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<生き様にもっとも影響を与えた祖父・時久>A
陸軍士官学校に入学、職業軍人の道を選ぶ
充実した時久の中学生活は1901(明治34)年3月の卒業式をもって幕を閉じた。時久の卒業時の成績は8番であった。入学時120人余、卒業時50人余という変化の中で、努力した結果がこの成績順位に如実に現れているのではないだろうか。そして、その年の12月、陸軍士官学校に15期生として入学、1年7ヵ月の陸士生活を送る。
軍人の道を選んだのは〈純〉によれば、「家の財力からいって、これ以上の高等教育を受けさせる余裕がなか
ったため」という。こんどは本人も納得づくで軍人の道を選択したようだ。恐らくは、栃中時代、質実剛健のスパルタ教育を受け、4年生の時に同校が近衛師団の北関東大演習統監のため明治天皇の大本営に選ばれ、その受入れ準備を経験したこと、11月15日、全生徒は整列して迎え、明治天皇の行幸を目の当たりにしたことなどで19歳の時久に何らかの影響を与えたことは容易に想像できよう。と同時に、時久が本来気質として持っていた「運命への従順さ」もここで働いたと思われる。いい意味での大勢順応である。
以後、53歳で退官するまで33年間、時久は職業を「軍人」とするのである。
1年7ヵ月で士官学校を終えると、曹長に進級し、見習士官となり、原隊に復帰、半年ほどで原隊の推薦が必要だが少尉に任官する―というのが当時の陸軍の慣習であった。残念ながらこの部分を裏付ける記録がないので推測でしかない。
はっきりしているのは、1904(明治37)年2月8日、日露戦争の勃発とともに時久は下士官として出征したことである。このとき、壬生町稲葉からは「将校2名、下士官15名、兵卒111名が出征。将校は2名とも、下士官は1名、兵卒は4名戦死している」と『壬生の歴史』に記載されている。時久ともう1人の下士官は幸いにも無事生還した。
日露戦争への出征は、時久の母校、稲葉尋常小学校(現 壬生町立稲葉小学校)校内の記念碑の裏側に確かに刻まれていた。
写真:稲葉小学校に建っている「日露戦争記念碑」。裏側に小嶋時久の名が刻まれていた
そこで、こういうイメージは描けないだろうか? 陸士を出て兵隊としての経験をさほど積まないうちに日露戦争の勃発、出征となったが、2年弱の実践で時久なりに「その後の生き様」を見たのではないか? という。
階級制度の厳しい陸軍の実態という内的条件、野戦を体験しての日本陸軍の構造的・機能的弱点あるいは改善点の外的条件を後述するような「科学的」視点で看破したのではなかろうか。後年、時久がまとめた「輜重兵術」に関する著作などで垣間見るしか今となってはその裏を取る術はない。
当時の軍の上層部はことごとく“薩長連合”によって占められていた。帝国大の出身でもなく、非主流派の出世は望むべくもなかった。その現実を見たとき、時久は「自分は裏方に徹しよう。たとえ輜重兵が世間で軽く扱われようが、そこに自分の生きる道がある。その代わり、テクノクラートとしてのプロフェッショナル性を発揮しよう」――こう心に誓ったに違いない。
当時の軍は重機の輸送を牛馬に頼っていた。それは、もしかして戦国時代からの慣習であったかもしれない。しかし人力よりはましとしても地勢や気候条件によってはその機能性はそう高くない。「歴史的な戦争哲学書である
クラウゼウィッツの『戦争論』を読んだり、戦争史を集めたり、さらには輜重兵に必要な自然科学、とりわけ天文学を独学で学んだりしたようだ」と生前、〈純〉は証言している。そして、日露戦争を経験して、強力な自動車部隊を編成していたロシア軍の動きを目の当たりにして、“牛馬から自動車への転換”を発案、提言したとされている(ただ、関係者の伝聞としてはこう聞いていたが、実際に提言した人物は別にいて、時久はそれを支持したのではないかとも思われる)。
その一人は時久が指導し、面度を見た情報官・鈴木庫三である。佐藤卓巳の『言論統制』(中公新書)から引用する。
機械化された軍隊と然らざる軍隊と同一条件で戦ふ時は後者は必ず敗ける。機械化の主要の要素は、自動車である。従って自動車の発達は軍隊の価値の間接に左右する。吾人は何しても我国の自動車の発達に努力せねばならぬと結論した。=1929.10.8
そして、鈴木は輜重手段の主力を牛馬から自動車に改編する軍制改革案を立案し、その説明を陸軍省で行っている……と。佐藤は記している。1929年という日付が正確であれば時久はすでに少将になっていた。鈴木提案を容認、擁護したということも考えられる。
時系列的には前後するが、軍内部における時久の人望はかなり厚かったと思われる記述もある。時久が大佐時代のエピソードだ。『言論統制』の主人公の鈴木が「建軍の本戦」と題する陸大の卒論をまとめた。詳細は省くが、かなり本質を鋭く突く提言と理解されたい。それだけに、慎重に順序を重んじて提出され、その一環としてあるとき小嶋時久大佐に鈴木が紹介された。その時点で鈴木の主張・提言は守旧派の多い陸軍内部ではマイナー。だが、時久は鈴木を自宅に呼び個人的に相談に乗っている。若き日の自分を見る思いではなかったのか……。
鈴木にまつわる話しを佐藤はもう一つ取り上げている。向学心の強い鈴木は軍人でありながら、夜、日本大学文学部に通っていた。同時に、非帝大出身者に「帝大派遣学生制度」を利用して東京帝国大学への編入を強く希望していた。しかし、突出する鈴木の行動にはそれをすんなりと認めない内部の評価が付きまとい、時久も部内で強く主張していたものの、なかなか実現しないまま経過していた。1927(昭和2)年のことであった。
1929(昭和4)年10月24日、ニューヨーク株式市場の大暴落を引き金に、いわゆる世界大恐慌“暗黒の木曜日”が起こった。それ以前に関東大震災、昭和恐慌などで疲弊していた日本経済にさらに大ブレーキがかかり、将校の停年引き下げなどが起きており、鈴木の東大派遣にはさらに逆風となった。
そういう中で、鈴木は小嶋大佐から「帝大派遣内定」の旨書かれた私信を受け取った。小嶋だけではないが、自分を遇してくれた小嶋らに「今日のように上官から衷心の賛成を得たことは初めて」という気持ちをもっていただけに、鈴木の気持ちは察するに余りある。
時久の軍人生活の中でもっとも華やかな時期は1931(昭和6)年11月の新宿御苑での観菊会に夫妻で招かれたことであろう。その前の年に少将に任じられている。そして、2年後には勲二等瑞宝章を授与されている。有終の美とはこのことを指すのではないだろうか。
そして、時久はトコロテン式に1933(昭和8)年、自動車学校長(陸軍発令では「自動車校長」)に就任した。その2年前に少将に昇官していたが、輜重兵将校として“最後のご奉公”だった。1年半、学校長を務め、時久の軍人生活は事実上終わった。1934(昭和9)年8月1日であった。
写真左:少将に任じられた頃の時久=1931年頃の撮影と思われる
写真右:勲二等瑞宝章を首に下げ正装した時久−トウ夫妻=1934年頃の撮影と思われる
なお、時久は33年の軍人生活で、実に6回も叙勲していることが最近確認できた。列挙すると―
1> 明治39年 4月 1日…………勲六等 単光旭日章
2> 大正 2年 5月31日…………勲五等 瑞宝章
3> 大正 9年 2月29日…………勲四等 瑞宝章
4> 大正 9年11月 1日…………勲四等 旭日小綬章
5> 昭和 3年 2月27日…………勲三等 瑞宝章
6> 昭和 9年 4月29日…………勲二等 瑞宝章
―であった。「技術将校」としては最高のレベルまで上りつめた軍人と言ってよいであろう。
解き放されたように“出版”に精を出す
待命→予備役となった時久は退役OBとして後輩たちの相談相手になったりしながら、「新たな輜重兵の戦術の体系化」という、あたためていた構想を一気にまとめ、出版化する。
手元に三女・吉原春さんからお借りした『輜重兵戦術とは<全>』と、『続 輜重兵戦術とは<全>』、そして『兵用天文 星で方角を知る方法』の分厚いコピーファイルがあるが、素人目にも精緻を極めていると思われる。
写真:『輜重兵戦術とは<全>』(左)と『続 輜重兵戦術とは<全>』(右)と、中央が『兵用天文 星で方角を知る方法』
自らの執筆・出版が一段落すると、少年向けの国防科学雑誌『機械化』(山海堂)の編集を手がけたとされている。このことは〈純〉が自叙伝『キミよ歩いて考えろ』の中で書いているので事実であろうが、残念ながら、時久が編集を手がけたという実証記録は見当たらない。出版元の山海堂は1896(明治29)年 教科書会社として創業した老舗だが、2007年(平成19)年会社の歴史を閉じている。
写真:国防科学雑誌『機械化』の表紙
時代を反映して「国防」というキーワードだけでなく、「少年」とか「科学」など時久の次世代への思いを込めた行動と受け止めたい。
「少年」というキーワードで言えば、60歳の時にまとめた『兵用天文 星で方角を知る方法』はタイトルこそいかめしいが、中味は大宇宙にロマンを求め、かつ、天文学を駆使して星座など実際の知識を読者に与えたいという思いやりの詰まった著書である。
天文学つながりでは著作だけでなく、長男・忠久とともに大森の敷地内に手作りで天文台を作ったのもこの頃だ。東京大学機械科の学生だった忠久が卒業制作で望遠鏡を設計し、それをもとに「8インチの反射望遠鏡を据付け、時計仕掛けで星の動きを追っていける」(〈純〉)天文台は手作りとはいえ、当時としては相当なレベルのもので、費用も「確か、軍人の退職金をほとんどつぎ込んだはず」(吉原春さん)だという。
春さんの述懐は続く。「コンクリートで望遠鏡の台を家の2階の高さまで立ち上げ、コンクリートとは接触しない、人の歩く部分を木造として、天文台の屋根はレールで移動し開閉式になっていたました」。庭先に天文台を作るという発想といい、息子の卒業記念制作にマッチさせたその行動といい、退職金をはたいてしまう大胆さはどう見ても常人の発想では考えられない。家計を仕切っていた妻・トウさん初め、父子の行動を見守っていた家族の温かい視線……典型的な中流家庭の絵柄である。
大空襲―敗戦で一転。栃木へ開拓地に入植
しかし、戦況は悪化し、1945(昭和20)年3月10日から始まった米軍による大空襲は小嶋一家、宇井一家も大きな被害をこうむった。4月13日には大森の家を、5月15日には大久保の家(他人に借家にしていた)を消失し、しかも時久は消火活動で顔に火傷をおった。時久はやむなく栃木県壬生町への疎開を決意する。
こうして時久81年の人生の最終章が始まる。
全てを失った形で時久一家は栃木県壬生町の開拓団地に入植する。1945(昭和20)年も押し詰まった12月のことであった。
ここから、小嶋家にとっても宇井家にとっても戦後の苦しい時代が始まる。いわゆる“開拓時代”だ。同時に、時久にとっては44年ぶりの帰郷でもあった。しかし、この開拓地への入植は時久としては多分に複雑な心境での帰郷であったと言えよう。開戦からすでに現役でもなく、時久個人の責任でもないが、かつてリーダーの一員であった日本陸軍の暴走の挙句での開戦・敗戦、一族郎党が食いつなぎ生き延びていかなければならないまったなしの現実、よわい64歳。最年長での入植…………。どんな心境で故郷・栃木に戻ったのだろうか?
しかし見方を変えれば、この開拓時代、逆に小嶋家・宇井家は“合体”し、苦しいながら創意と工夫に満ちた日々が続くのであるが、それらの詳細については「開拓時代」として別途取り上げるので、今回はいわばハイライトに留め、時久の人生の締めくくりへとつなげたい。
リーダーシップ発揮、不慣れな農業に科学的挑戦
新開拓地への入植の最初の具体的な動きは、長男・忠久がアクションを起こしていたというのが事実経過のようだ。1935(昭和10)年4月に東大機械科を出た忠久は当時の日産自動車に入社したが、翼下の満州自動車を経て関東工業に転籍していた。関東工業は日産の加工部門を母体に旧陸軍の要請により砲弾を大量生産することを目的に、1942(昭和17)年10月に設立されたもので、平坦で広大な用地が確保できたことから栃木県雀宮村に工場が建設されたが、終戦と共に1945(昭和20)年9月30日、全員が解雇されたため、忠久個人もどう生きていくか、どう食べていくか―が喫緊の問題となった。
詳細は後日に譲るが、ともかくも忠久の主張で旧日産の中堅幹部、テクノクラート集団数名が「元陸軍飛行場の跡地を開拓する入植者を募集している」(安川一郎著『開拓農民』)ことに着目、忠久のルートで当時の壬生町長の承認を得て、いわば強引に入植した。したがって、正規のルートで入植した周辺の農家の二男・三男や満州からの引揚げ者グループから白い目で見られることなどもあったが、農業知識はなくてもテクノクラートの集まりは科学的発想を様々な形で具現化し、じょじょに農作物の成果を得るようになった。
写真:小嶋夫妻(前列中央右側)の金婚を祝う会に両家の人たちが集まった=1956年頃、壬生の自宅前で 【提供:吉原春さん】
そういう流れの開拓農民生活で、時久は最年長であったこともあったがなんと言っても元陸軍少将という肩書き、本人の資質などから組合長や開拓団長に推されたり、蓄積された科学知識や決断力・実行力を発揮し、たとえば1960(昭和37)年には地域で初めて電話を大久保の土地を売却して得たお金を全額投じて敷設、いきおい“連絡センター”的役割を果たしたり、敷地内に当時としては珍しい百葉箱を設けて気象観測を続け、宇都宮気象台に定期的に報告したり、家屋の屋根より高い棒の先に電灯をつけて霜注意報を周辺農家に出したり……枚挙にいとまがないほど「科学」を「農業」に導入し、決して肥えた土地とは言えない入植地の開墾や台風などの気象状況と闘う日々が続いた。
写真:自製した百葉箱の前でポーズをとる時久・トウ夫妻
=1955年頃 【提供:小嶋和久さん】
写真左:観測データの一例「壬生・拓生地区気象年報」 【『開拓農民』から】
(※写真をクリックすると拡大します)
写真右:宇都宮気象台長から観測活動に感謝状が=1954年11月 【提供:壬生歴史民族資料館】
そして、10年を超える開拓の苦労の結果、時久が得た安寧は、普及しはじめたテレビを見ることで、なかでも毎朝、新聞で放映予定表を見ては演歌歌手の島倉千代子が出演する番組を探し、それを見ているときの時久はさながら“至福の時”を過ごしていたのではないかとは複数の関係者の証言だ。時には涙さえ浮かべて見ていたという……。
しかし、1962(昭和37)年2月くも膜下出血を発症、約2ヶ月、家族によるあたたかい看護を得ながら同年4月13日、春の到来とともにあの世に旅立った。享年81歳であった。
いま、時久は栃木の土地に戻り、壬生町の小嶋家の菩提寺「興正寺」に眠っている。
写真:晩年の時久。和服を着てゆったりとした表情は悔いなしの思いか
<小嶋家の系譜 2=祖母・トウ>
小嶋トウ。旧姓 宇賀神トウ、〈宇井純〉の祖母であり、母・久の実母である。
1886(明治19)年6月3日、宇賀神忠三郎−キミの二女として、栃木県上都留郡北押原村(現 鹿沼市奈佐原町)の村長の家に生まれた。
写真:日光例幣士街道(手前側)に面し、奥に広がっているトウの生家跡地。つるべ井戸の跡もそのまま残っていた=2008年6月26日
≪祖母・宇賀神トウ 系統略図≫
実は、ごく最近までトウの正確な家系(図)は霧の中にあった。それでは「情報公開の不均衡」であり、いろいろ当たっていたが、2008年6月に至り、「遠いけどトウさんとのつながりを持っている人が1年前の<宇井純を偲ぶ会>に来てくれた」との情報を得、宇井・小嶋両家関係者のご協力も得てようやく“情報源”にたどり着いた。まさに喉に刺さったままだった小骨が取れた感じである。しかも、トウは教員養成所に進み、成績優秀だったようで、結婚するまでは教師をしていたということも判明した。時久、そんな若くて美貌で頭脳明晰なトウを(どのようにして知り合ったかは分からないが)見初めた……そんな図式だったようだ。
「家系図」を概観すると、トウの兄・頼三の二女・サクが文豪・正宗白鳥の甥・甫一(甫一の父は国文学者・正宗敦夫で、白鳥の弟)と姻戚関係になっていることが分かった。また姻戚関係でつながった一族には医者、教師、陶芸家などがいる。
情報源は「梁島宏光(やなしま ひろみつ)」さん。〈純〉とは「また従兄弟」の関係になる。梁島さんから遡ると、母・ツネさんがトウの兄・頼三(らいぞう)の三女にあたり、したがってトウは梁島さんの大叔母という関係だが、小嶋時久・トウの紹介によりツネが軍人の梁島光雄(昭和20年、ニューギニアで戦死)と結婚、その長男。現在なお現役続行中で、企業(日立グループ)経験を活かして日本工業大学の「産学連携起業教育センター」のコーディネーターを務めておられる。
お会いした結果は“想定をはるかに超える大収穫”で、トウの甥・故宇賀神孝次が作成した系統図を有しておられ、その内容も緻密で、貴重な写真(コピー)とも一級の資料であった。欣喜雀躍、この項を書き換えている。更新時とは比べ物にならないくらい「系統図」も「写真」も充実することができた。
楽屋話しはこの辺にして本論に入る。
「宇賀神家」の家系は明確なものは文久(1861〜4年)に遡及する。文久2(1862)年に死亡(生年は不明)した「宇賀神與惣右衛門」(うがじん そううえもん)の養子・新吉とウタの子供・忠三郎につながる。この忠三郎は旧北押原村の初代村長を務め(明治22年5月〜25年3月)、大正11(1924)年に死亡しているが、村長のほか信用購買販売組合理事長や消防組頭などの要職を務めただけにかなりの“やり手”であり、山っ気もあったらしい。たとえば、敷地・住まいが日光例幣士街道の「奈佐原宿」に位置していたこともあって、宿屋を営んでいた時期もあったようだ。それを証明する県庁からの「免許鑑札」の写真も残されている。
そして忠三郎−キミ(先妻・キヨが二人の子を産んだ後死去したため、後妻としてキミを迎えている。このキミが“活発”な女性で忠三郎とは3回目の結婚にあたる)は、長男・頼三→二男・忠吾(別名 忠次郎。沼津方面に養子に)→長女・トウ→三男・多吉の三男・一女をもうけており、トウは後に陸軍少将まで上り詰める小嶋時久と結婚…………というつながりだ。なお、戸籍ではトウは「二女」になっているが、「宇賀神家系図」では「長女」になっているので、あるいは女児が生まれたが幼くして逝ったため戸籍に加えられていないことが考えられる。
写真左:宇賀神忠三郎夫妻
写真右:宇賀神頼三夫妻
【提供:いずれも梁島宏光さん】
そして、トウの実家については「代々の庄屋」との伝聞もあったが、どうやら明治22(1889)年に北押原村の初代村長に推され、6年にわたり務めたというのが正確なようで、後述する生家跡の敷地・田畑を見ても少なくともその世帯規模は立証できると感じた。ただ、いまで言えば起業精神に富んでいて、結果的に羽振りの良かったときもあったが、手を広げすぎたためか晩年は没落の憂き目にあったとの伝聞も間違いないようだ。
写真:義姉・ヤス(右=19歳)の長男・新一(中央=1歳)と写っている15歳のときのトウ=1901(明治34)年12月頃
【提供:梁島宏光さん】
それを裏づけるようなメモが残されているのも今回の収穫だ。
頼三の三男・孝次が子供の頃、祖母・キミが嫁いだ家(福島家、金子家)に遊び行った記憶だ。「いずれの家も瓦屋根付きの門に瓦屋根つきの土塀をめぐらし、玄関は大岡越前の映画に出てくるような玄関で、その脇に使用人が出入りする一般家庭にあるような玄関があった。なぜ宇賀神家はこのような家でないのか」と母に尋ねたら、「宇賀神家は商売に失敗し、借金のかたに取られた」と話してくれたと言う。
以上がトウのバックグランドである。時久−トウの世界へ話を移す。
時久−トウ夫妻にとっての第一子・久(ひさ)が生まれたのが1907(明治40)年10月5日。以降、1909(明治42)年2月14日に長男・忠久(ただひさ)が、1910(明治43)年11月A6日に二女・登志(とし)が、さらに1918(大正7)年9月20日に三男・三郎(さぶろう)が、そして1921(大正10)年5月3日に三女・春(はる)が生まれた。この間、二男・清(きよし)も生まれたが4歳で早世している。
このように、三男・三女の6人を生んだことは“明治の母”として立派なもの。ただ、想像に易いのは、職業軍人の宿命で、戦争が始まれば戦地へ、戦争なしでも幹部になればなるほど“転勤”が激しく、いかに子育てをし、常に夫に後顧の憂いがないようにしておくということは物心両面で大変だったろう。「栃木出身」ということで訪ねてきて、書生として住み込んでいた若い人たちは常時2〜3人はいたという。
時久の転勤は、分かっただけでも青森→羅南(北朝鮮。トウも同道、但し時期は不明)→東京→仙台→善通寺(香川)→東京と転々としている。
トウは6人の子供を生んだものの、元々、身体はそう強い方ではなかったという(吉原春さんの証言)。しかし、肉体労働は苦手だったが知的労働、とりわけ「数字」には周囲の人が舌を巻くほどだったようだ。“庄屋のDNA”が流れていたと言えよう……。
写真:“女マッカーサー”と言われただけあってオーラさえ感じるトウ=1961年以降の撮影 【提供:小嶋和久さん】
スイカの苗を植えた個所を図化し、適正な収穫期を予測した
こんなエピソードがある。
戦後の開拓時代、農作業が少し軌道に乗り始め、夏の収穫を目指してスイカの栽培を試みたときのこと。トウはスイカの苗を植えた畑を碁盤のように図面に描き、いつ、どこに植えたかを書き入れていたとか。ある日、「そろそろ、どこそこのは熟れ始めたのではないかい?」と言い、驚いて見に行ったら、ずばりトウの言うとおりだったとみなが驚いたり、感心したりしたことがあったとか。「あたかも、パソコンでシュミレーションするような感じだった」と、孫・和久(かずひさ)さんは振り返る。
それらを含めて、トウをもっとも端的に表したあだなが三女・春さんの【コメント】にあるように“女マッカーサー”であろう。また、話しぶりに「気品と威厳がありました」と鈴木幸子さんの幼馴染・松崎宏子さんは思い出を語ってくれた。
一族の様々なことを証言するのは時久でなく、トウであったようだ。
そういうトウの最大の弱点?はやはり〈純〉であったのかもしれない―というのは一族の大方の見方だ。要するに、初孫として猛烈に可愛がられことを指している。
俗に言う「上州名物 かかあ天下と空っ風」の上州は今の群馬。栃木は地続きのすぐ隣だ。地形のフラットさも変わらない。トウはその典型だった、と言ったらあの世から叱正が飛んでくるだろうか。
いずれにしても、二人の一生の中でももっとも苦労したのが「開拓時代」ではなかったか。それを支えたのがトウであったと言っても過言ではないだろう。そのあたりは、その章までしばらくおあずけとさせていただく。
トウは時久に遅れること20年。1978(昭和53)年1月16日まで実に92年間生きながらえた。時久はあの世で「20年も待ったぜ」と苦笑しつつ迎えたに違いない。トウも時久と同じ、壬生の興正寺で眠っている。
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