北神戸 丹生山田の郷
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徳川道 〜幻の西国街道のバイパス〜 (*17) (*18) (*5)地図

徳川道の地図

(上記地図上の写真をクリックすれば、関連記述が見られます)

下の写真:小部中学校付近にある道標
  「右 ニたび山 左 まや山 道」

徳川道の道標ハイキングコースとして六甲縦走路の途中に突如現れどこへともなく消えてしまう徳川道(上記地図の青ルート)。この道は、明治維新直前(慶応3(1867)、翌年が明治元年))、兵庫開港(結果的には神戸開港)にあたって開港場を縦断している西国街道(山陽道、関連リンク、上記地図の緑ルート)で生麦事件(解説)のような外国人と大名のトラブルが起こるのを避けるため突貫工事で作られたバイパス(当時は徳川道とは言わず西国往還付替道と命名された)であった。

ところが実際には完成(慶応3年12月7日竣工)後1ヶ月も立たずに勃発した鳥羽伏見の戦い(解説)に始まる幕末の混乱の中で徳川道の完成は公表されることもなく、幕府崩壊後に明治の新政権の元で神戸の居留地付近だけを迂回する新道が造成されるに至って、幻の西国街道のバイパスは歴史の舞台から消えていった。

この徳川道(=西国往還付替道)を西国街道のバイパスとして使った唯一の利用者が、徳川道完成とほとんど同時に発せられた王政復古(解説)によって成立した新政府から命じられて西宮の警備に向かう途中に三宮神社(上記地図の右中央)付近で外国人との衝突事件(いわゆる神戸事件(慶応4年1月11日))を起こした備前藩の後続部隊だったのは歴史の皮肉というべきだろうか。

なお、元長州藩士で英国密航の体験を活かしてこの事件の解決に奔走した伊藤博文は、その功績により弱冠27歳で初代兵庫県知事となり、後、新政府で頭角を現し、近代日本の初代総理大臣となった。

このときの様子を『山田村郷土史』は、次のように伝えている。

慶応4年正月十一日の事、小部村なる片山陰の田舎に時ならぬ鎧武者の同勢が、しかも六百人といふ大勢が突如として現はれた、村のものどもの恐怖は一通りでなかった...其の口上によると、備前岡山藩の御納戸役の一行であるが、此度御用の次第で東上の途中、先發の一隊が神戸にて外國人と衝突の事件が生じた爲めに、止むなく神戸を通過することが出來ないため此の裏道を通るのである。日は暮れ行く手は摩耶の山奥と聞く、夜中の行軍も困難である。御迷惑ながら一宿の儀御村中に頼むとの事であった。...庄屋年寄村役人は非常召集をやって、一行の宿舎割を定めて、成る丈の厚意を盡したのであった。

小部小学校開校百年誌(昭和49年)」にも「徳川道=慶応4年正月小部村に鎧武者六百人が突如現れる。兵庫開港時の三宮事件でのできごとである。小部峠、摩耶山から五毛にぬけたこの裏道はいまも大東(おおひがし)に名残がある。」との文章と共に、上記の写真の道標から北東に登っていく坂道の写真が掲載されているらしい。

なお、工事の施工は徳川道が通過する各村が分担して当たっているが、地図上では小部の東側、藍那の南側で下谷上を通っているのに、実際に山田で工事を分担したのは東小部、西小部、藍那の3か村のみとなっている。相当する地域は、当時は下谷上ではなく、東小部、藍那の一部だったのかもしれない。

時代的背景

嘉永6年(1853)黒船で来航したペリーは、安政5年(1858)日米修好通商条約の交渉に当たって長崎・函館・神奈川の他、新潟・堺の開港を要求した。しかし、堺の周辺には多くの皇陵などがあることから、堺に変わって兵庫が開港されることとなった。その後、紆余曲折があり兵庫開港は延び延びになっていたが、慶応3年(1867)6月6日に至って、同年の12月7日(1868.1.1)の兵庫開港が決まった。

実際の開港は既に2万の人口を擁していた兵庫ではなく、その東側の無人の神戸小野浜を対象として進められた。この開港のため7月9日に兵庫奉行に任命された柴田剛中(横浜開港にも関与し洋行も経験)は、山と海に挟まれた狭い神戸の地で開港後外国人が西国街道を通行すれば、横浜の生麦事件(解説)の二の舞になりかねないと考え、大坂(今の大阪)から六甲山地の北側を有馬、(山田?、)淡河、三木を経由して姫路に至る20里(約80Km)の古道を利用した西国往還の付替えを幕閣に上申した。

実際には、開港まで5ヶ月しかないこともあり、期間・費用とも節約できるルートとして、菟原郡石屋川(東灘区)で西国往還から分かれ、杣谷、摩耶山裏、東小部村、西小部村、藍那村、白川村、高塚山、摂播国境の山地を通り、明石大蔵谷で再び西国往還に合流する全8里(約32Km)余の新道開削が決定された。幕府閣老が柴田剛中から引き継いだ大坂代官斎藤六蔵に工事実施を命令したのが7月23日、ルート確定が9月、兵庫(神戸)開港まで残り3ヶ月であった。

工事

11月4日に工事の入札が実施され、八部郡石井村(兵庫区石井町?)庄屋谷勘兵衛が19,200両で落札、工事着手した、事になっている。しかし、実際には事前交渉により引受人は谷勘兵衛に決まっており、9月頃から着工準備が行なわれていた。今も昔も役所の入札と言うものは...。

この時、工期短縮のため採られたのが工区毎に下請者を募り同時並行的に施工する方式であった。たとえば、山田地域では、東・西小部村と藍那村が工事を担当した。

入札から約1ヶ月の12月7日(1868.1.1)、兵庫開港の当日予定通り竣工した。

全長約8里、摂津・播磨2国の兎原・八部・明石3郡の48ヶ村に跨り、天領・旗本領・各藩の所領が複雑に入り混じるルートに石橋、土橋約40ヶ所を架け、宿駅3ヶ所(住吉村、東小部村、白川村)を置く予定だったこの空前の大工事が短時日に予定通り完成したのは開港を控えた幕府の危機感の現れであったのであろう。


工事仕様

工事の「仕様帳」によれば、道幅は平均2間、道路中央部を1尺ほど高くする蒲鉾形。橋は幅1間の土橋造りが14ヶ所、その他に流れに配置した石を踏んで渡る飛び石渡りが21ヶ所、石置渡しが1ヶ所。完成時の全長は8里27丁9間。


工事費用の現在価値

谷勘兵衛が請け負った19,200両は、昭和53年発行の文献(*17)が、物価指数や米価、初任給の推移から試算した結果によれば(S51時点)約1億〜1億5千万円となっている。(その後の物価変動は、平成7年(1995)を100としたとき、卸売り物価指数が昭和50年83.3、平成10年97.5で約1.17倍、消費者物価指数が昭和50年55.3、平成10年102.5で約1.85倍なので、間をとって1.5倍とすると1億5千万〜2億3千万円位?)


徳川道の石積み《徳川道石積み》

(以下、現地掲示板より:原文通り)

対岸の雑木の間に見える石積み(写真参照)は、徳川道名残りの石垣であり石垣の上を徳川道が通っていた。 ここの石垣は25間(45m)にわたってつくられ高さは平均4尺(約1.2m)であった。 いま残っているのはその一部である。 積み方は「ごぼう積み」といって加工しない自然石で奥行を深く積み上げ、内側でしっかり組み合わせる積み方である。

環境庁・兵庫県
 
竣工後 〜混乱・廃止、そしてハイキングコース〜

六甲山中の徳川道竣工(=兵庫開港)の2日後、慶応3年12月9日(1868.1.3)、王政復古の号令が下った。この混沌とした情勢の中、慶応4年1月11日に神戸事件(後述)が起こり、翌12日には平野村に駐屯中の長州兵が工事を請け負った谷家に侵入し、幕府御用金差し押さえの名目で幕府からの工事請負代金他22,375両を持ち去るという事件も発生している。もちろんこれは御用金などではなく、真相は財政基盤がゼロに近い新政府の構成要員であった長州藩がこの工事のことを知って請負金の奪取を狙ったものと考えられる。(こうした災厄を受けた谷家であったが、この程度のことで逼塞するような財力ではなかったようで、明治7年には有野村の田中狡兒とともに平野から三田に至る有馬街道を完成させている。)こうした中、明治元年(慶応4年)3月、神戸市内で外国人居留地を小迂回する道路が設けられるに及んでまったく不要の道路となり廃絶した。

この見捨てられた道路に再び脚光を浴びせたのは、六甲山を別荘地、ハイキング・ゴルフの場として拓いた外国人と、外国人たちの山歩き趣味に刺激を受けた日本人グループで、彼らがその初期に改修した山道の中に西国往還付替道が「徳川道」の名称で復活している。(右の写真は六甲山中に今も残る徳川道)


"Japan Chronicle"の記事(大正2年2月)の抜粋(この英字紙のコラムニストには一時期小泉八雲も在籍していた)

Chapter VI.
THE OLD TOKUGAWA ROAD.
By N. Tsukamoto.
To those who have known Kobe for ten, fifteen, or twenty years ago the Tokugawa Government build a road through the lofty hills at back of the town in order to avoid any possibility of a collision between daimyo trains passing from Sanyo districts towards Yedo and foreigners who had selected a sandpatch east of Hyogo as scene of their enterprise to establish foreign trade. .....

(参考)このページへのリンクページ

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