副読本 その35  「 雪 」


乗馬の訓練を始めてこれほど経つと、習得の段階もとうに過ぎ、牧場の外側に設定されている一周5kmのコースを回ることが多くなってくる。
このルートは一部が国道36号線に平行しており、ずっと先に千歳空港を擁するこの国道は北海道一、交通量が多い。車の通りが多いのは嬉しくないのだが、その代わりにこの国道沿いの地点ではすぐそこに太平洋を望めるのが二人の気に入っているのだ。夏の頃には海の青が美しく、爽やかな風が心地よかったものだが、真冬を迎えた今は鉛色に沈んだ海が荒々しく打ち寄せる波で二人を迎えていた。

「穏やかなエーゲ海とはだいぶ違うが、この海も良い。」
「なんともダイナミックだな!この間の台風が通り過ぎた後は、やたら迫力があったぜ、ギリシャでは、あんな海は考えられん。」
国道に沿って軽く馬を走らせながら海に眼をやれば、大洗と苫小牧を結ぶ航路なのだろうか、大型のフェリーがゆっくりと沖合いを進んでゆく。
「おい! あの車、窓を開けて俺たちの写真を撮ったみたいだぜ?」
「うむ、今日でもう三度目だ。」
「そんなにか? いったいどうして写真なんか撮られなければならんのだ?」
「おそらく馬が珍しいのではないのか。 東京あたりとは異なり、北海道には牧場が多いので観光客の絶好の被写体なのだろう。」
「日本人が写真好きなのはよくわかったが、車からでは断りようもないな。」

夏の湖上の花火大会でも写真を撮られたミロだが、箱根でも京都でも二人が写真を撮られたことは数知れない。 不思議に思ったカミュが宿で美穂に尋ねてみると 「 まあ……!」 と絶句したあと、「許可を求めずに写真を撮るのはとても失礼なことです。 きっぱりとお断りになってよろしいのです。 もし許可を求めてきた場合は、お嫌なら、どうぞお断りになってください。」  と妙に顔を赤らめながら教えてくれた。 むろん、彼女が 『 写真を一緒にお願いできますか? 』 というのを従業員の立場だからとずっと我慢しているのをカミュが知るはずもない。 それでも、いよいよ二人が宿を引き払うときには、勇気を出して頼んでみようと心に決めている美穂なのである。

「まあ、気にすることもなかろう。 日本人の写真好きはアテネでも有名だというではないか。」
そう言うと、カミュは少し駒足を速めて緩やかな上り坂にかかる。 道はここから国道を離れて、白樺の林の中を抜けつつ牧場へと戻ってゆくのである。
午前中に一度通ったときには時折り日も差していたのだが、午後も遅くなった今は雲が全天を覆い、今にも雪が降ってきそうに思われた。 牧場を出るときに 「こんな雪催い(ゆきもよい)のときは、遠乗りはおやめになったほうが 」 と言われてはいたのだが、「 雪には慣れているゆえ、大事ない。」 とこともなげに答えて出発したカミュなのだ。 英語の教科書代わりに使っていたのがシェークスピアの全集だったので、その英語は格調高いとはいえいささか時代がかっているのは否めない。
「あ!やっぱり降ってきた!」
樹皮の白さが目立つ白樺の林を通り抜けるこの道はミロのお気に入りで、最初に乗馬の指導者に先導されて来て以来、毎日のように通っているのだが雪が落ちてきたのは今日が初めてだ。
「この降りなら、まだ積もることはない。」
空を見上げるカミュの長い髪に雪が降りかかるのが美しく、聖域ではありえない情景にミロは心を躍らせる。
「もう少し降ってくれても、俺はかまわないんだが♪」
悪戯っぽい眼で見ると、ちょっと首を傾げてから馬をとめたカミュが空に向かって右手をかざす。 たちまち淡い金色の小宇宙がカミュを包み、ミロの目を奪った。 と、見る間に大きな雪片が舞い落ちてきて、手綱を持つ手も馬のたてがみも六角形の美しい結晶で飾られてゆく。
「降らせすぎじゃないのか? お前の髪に、もうそんなに雪が…」
「このくらいでないと、遠目にも目立つ。」
「………え?」
不意に駒を寄せたカミュがミロを引き寄せると唇を重ねてきた。

   あ…………カミュ……

驚きに眼をみはったミロも、すぐに細腰に手を回して応じていった。 乗り手の意図を察したのかどうか、二頭の馬はおとなしく並んで首を垂れているのみである。 やがて名残惜しげに唇を離したとき、カミュの紅い唇に触れた雪があっという間に溶けて、ミロをどきっとさせた。
そのとたん、カミュがこう云ったものだ。
「ミロ、顔が赤いぞ。 戻るまでに直しておけ。」
「……なっ、なんでそんなことがっ!!お、お前に言われなくても……っっ!!!!」
さらに真っ赤になったミロにかまわず、カミュは馬首を軽くたたいてやり先にゆく。 駒を歩ませる道には早くも雪が積もり始め、人も馬も息を白くしながら黙って進むのだ。 髪に隠れたカミュの耳が朱に染まっていることを、あとから続くミロは知るべくもない。
前方に厩舎の屋根が見えてくる頃には、ミロの動悸もさすがにおさまっている。

   ふふふ………カミュのやつ………
   さっきは驚かされたが、お返しは今夜たっぷりとさせてもらおう ♪

背筋を伸ばしているカミュの後ろ姿を見ながら内心でほくそえむミロには、ちょうどこのとき、宿の玄関先にデスマスクが現われていることなど想像できるはずもなかったのである。


                                ⇒ デスマスクの来る話 「十二夜 第一夜 」




                                ふふふ、書いていてドキドキです!
                                カミュ様、雪の中で攻勢をかけましたね、あっぱれです♪

                                登別のそばを通っているのは本当に「国道36号線」。
                                さすがに眼を疑いました!
                                
「 ミロ 」 ⇒ 「 36 」
                                なんと6ヶ月の長きに渡り、
                                温泉シリーズはミロ様の名を冠した国道のそばで展開していたのです。
                                最初は北海道の道= 「 道道 」 でいいかなぁ、と思ったのですが、
                                いくら事実でも、振り仮名をつけても 「? 」 なことに変わりはない!
                                そこで、国道通ってるかなぁ、と調べてみたらこれですよ、
                                私は神様に導かれていると強く確信しました。
                                
                                神様を味方につければ、怖いものは何もありません。
                                百万の味方を得た招涼紀行の旅は、まだまだ続きます。



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