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<生き様にもっとも影響を与えた祖父・時久>@
中規模農家の二男として生を受ける
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時久は、明治14(1881)年、栃木県下都賀郡の旧稲葉村―現在の壬生町下稲葉で、農家の二男として生まれた。「二男」としたが、戸籍上は「三男」。二男は幼くして亡くなったと考えられる。当時の稲葉尋常小学校、高等小学校を卒業したあと、本人の意識では成績が優秀だったこと、向学心が強かったことから、中学へ進学したかったし、進学できると考えていたが、父・啓太は、自らが学問好きでなかったこともあって、「これ以上、教育費をかけられない」という二男以下の子供には「早く社会に出て稼げ」という当時の社会的習慣をあえて曲げなかった。それを聞いた時久少年は地団駄踏んで悔しがり、「床板を踏み抜いた」というエピソードが語り伝えられている(甥の長男・小島慶一さん)。当時の農家の床板を子供、しかもそう大きな体でなかった時久が踏み抜いたということはよほど悔しくて、地団駄というよりは暴れた結果というべきだろう……。
写真:時久の生家。約70年前に建て替えられる前まではわらぶき屋根だった
◇祖父・小嶋時久 プロフィール◇
1881(明14)/2/1 |
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小嶋啓太−セイの三男として栃木県旧稲葉村 |
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(現 壬生町下稲葉)で生まれる |
1893(明24)/3 |
12 歳 |
稲葉尋常小学校卒業 |
1895(明28)/3 |
14歳 |
稲葉高等小学校卒業→1年間、代用教員に |
1896(明29)/4 |
15歳 |
旧制栃木中学の開校を待ち入学 |
1901(明34)/3 |
20歳 |
第1回生として栃木中学卒業 |
同 (同) /12 |
同 |
陸軍士官学校入学 |
1903(明36)/7 |
22歳 |
陸軍士官学校卒業(輜重兵大尉/15期) |
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運輸部に配属 |
1904〜5(明37〜38) |
23〜24歳 |
日露戦争に出征 |
1906(明39) |
25歳 |
宇賀神忠三郎−キミの二女・トウと結婚 |
1907(明40)/10/5 |
26歳 |
東京で長女・久誕生 |
1909(明42)/2 |
28歳 |
赴任地・青森県弘前市で長男・忠久誕生 |
1910(明43)/11 |
29歳 |
東京で二女・登志誕生 |
? |
? |
北朝鮮・羅南へ赴任 |
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1912(大1)/11/25 |
31歳 |
陸軍大学(24期)卒業 |
1913(大3) |
32歳 |
二男・清誕生(4歳で死亡) |
1918(大7) |
37歳 |
新宿・大久保百人町の分譲地に住居新築 |
〃 (〃)/9 |
〃 |
同地で三男・三郎誕生 |
1921(大10)/5 |
40歳 |
同地で三女・春誕生 |
1923(大12) |
42歳 |
仙台駐在から東京に戻る |
? |
? |
香川県善通寺に赴任 |
1926(大15)/3/2 |
45歳 |
大佐・輜重11大隊長に任じられる |
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1928(昭3)/2/27 |
47歳 |
勲三等瑞宝章を授与される |
1931(昭6)/8/1 |
50歳 |
少将に任じられる |
1932(昭7)/11/1 |
51歳 |
夫妻で新宿御苑での観菊会に招かれる |
1933(昭8)/3/18 |
52歳 |
陸軍自動車校長に就任 |
1934(昭9)/4/29 |
53歳 |
勲二等瑞宝章を授与される |
〃(〃)/8/1 |
〃 |
陸軍自動車校長退官 待命 |
〃(〃)/9/30 |
〃 |
予備役に 軍人生活を終える |
1935(昭10)/9/10 |
54歳 |
『輜重兵戦術とは<全>』を出版 |
1937(昭12)/1/20 |
56歳 |
『輜重兵戦術とは<続>』を出版 |
同 (同)/秋 |
同 |
東京・大森に借地、敷地内に父子で天文台設置 |
1942(昭17)/6/7 |
61歳 |
『兵用天文 星で方角を知る方法』(初版)を出版 |
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1945(昭20)/4/15 |
64歳 |
東京大空襲により被災 栃木県壬生町へ移住 |
〃 (〃)/12 |
〃 |
「拓生」開拓団地に入植 |
1948(昭23)/1 |
67歳 |
「開拓農業組合長」に就任 |
〃 (〃)/9/27 |
〃 |
2町5反の自作農(地主)になる |
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1956(昭和31) |
70歳 |
結婚後50年。金婚を祝われる |
1962(昭37)/2 |
81歳 |
くも膜下出血で倒れる |
〃 (〃)/4/13 |
〃 |
壬生町で生涯を閉じる |
一時は隣村の石屋に養子に出される話も
そして、人を介して隣村の石屋への養子の話が持ち込まれ、祖父・長吉に連れられ、養子先に向かったが、多分、途中でぐずったか、子供なりに精いっぱいのパフォーマンスでアピールしたのだろう。不憫に思った祖父は途中で引き返したと、これは〈純〉が生前語ってくれた話だ。もし、祖父が時久の気持ちを受け止めず、そのまま石屋に連れて行ってたら時久の生涯はまったく変わっていただろうし、〈純〉の存在もなかったわけで、〈純〉にとっては高祖父になる長吉の温情はかけがえのないものと言える。
折しも、栃木市に「栃木中学」(俗称:栃中。栃木県尋常中学校栃木分校)が明治29(1896)年3月、当時の旧制宇都宮中学(俗称・宇中。現 宇都宮高校の前身)の分校として開設されることが広報され、時久少年は小学校を卒業したら、あわや石屋に養子に出されるという場面があったのに、「どうしても栃木中学にいきたい」と心に決め、1年間、代用教員として働き、栃木中学の開校を待ったという。向学心の強さを物語るエピソードであり、そのDNAは紛れもなく〈純〉に引き継がれたと言えよう。
写真:明治29年の開校当時の栃木中学全景 【提供:栃木高校】
開校を1年待ち晴れて「栃中」の一期生に
1896(明29)年4月、晴れて旧制栃木中学に入学した。
幸いにも、それらの記録は残されている。
「在学証明書」。文字通り「個人情報」であるが、110年前の“史実”であり、関係者の同意もいただいて紹介する。
表紙には―
在学証書綴
明治29(1896)年4月12日 起
栃木県尋常中学校栃木分校
―と記されている。和紙を二つ折りにし、よられた太目の木綿糸で綴じられている。
開くと、「在学証書」として入学を許可された生徒が諸規則を守ることはもちろん、本人の身上に関して保証してくれた保証人の証書を差し出します旨の、いわば誓約書を署名入りでしたため、ページを繰ると、保証人の自著とともに、その保証人を保証する村長の署名が認められる。村長名は鯉沼道唯となっている。
このように、入学の際のハードルとともに、入学可となっても二重の保証人の署名が必要となるなど、いまでは考えられない基準で入学が許可されていたことが推察される。
写真:「在学証明綴」(左)と「卒業生徒名簿」(右)
一方、別の記録によると、300人余の入学志望者から約120人の入学が許可されたという。地域で初めての
公立中学校であり、入学希望者は300人余だったのが120人余りに絞られたことになる。2.5倍の競争率だったという計算になる。
そして、この第1回入学生120人余は5年後の卒業時には56名になっている。5年の間に様々な事情により脱落し、中途退学を余儀なくされたものが半数以上もいたことになる。
写真:旧制栃木中学の第1回卒業生。小嶋時久は3列目・左から2人目。107年前の写真が残されていた!
写真:写真の裏に卒業生と教員の名前が手書きで残されていた 【提供:栃木高校】
通学当初は裸足で歩いたが最後は近くの商家に下宿
時久が栃中に入学したのは明治29(1896)年で、栃木市より北方在住の生徒たちの通学の足となった東武鉄道宇都宮線の開通は昭和6(1931)年だからずっと後のことになり、時久たちの“通学の足”にはなり得なかった。通学当初は歩いたらしい。ある時期には「母親にお弁当を二つ作ってもらって、家で飼っていた農業用の馬に乗って通った」という話も伝わっている。しかし、住まいの「旧稲葉村」から栃中までは三里・約12キロメートル。「日光例幣使街道」とよばれる現在の国道2号線をテクテクと歩いたわけだ。いくら農家育ちで幼い頃から足腰を鍛えられていたとしても往復24キロはかなりのものだ。白状すると、【検証】すべく歩き始めたが季節が真冬だったこともあり、途中でギブアップしてしまった……。
それでも時久は2年ほどは徒歩通学を敢行したらしい。しかし、通常使っていたワラジは片道12キロの通学には消耗が激しかったため、気候の良いときは途中までは裸足で歩き、学校に近づいてから、恐らくは近くを流れる巴波川(うずまがわ)で足を洗い、下駄に履き替えたようだ。
これを裏付ける記録がある。後でも引用させてもらうが、第1回の同期の塩田貞寿(元 東京アルミニューム製作所長)の記述だ。ただ、時久と通学距離と家庭関係が違ったのだろう、「靴も月一度くらい修繕に出すし、中々出費もかさむ。そこで仲間と謀り、学校の近くの下駄屋へ靴をあずけて置き、自宅からの往復二里(約8キロ)の道は、下駄ばき、雨の日は跣足(はだし)で通うこともあった」。塩田の場合、通学距離は往復で8キロでも時には裸足で歩いたようなので、片道12キロの時久の歩きっぷりは群を抜いていた、と考えるのは肩のもちすぎであろうか……。
写真:卒業時の塩田貞寿。1期生の代表格だったようだ
しかし、高学年になるにしたがい、生徒会活動やいまでいう部活も本格化したのであろう。自宅からは通い切れなくなり、親しい仲間5人で栃中から徒歩5分ほどの「釜藤」という糸綿商に下宿したようだ。この「釜藤」の当時の主は進取性に富み、本業は糸綿の商いであったが、地元に開校された栃中に対し、勝手連的感覚でおそらく廉価で学生を下宿させたり、私的集会を黙認したり、陰に陽にサポートしていたと考えられる。
写真:「釜藤」があったところ。代替りし改造されているが、かつては立面図のように典型的な見世蔵だった。 【提供:栃木市教育委員会】
写真:いまは枕屋に代替わりになっているが、往時の基礎構造は残っている
ところで、時久少年、在学中はどんな学生だったのだろうか?
活動の一端をうかがわせる記録が残されている。前出の塩田の記述を再度引用させてもらう(原文のまま)。
「学校内に生徒間の親睦を計る何の会もないので、同志二十名ばかり発起人となり、同窓会を創設することとなった。学校当局は何等関与せず、全く生徒の自治に委ねられた。事業といっても弁論部、運動部、雑誌部(会報)位で、生徒各自から毎月一定のささいな会費を会計幹事が徴収して経費に当てた。小生は雑誌部の仕事をしたが(中略)、一緒に仕事をしたのは小嶋時久君、伊東復君、平野義夫君、酒井与三郎君などで、専心その衝に当たられた」。
時久は雑誌部に属していたことが分かった。塩田の補足によると、『会誌』第1号は無制限で寄稿を収載したので、著しく膨大な冊子となったため、2号以下は原稿を精選したが、編集作業は放課後、数名の委員が7日間くらい居残りをし、東京の印刷所へ原稿を送るなどの作業を続け、その負担は重かったものの、出来上がるとそんな苦労はすっ飛び、快感にひたったらしい。
この何気ない記述にも時久が下宿せざるを得なくなったことと、退役後、自ら執筆や雑誌の編集に携わった伏線を感じることができよう。そして、こじつけでなく、こんなところも〈純〉にDNAとして引き継がれているのではないだろうか。
“下宿5人組”は切磋琢磨し社会で活躍
ところで、下宿した「5人組」について触れておきたい。うち4人が後世、世の中に名を馳せているからだ。
時久のほかは阿久津謙二、松村光三(当時は芳平)そして渡辺孫一郎である。阿久津は一橋大学教授に、松村は衆議院議員に、そして渡辺は東大教授→東京理科大教授、日本数学教育会会長になっている。残念ながら残る一人は卒業後渡米したものの成功せず、帰国したことまでは分かっているが、後は行方知らずになっているとか。
少なくても、時久を含め阿部ともう一人を除いて3人は卒業写真と卒業生名簿で確認できる。しかし、この5人の下宿、考えてみると阿部派1年下、すなわち2回生(もしかして1期入学したが何らかの理由で留年した?)。また松村の実家は栃木市内だ。共に下宿する理由は希薄だ。若き青年時代の盛り上がりというか、意気投合し自然発生的に共同生活に至ったのではないか。そして思想的背景は別として彼らの下宿部屋が一種のアジト的意味合いがあったのではなかったのか?……。残念ながら、これの裏づけは取れず、想像の域を出ない。ただ、5人のうち4人までが成年してから分野は異なるものの活躍したという事実は、時久をはじめ彼らの一人一人の資質の高さと、交友が深まることで触発され、切磋琢磨した結果と言って間違いないだろう。
写真: 小嶋時久 渡辺孫一郎 松村光三 【提供:栃木高校】
修学旅行で海を見、5年の秋は徒歩で足尾・日光を踏破
塩田はまた学生生活で一番楽しかったこととして「修学旅行だった」と、こんな感じで述懐している(原文のまま)。
「二年の春、東京・江ノ島・鎌倉へ初旅行。中には遠距離汽車に乗り、宿屋に泊り、又海を見るなど初めての者が多かった位で、最も印象に残っている。その後毎年処を換えて旅行に出たが、四年の春の仙台・松島遊覧、次が鉱物採集のため、五年の秋徒歩で足尾から日光踏破など、質実剛健を以て鳴らした栃中として、今に忘れぬ楽しかった行事の一つである」。
写真:箱根方面への鉱物採取旅行=1901(明治34)年 【『栃高百年史』より】
ほとんどの学生が初めて海を見た……としている。後年、時久は東京・大森の高台に300坪(約1000平方メートル)の土地を借り、居を構えている。今は叶うべくもないが、西の方向には富士山が、東の眼下には大森海岸が、さらに東の彼方には房総半島が一望できる立地だ。中学2年で初めて見た海のファーストインプレッションはあまりにも鮮烈で、「いつか海の見えるところに住もう」との思いを刷り込まれたのではないか?……。
そして、もう一つの仮想を試みてみたい。
塩田が何気なく記した「(栃中)5年の秋」は奇しきも1900年、明治33年だ。「足尾から日光踏破」したという。
なにかの因縁すら感じずにいられない!(ただし、『栃高百年史』には「二泊三日の日光・足尾・粟野方面“植物”採集行軍」と記されている)
「足尾」ではすでに「鉱毒事件」は公知の事実となっており、国会では田中正造が政府を追及し、鉱毒被害民は1900(明治33)年2月には5000人が4回目の押出しを行うため動き出したところで、阻止しようとした警官隊と衝突、いわゆる川俣事件が起こっている。
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↓<生き様にもっとも影響を与えた祖父・時久>Aへ |
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