寄稿

大阪在住の2人の水俣病関西訴訟の原告患者が遠路、熊本県庁へ直訴。うち1人は交付されたばかりの医療手帳を返却した。介添え同行した山中由紀さんがそのもようを寄稿してくれた。


“1万円と「認定」は引き換えられるはずがない”

=大阪の水俣病患者2人、熊本県へ直談判=

県民テレビにも生出演「何のために22年も裁判したか」

山中由紀
2005年6月19日(日)の夜8時、大阪・阿倍野の地下で、小さな待ち合わせがありました。熊本行きの夜行バスが出る時刻の1時間半以上前から「遅れてはいかんからと集まり、うどんと天ぷらの定食で夕食を済ませたのでした。

・ 「月1万円と引き換えに、水俣病患者としての認定を諦めるなんて、イヤ」「裁判所でも勝ったんだし、ちゃんと水俣病と認定してヨ」と県知事に言いに行くことにした坂本美代子さん(70歳)。
・ 「裁判に勝っても、亡くなった原告には何もない。なんとかしたい。同じ食事をした自分が認定されれば、両親も患者だと証明できる」からと、水俣病の認定申請をすることにした小笹恵さん(51歳)。

大阪発・熊本行きの夜行バスの中の
坂本美代子さん(右)と小笹恵さん
大阪→熊本 深夜バスは難行苦行………
 往路は、2階建てバスの1階。バスの入り口にもトイレにも近いということで選んだのですが、お尻の下からエンジン音がけっこう響き、美代子さんも恵さんも「一睡もしていない」とのこと。緊張感のせいもあったとは思いますが、1階は止めた方が良いようです(教訓)。帰路は1階建てのバスでした。疲れもあって寝はしましたが、やはり「夜行バスより夜行電車の方が良い」ようです。(バスは電車よりも安価で乗り換えがないので、今回、利用しました)

 熊本着は朝7時過ぎ。県庁前のホテルにすぐにチェック・イン。朝ご飯を食べてから、シャワーを浴びてご就寝。ベットは快適です。体を伸ばせるし、動かないし…。

恵さんが診察を受けた秋津レーク
タウン・クリニック
原田先生(右)の診察を受ける恵さ
ん。いささか緊張・・・・

小笹恵さん:原田先生に初めて認定のための診察受ける
昼からは、秋津レークタウン・クリニックに移動。恵さんが認定申請書に付ける診断書を書いてもらうため、原田正純先生の診察を受けました。恵さんは、自分が水俣病かどうかという観点から、診察を受けたのは初体験。「今日の検査で、違うと言われたら、うれしいけど、わざわざ熊本まで来て違うだなんて恥ずかしいわ。でも、同じものを家族で食べて、親しか水俣病にならないということはないし…」。

 パート先のスーパーで、天ぷらを作る際、油の中に手を突っ込んでも熱いと感じず、帰宅してから「あ、やけどしている、いつの間に〜」と思うような人が、正常なワケありません。水俣病でなければ、絶対に別の病気で、治療が必要です。
 原田先生の診察結果は「水俣病の疑いがあるので、精査の必要を認める」。昭和28年生まれの恵さんは、子供の時から汚染魚を食べて育った小児性水俣病の世代です。大人になってから汚染魚を食べた場合とは、症状が違い、研究もまだまだ。今までは若かったから誤魔化せたでしょうが、50歳代になるとそうも言ってられません。今後、どんどんと申請者が増えることでしょう。

 原田先生は診断書をすぐに書いてくださったので、翌日、熊本県庁に提出しに行くことになりました。
 秋津レークタウン・クリニックは、初めて行きましたが、閑静な住宅街の一角にあり、職員の皆さんも穏やかで親切で、ホッとしました。診察の前後は、和室で休憩させてくださり、ありがとうございました。助かりました。

 余力があれば、熊本の名所見物や温泉巡りをしたかったのですが、残念ながら無理でした。坂本さんは大阪に来てから出身を聞かれると「水前寺公園の近く」と言いながら、いまだに行ったことがないのです。恵さんも小学校の修学旅行で、熊本城に行ったり、路面電車に乗ったくらい。今回もお楽しみは食事だけ。新鮮なお寿司や馬刺しをいただくことで、ささやかに熊本気分を満喫しました。

 翌日は、午前中は家族や職場・ご近所への土産物の調達のため、水前寺公園へ。朝早かったのですが、土産物屋さんは空いていました。土産を買わないと落ち着かないらしく、水前寺公園には行かずじまい。すぐに引き返し、土産物屋さんでもらった段ボール箱に荷物を詰めるのにワイワイ騒いで、ホテルのフロントで宅急便を頼んで一安心。ホテルの隣にある、お寿司屋さんが経営しているという回転寿司で、早めの昼食。朝ご飯から3時間弱しかたっていないので、そんなに空腹ではないのですが、さすがはお寿司屋さんの回転寿司で美味。最後はウニでしめました。

アポイントなしで県の対策課長に面談。知事には会えず
 午後1時には、県庁に向かいました。初めての県庁訪問。銀杏並木をエンエンと歩いた先に、県庁の建物が、本館と新館にありました。水俣病関係は新館にあるということなので、まっすぐ新館へ。大きなカメラを抱えたマスコミさんが何やら10人以上集まっていて、水俣病対策課に連れて行ってくれました。

谷崎課長(左)に認定申請書を提出
。恵さん「私は泣き寝入りはしませ
んよ!」

 特にアポイントも入れていなかったのですが、水俣病対策課の課長さんは在席中。恵さんは、驚く課長さんの前に立ち
「認定申請書を持ってきました。それと、お話があるので、知事さんに会わせてほし い」
「申請書は分りました。知事は今、県議会中なので…」
「10分か20分でも構いませんが」
「議会を抜けることは出来ないので…」
「では、知事さんに代わる人に会わせて下さい」
「私で良ければ…。今、空いている会議室を探させますので、まずはあちらで…」
と課長自ら、応接ゾーンにご案内。
 待っている間に、「書類に不備がありました」とのことで、署名と押印を忘れていたところに追加。恵さんいわく「宅急便でハンコを送り返さなくてよかった〜」。

坂本美代子さん:5月末に交付された医療手帳を返却
 結局、会議室はふさがっていたそうで、職員研修室という広〜い部屋に案内されました。窓際に机を並べて、向かい合って着席。課長が「構わないのですか?」とマスコミの存在を気にしましたが、二人は「ハイ」と一蹴。そして、美代子さんが、「これ、お返しします」と、保険証のようなモノを課長に差し出しました。
 それは、今年の5月末に、勝訴原告だけに渡されたオレンジ色の手帳。医療費の自己負担分のほかに、条件を満たせば月額最高1万円が介添費という名目で支給されます。

勝訴原告向けの手帳を返却した美
代子さん(左)。「私が求めるのは
水俣病患者としての認定!その為
に裁判を闘ってきた!!」

「私は水俣病と認定してもらうために、裁判を22年もやってきた。こんなことで誤化されない。あくまで認定を求めているから、お返しします」

 差し出された課長が「受け取れない」と言い出したら、「返す」「受け取れない」「受け取って」「受け取れません」の言い合いになって、途中で美代子さんの血圧が上って引っくり返るかもしれないなと心配していましたが、実際は「お預かりして、環境省に届けます」という応対だったので、一安心(ご本人も拍子抜けしたそうです)。

 その後は、美代子さんの語り部コーナー状態。劇症型だったお姉さんの話、村八分に遭いながら家族で介護したこと、姉におかゆをたべさせる資金を稼ぐために大阪に出たこと、美容師になったけれど手先の感覚が鈍くて失業したこと、40歳過ぎには働けない体になったこと、自分の体が弱いことで娘や息子に心配を掛けつづけていること、もし自分に万が一のことがあったら娘や息子が来るだろうこと。その時は「私のように、穏やかにはいきませんよ…」。

 鬼気迫る美代子さんの語りに、室内はシーン(バッテリーやテープを入れ替える音がするくらい)。その合間を縫って、恵さんも話しました。

マスコミ注視の中で、2人の訴えは
1時間にも及んだ

「医療費なんて当然の話。国・県は大げさに言うな!」
「医療費なんて、国や県の人は大層な言い方をしていますけど、当たり前ですよ。人間は1日24時間、病院に行っているワケではありません。普通の生活があるのです。家賃も要ります、食費も要ります。電気代、水道代、ガス代、いろいろ要るんです。でも、水俣病の人はあまり働けなかったから、生活が苦しいのです。だから、認定が要るのですよ。医療費なんて、当たり前の最低限ですよ。」
 「本来なら、不知火海沿岸の魚を主食にしてきた人全員に、医療費は渡して当然ですよ。私の両親のように、関西に出た人も対象です。探してでも、助けてください。」
 「私の両親は、裁判でもちゃんと認められています。早く亡くなったのは、それだけ病気が重かったからでしょ。それなのに、なんにもなしなんて、そんな死に損、私は納得できません。親が死んで裁判で850万円なんて、少なすぎると思いませんか? あなた方なら、納得できますか?」
 「私も今日から認定申請をしました。父は保留のまま亡くなって、そのままです。母は棄却されて不服申し立てをして、そのままです。今頃は、書類がホコリにまみれているのではありませんか? 私は自分が認定されたら、両親も認定されたと同じになると思うので、思い切って申請することにしました。でも、昨日、診察をしてもらって水俣病の疑いがあると言われた時はショックでした。私は泣き寝入りはしませんよ。あなた方も、もっと真剣に向かい合ってくださいよ。また、来ますからね」

1時間半の訴え。2人の体調に変化が………
 フと時計を見ると、午後2時半。県庁に行ってから1時間半ほどたっています。エンドレスな話し合いで、課長さんたちも大変。ですが、美代子さんと恵さんも大丈夫かなと思い始めたところ、美代子さんが頭痛に耐えかね、薬を飲むことに…。
 美代子さんは常に耳鳴りがし、頭痛に悩まされているのですが、薬を飲まずにはいられないほどの激痛に襲われ、県職員は課長以下、体調の急変に、おおわらわ!

 飲み終えた後、美代子さんは課長さんに挨拶をしようと、頭を下げられたのですが、よ〜く見ると、前方にいたのはマスコミさんのカメラ。後ろにいた私に「あれ、課長さんは?」という。課長さんは、美代子さんのすぐ斜め横に付き添ってくださっていたのでした…。見えない? 視野狭窄を実感したひとこまでした。
 なお、恵さんも同時に頭痛が酷くなったそうですが、人前で薬を飲むのがイヤなので、廊下に行ったそうです。二人で飲むと「わざとらしい」と思われたらイヤということだそうです(そんなの、考えすぎだと思いますが…)。

テレビに生出演。アナウンサー(左)
の質問にしっかり答える美代子さん
=写真はいずれも山中由紀さん撮影

 県庁をおいとました後は、和室を提供してくれるというくまもと県民テレビさんに直行。マスコミさんは、課長さんへの取材に殺到。
 コーヒーをいただきながら和室で一休み。なんとか体調も回復したので、美代子さんはスカート姿に変身して、県民テレビの夕方のニュースに生出演。
 「緊張した」「何を言ったか覚えてない」とのことでしたが、しっかりと「私は認定をもらうために、裁判を続けてきた。認定してほしい」としっかり喋っておられました。恵さんと私は、スタジオセットの脇で見物していました。恵さんは「坂本さんはスゴイわ〜。私は絶対に出来ない」と感心しきり。

 出演中は雨が降っていたのか、道路が濡れていましたが、外に出たときにはキレイな虹が出ていました。美代子さんと恵さんの二人の生あるうちに認定通知が届きますように、願わずにはいられませんでした。

≪後日談≫
山中由紀さんから「その後」について、次のような報告が―。

熊本県庁を訪れ、認定申請した小笹恵さんですが、このたび無事に受理された旨、書類が届いたそうです。
でも、「遺族」という単語が目に付いたので、「なになに…」と、その書類をよーく見たところ「亡くなった場合は半年以内に手続きしないと失効します(要約)」とあったとのこと。
翌日、熊本県の水俣病対策課に「こんなん知らなかった。ウチの親はどうなってます?」と問い合わせたところ、調べてくれ、答えは案の定「失効してます…」。
「両親を認定してもらおうと思ったから、あとを継いで、13年間、頑張って来た。父が亡くなった4ヵ月目から私は訴訟団に参加している。その2ヵ月後に失効してたなんて…。そんな決まりはおかしい! 泣き寝入りはしない!!」と、激怒しておられます。

認定申請受理は一歩前進。だが、本質は何も変わっていない。小笹さん、大阪にあるご両親の墓前に参り、「これからも闘う」ことを誓ってきたそうです。【2005.7.21】

※山中由紀 [生命・環境系の週間テレビ予報] http://homepage2.nifty.com/yukidon/
【参照:熊本日日新聞(05.6.22)】
*「関西訴訟の勝訴原告1人 医療費支給手帳を返上 新対策「納得できず」」
  http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20050622.1.html
*「解説:医療費支給手帳を返上 方針変えぬ国に憤り」
  http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20050622.2.html
*「小池環境相 勝訴原告の医療費受給拒否「やむを得ない」 」
  http://kumanichi.com/feature/minamata/kiji/20050624.2.html
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