回以降も地元からの提言をして参りたいと思います。
 この大切な節目に、懇談会で各界の有識者の皆さんから、水俣病問題のより良い解決、そして水俣、不知火海沿岸地域の明るい将来について、お知恵をいただけることは大変うれしいことであり、心から感謝しながら発言を終わります。



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