ギリシャを遥か離れた極東の地に降り立った瞬間、貴鬼が
「あっ!」
と声を上げたのも無理はない。 見慣れた聖域とはうって変わって白一色の世界は貴鬼の目には眩しかったし、予想を遥かに上回る寒気にも驚いたのだ。
「ちょっとまずかったかな、時差を忘れていたぜ!」
ミロがカミュを見て苦笑する。
聖域とは10時間の時差があるこの土地の今の時刻はちょうど真夜中で、今は星明りであたりの雪景色がかなり明るく見えるのだが、雪を降らせれば、当然、星明りは望めないことになる。
「いや、曇っていても、雪明りというものがある。それに、小さい結晶が見難いというのなら、小宇宙を少し発光させればよいのだ。」
久しぶりのシベリアは、3月とはいえ真冬と変わりなく見えるが、カミュの目には忍び寄る春の気配が感じられるのだろう、
「寒さが緩んできているが、支障はあるまい。」
と言いながら一同から少し離れると、上空に向かってさっそく凍気を放つ。
たちまちのうちに、揺らめきながら立ちのぼる明るい金色の小宇宙がカミュを包み、貴鬼の目を奪った。

   ああ、すごい!!読んだのと同じだ、カミュ様の小宇宙ってなんて綺麗なのだろう!!!

「よく見ておくがいい。昼間では、小宇宙もここまでは輝くことはない。俺は、今が夜でよかったと思うぜ。」
ミロが貴鬼の肩に手を置いてささやいた。
「あとで、白い霧も頼んでみることだな、カミュならきっとやってくれるだろう。」
一心不乱に見つめている貴鬼がこくりと頷いた。

やがて空から白いものが落ちてきた。
初めて見る雪の結晶は、果たして貴鬼の心をとらえ、喜びの声を上げさせた。
「わあっ、こんなに小さいのにこんなに綺麗だなんて!それに全部、形がちがいますよっ!カミュ様!ほんとうに有難うございます!」
深閑とした白色の世界に子供の声が響くのは本当に久しぶりのことで、カミュに懐旧の情を起こさせた。
「お前がここで過ごしたのもずいぶん前のことだな。」
「ああ、だいぶ苦労したものだが、今となっては懐かしい記憶だ。」
「あの小屋、どっちの方向にあるんだ?」
「うむ、この先にある。」
カミュが右手で指し示すが、降る雪が視界を妨げていた。
「しかし、暮らすのは無理だな、今は薪も食料も置いてはいないのだから。」
貴鬼が向こうから走ってきた。
「カミュ様、ほんとに綺麗で、ありがとうございます!あの・・・・もう一つお願いがあるのですが。」
ちょっとどぎまぎした様子の貴鬼に、カミュが首を傾げると、またミロが助け舟を出す。
「たぶん、白い霧が見たいんだろう?さっき、そう言ってた。」
「はい、できればぜひ!」
貴鬼の目から見れば、聖域の聖闘士は殆どが大人である。
星矢たちならばかなり話しやすいのだが、黄金聖闘士ともなると年齢も高い上に、その存在の重さが違う。
白羊宮のムウに師事する貴鬼は、聖域の中でも黄金聖闘士に接する機会が多いのだが、それでも世間話をするようなわけにはいかぬのは当然であった。
たまにムウに用事をいいつかって他宮に行くこともあるが、それは極めて事務的なものであり、敬語を使う貴鬼に対して、相手もそれなりの返答をするのみである。
そのあたりの礼儀はムウに厳しく仕込まれているので全く問題はないのだが、それだけに子供扱いされないということでもあった。
そんな中で僅かに、隣接する宮のアルデバランだけが貴鬼を可愛がり、肩車などしてくれることもある。
なにしろ身長の高い聖闘士なので、その気分のいいことはたとえようもないのだ。
しかし、カミュとは、宝瓶宮が遠く隔たっているせいもあり、そもそも外で出会うことが稀である。
ましてや、あの冷静をもってなる水瓶座の聖闘士がそうそう笑顔を見せるはずもなく、カミュは、貴鬼とはもっとも遠い位置に存在しているといっても過言ではなかったのだ。
そんな貴鬼が、カミュに直接ものを言う、それも頼みごとをするというのはかなりの心理的負担には違いない。
そのあたりを察してくれたミロの気配りに、貴鬼のミロに対する尊敬の念はますます高まった。

「では、この雪をいったん霧に変えよう。」
上空を見上げたカミュが今度は白く輝く小宇宙を放つと、あたりは一瞬にして白色の濃密な霧に包まれ、自分の手も見えぬほどである。
「わぁっ!!」
少し離れたところから、貴鬼の喜びの声が上がる。
「あまり動くんじゃないぞ!」
貴鬼に声をかけたミロが、すっとカミュに身を寄せた。

   俺がいいと言うまで、霧を消すなよ・・・

     ・・・・・・え?

カミュが、はっとしたときミロの両腕が柔らかくカミュの身体にまわされた。
口付けられるかと思いきや、ミロはカミュの右肩に顎を乗せるようにして顔をカミュの髪にそっと埋める。
抱きしめるでもなく、それはほんの形ばかりのゆるやかな抱擁といってもよかっただろう。

   「カミュ、いつまでも共にありたい・・・」

ミロが小さな声でささやき、すぐにその手は離れた。
いつものミロとは思えぬ穏やかな行動に、カミュが不審をいだく。

      ミロ、・・・・・・今のは?

   今のは、昭王だ。あの霧に思いを果たせなかった昭王の代わりに、俺がお前を抱いた。
   あの昭王が、まわりにアイオリアやアルデバラン達がいるのに、いきなり熱烈なキスなんてするわけがなかろう?
   いまのでも、昭王にすれば最大限の努力だぜ、きっと。

      昭王の代わりに? しかし、なぜ?

   なぜって・・・・誰にしても、思いが残ったら可哀相だろう? それに、来てもらっちゃ困るんだよ。

      え?・・・・困るって?
  
   いや、そんなことはいい、それより今度は俺の番だ。
   いいか、小宇宙を乱すなよ、貴鬼に感付かれる・・・・霧を濃くするぶんには、いくらやってもいいぜ・・・・・

      あ・・・・・・

さらに濃さを増した霧が突然激しく渦を巻いて流れ、貴鬼の目を瞠らせた。 目の前の自分の手すら見えないというのは、まことに不思議な気持ちがする。 こうして、カミュの創り出した純白の雪と氷と霧の世界は、十分に貴鬼の期待に応えたのだった。
やがて霧が晴れてゆき、気がつくとミロが目の前に立っている。
「貴鬼、お前、一人で帰れるか?カミュは、もう少しこのあたりを見ていきたいそうだ。」
貴鬼が振り返ると、少し離れたところにカミュが向こうを向いて立っている。
「はい、大丈夫です! 世界中どこからでも、聖域にはすぐに戻れますから!」
「じゃあ、ムウによろしく伝えてくれ。」
貴鬼はにっこり笑って頷くと、カミュに声をかける。
「カミュ様!今日はほんとうにありがとうございました!」
カミュが少し振り向いて頷いたのを確かめた貴鬼が、お辞儀をして姿を消した。

「さあ、そういうわけだ。いいかげん冷えてきた。早くお前の小屋に行こうぜ!」
今度はしっかりと振り返ったカミュが、ミロを睨む。
「お前ときたら、本当に強引で・・・・! よくもまあ、人前であんなことができるな? 私は貴鬼の顔も見られなかったというのに!」
「あれだけ霧が濃ければ、10km離れているのと変わらんさ。 それにお前も協力してくれたし♪」
「そ・・・・それは・・・・」
「それに昭王だって、風が急に吹かなけりゃ、あの場でお前を抱いたはずだぜ? それはまあ、俺からすれば想像を絶するほど軽い抱き方
 だがな。あれでも一世一代の努力をしたんだよ、昭王は! さっきの俺たちよりも、昭王のほうがずっと人目を気にする立場なのに、行動
 しようとしたんだ。それなら俺たちがあのくらい・・・その熱烈でもかまわんだろうが。 霧はすべてを隠す。問題ないね。」
「わ、わかった、その話はもういい!しかし、小屋に行っても薪も食料もないと言ったばかりだろう!」
「あるよ。」
「・・・・え?」
「俺がこの間、運び込んである。」
こともなげに言うミロに、カミュは呆れるばかりである。
「考えてもみろ、河の水を凍らせれば、いずれ解かすのは目に見えている。 そのときはやはり昭王が同行するだろうし、前回置いてきぼ
 りになった貴鬼がついていくのもまず間違いのないところだ。 昭王は廻りのことを気にするタイプだからな。 貴鬼はお前が小宇宙を燃や
 すのを見たくてウズウズしてたに違いない、おっと、これは燕での話だぜ?」
カミュは頷くと、先を促した。
「で、氷をとかすのは見られるとして、作る方を見ていなかった貴鬼になにか見せてやりたいと思うのが人情じゃないのか? そこで俺は思
 ったね、今さら河を凍らせるわけにはいかん、それなら代わりにできて貴鬼が喜ぶことといったらなんだろう?」
ミロが満面に笑みをたたえる。
「自分のことを考えれば答えはすぐに出てきたぜ、雪だ、雪しかない!お前は燕で貴鬼に雪を見せるだろう。 さて、聖域にいる貴鬼もこ
 れだけ話を読んでいれば普段接触のないお前にも相当の親近感を持った筈だ。 やがて話の中に出てくるに違いない、お前が雪を降ら
 せるシーン、それを読んだあとで、ムウと一緒にお前のところに 『 雪を見たい 』 と言いに来るのは確実だった。 そこで、俺は考えた末に
 薪と食料を用意した。」
話しながら歩いてきたミロが、さっと小屋のドアを開けた。
なるほど、テーブルの上にワインの瓶と洒落たグラス、何種類かのチーズを乗せた籐の籠が置いてある。
「暖炉の火はこれからだ。 どう? カミュ」
室内を指し示すミロを呆れたように見たカミュは、最初むずかしい顔をしていたが、期待を込めて見つめるミロにやがて笑顔を向ける。
「お前にはかなわんな。」
「ああ、昭王は先が読めるんだよ。一国の王たる者は、そうでなくてはならん。」
笑い出したカミュに続いて中に入ったミロがドアを閉ざす。

外は吹雪き始めたようだ。
小屋の中はいざ知らず、シベリアに春が訪れるまでには今少し待たねばならぬようである。


       ←戻る         ⇒古典読本 「云うまいと」          ⇒招涼伝第二十三回          ⇒副読本その23