招涼伝 第二十五回


「カミュ!カミュは在殿か?」
翠宝殿の外で呼ばわる声に驚いた貴鬼がきざはしに出ると、珍しくも騎乗の昭王がそこにいるではないか。
「今一度、野駆けに参る。よいか?」
紅綾殿で着替えてから、途中の馬寮で早くも馬に乗ってきたものとみえ、傍らには寵愛を受けている瞬がカミュの乗馬を曳いている姿も見えた。続いて顔を覗かせたカミュが少し驚きながらも貴鬼に頷いてみせ、中へ戻っていく。
一日に二度も野駆けに出ることなど今までにあったためしがないのだが、燕を去る日が間近いカミュとしては否やのあろうはずもない。
「今日は午後から秦の御使者との賀宴とお話し合いとにお出になっておられましたから、お疲れではないのでしょうか。」
カミュの身支度を整えながら貴鬼が首をひねる。
「それゆえ、かえって野駆けをなさりたいのであろう。」
朝議や進講に忙しいようにみえても、少しの暇を見つけては武芸の鍛錬に余念のない昭王であることは、とうにカミュにもわかっている。
「話し合いの疲れなどは、体を動かしたほうがかえってよいものだ。」
賓客としてもてなしを受けているカミュには、秦の使節との話し合いの内容など知る由もない。
ムウから仕込まれた貴鬼が余計な噂をカミュの耳に入れようはずもなく、身近に接するのが昭王とアイオリアと貴鬼だけであるカミュには、たとえ天勝宮がその噂で持ちきりになろうとも、その話の片鱗も届くはずはないのであった。

夏のこととはいえ、すでにあと一刻もたたずに暗くなる時刻になっている。
「帰りは遅くなろうゆえ、先に夕餉にするとよい。」
やさしく貴鬼に言い置くと、カミュは足早に翠宝殿を出た。
晩夏のけだるい夕刻を今一度昭王との気の置けない野駆けに興じられることに、カミュの胸は心なしか弾んでいたといえる。
瞬の曳いている白馬は昭王の厩舎の中でも折り紙つきの駿馬で、新たな主人のカミュを見ると軽くいななきをあげ蹄で土を掻いている。
「騅(すい)もそなたが乗るのを楽しみにしているようだ。朝の野駆けの疲れも見えぬ。」
待ちかねた昭王がカミュに笑いかけた。
「アイオリア殿は?」
「今頃は武徳門に来ておろう。貴鬼、淋しかろうが、しばしそちの主人を借り受ける。」
馬上から冗談めかして声をかける昭王の様子も、いつもとなんら変わることがない。
見送る貴鬼と瞬が深く拝礼するうちに二騎は駆け去っていった。

格式ばった行幸とは違い、昭王の日課の野駆けは天勝宮の南西の武徳門から出入りする。
待ち受けていたアイオリアと魔鈴に合流した一行がいまだ暑さの残る街並みをゆっくりと通り抜けると、偶々通り合わせた街人が、思いがけぬ昭王との遭遇に驚き慌てて深々と拝礼をする。
昭王一行が通り過ぎたあとで顔をあげた人々は、口々に 「 吉慶 」・「 慶福 」 などと唱えて、竜顔を拝したことを喜び合うのだった。
やがて人家の途切れる郊外に出ると、三騎はようやく馬に鞭を入れた。
昭王が野駆けに出る先はいつも決まっており、一見したところ少人数できままに馬を走らせているようであるが、事前に連絡を受けた近衛府から人数が出て、密かに警備に当たっているのであった。そうでなくては、燕王の野駆けなど、とても許されるものではなかっただろう。

いつもの広野まで来ると夏の日もやや翳り、吹く風にも心なしか涼しさが潜んでいるように思われる。
「あの槐(えんじゅ)の元まで早駆ける!アイオリア、今度は目にもの見せてくれよう!カミュも遅れを取るまいぞ!」
両脇の二人に言うが早いか、昭王が鞭を入れると葦毛の愛馬が矢のように走り出し、カミュとアイオリアも間髪を入れず、すぐさま後を追う。
夏の夕風が長いたてがみを編み、時ならぬ馬蹄の響きが野兎を追い立てていくと、それを追う魔鈴が褐色の矢のように視界の隅に消えていった。
早駆けを繰り返すうちに、蹄に踏みにじられた青草の匂いが汗ばんだ馬体を包み、いつしか乗り手にも夏の名残りが沁みてくるのだった。
慣れてしまえば鞍上の律動もこころよく、聖域では知りえなかった楽しさにカミュは酔いしれる。ましてや昭王との野駆けであることが、さらにその思いを助長していたのは言うまでもなかった。

十数回も競ったのちに一息入れようと槐の下で休んでいると、西の方角の雲行きが怪しくなってきたものである。
ふと見やったアイオリアが眉をひそめたとき、一天にわかにかき曇り、見る見るうちに黒雲が湧き上がると驟雨が広野を襲ってきた。
「これでは宮へ戻る暇もない。このまま、この槐の下でやり過ごそうぞ。」
太い幹に駒を寄せた昭王が言った言葉の下から、激しい雨足が槐の葉を叩く。
打って変わって暗さを増した木陰で、アイオリアが昭王の身を案じたときである、明るい金色の光が一同を包み輝いたではないか。
槐の葉を伝い落ちてくる雨の雫も金の光をおのずから避けているようで、人はおろか馬の尾の一筋でさえ濡れるということがない。
瞠目した昭王が心中はっと悟るところあってカミュを見れば、右の手掌をわずかに上方にかざし、あきらかにその力を使っているようである。
アイオリアとアルデバランから確かに話は聞いていたものの、我が目で見てもまことに信じられぬ思いがする昭王である。
その視線にカミュがわずかに頬を赤らめた。
「昭王の御身を守らねば、この場にいる甲斐もなきゆえ。」
「またそなたの力を見せてもらった。今日の野駆けの一番の獲物ぞ!」
予期せぬ喜びが昭王を高揚させ、声を弾ませる。
その声に、賛嘆だけでなく思慕の念が微妙に入り混じっていることを敏感に感じたカミュが静かに目を伏せた。

夕刻の雨雲が全天を覆い、強風に吹かれた野の青草も雨に打たれたまま地に伏せて、ひたすら時の過ぎるのを待っている。
目に見えるすべてが灰色に閉ざされている中で、一本(ひともと)の槐の下だけが淡い金彩の輝きを放ち、燕王の所在を遠目にも明らかにしていた。その奇瑞は、遠く離れた木の下でそれぞれに豪雨を避けている近衛の兵の目を驚かすに十分なのだった。
いつまでも雨を避けてこうしていられたら、という気持ちを抑えきれぬ昭王の目に、下馬したアイオリアが、やはり雨を避けて低く唸っている魔鈴の様子を見に木の裏側に回って行くのが映ったのはそのときである。
突然の豪雨に不安そうな魔鈴をなだめるには、多少は時間がかかるに違いない。
この機を逃しては、と瞬時に心を決めた昭王がカミュの白馬にすっと駒を寄せた。
「カミュ、そなたに話したいことがある。」
声をひそめた昭王のただならぬ様子にカミュが気付かぬはずもなく、空模様を見ていた蒼い瞳がひたと昭王に注がれた。
もしや、の思いがカミュの胸に浮かぶのも当然であったろう。

燕を去る日が目前に迫るにつれて、時折り昭王に焦眉の影が浮かぶようになり、カミュを見る昭王の目にも、なんといっていいのかはわからぬが、今までとは違う気配が見て取れた。
一日も早く燕を離れたほうがよい、と思うそばから、昭王との別離を耐え難く思う心がささやきかける。
といって、いったいどうすることができたろう、傷が癒えぬことを口実に、旅立つ日を遅らせることしかできぬカミュであったのに、秋色迫る空の色は別れの日が近いことを告げていた。
そして今、昭王の思いつめた表情がカミュの胸を震わせた。
「………話…とは?」
叩きつけるような激しい雨音が耳を聾せんばかりに周囲を包む。
この場で大きい声を出せるはずもなく、昭王は馬上のカミュに一段と身を寄せるとかねてからの思いを告げようとした。
「カミュ………」
昭王が手綱を握り締めているカミュの右手を取ろうとしたそのときだ、目がくらまんばかりの稲光があたりを真昼の明るさに変え、激しい雨脚を一瞬白く浮かび上がらせた。
思わず身をすくめたとき、突然の雷鳴が大地を揺るがして馬を棹立ちにさせたではないか。
あっと声を呑んだ昭王が咄嗟に手綱を引き絞り、平衡を保ちつつカミュを見れば、軽く手綱を持っていた左手が空をつかみ、不安定な体勢のままで鐙(あぶみ)の上に立ち上がりかけているではないか。振り落とされまいとたてがみをつかんだ瞬間、馬が大きく頭を振り立てると同時に艶やかな髪が宙に広がった。
「カミュ!!」
蒼ざめた昭王が叫んだ途端、慌てて飛び出してきたアイオリアが二人の馬の轡(くつわ)をようやくつかみ事なきを得たが、いま少し遅ければ昭王はともかく、カミュがどうなったか知れたものではなかったろう。
「昭王っ、ご無事であられますか?!」
「案ずるな!それよりカミュ、傷に障りはせなんだか?!」
急ぎ下馬した昭王も白馬の轡をつかむ。
「もう一度雷が鳴る前に早く降りたがよい!!」
「すまぬ、心配をおかけした。」
カミュが素早く馬を下りると、アイオリアがさっそく手綱を低い枝に結ぶ。
念のため馬とは反対側の幹に寄りかかり、雨の上がるのを待つのだが、さすがに動揺したのか、いつもに似ず目をそらして上気した様子のカミュに昭王も言葉がかけられぬ。
さすがに最後の機会だったと思うにつけても、手を伸ばせば届く距離にいるカミュが遠い人になったようで、その口惜しさはたとえようもないのであった。

それからは雷雲が近づくこともなく、上空の風が雨雲を東に押し流すと、雲の切れ間に宵の明星がひときわ美しく輝いているのが見えてきた。
「もう雨の降る気遣いもありますまい。みなが案じておりましょうゆえ、早々に帰宮いたしましょう。」
アイオリアに促された昭王が無言で頷き、一行は帰路についた。
たっぷりと雨に打たれた草の葉の陰から秋の虫の音が聞こえ、愁色漂う宵の空は早くも夜の色に染められてゆく。
涼しさを含んだ風が夏の名残りを吹き払い、野の色を薄墨色に変えるころには天勝宮の甍(いらか)が見えてくる。
ことさらに急ごうとはせぬ昭王の後姿が宵闇に重く沈んで見えた。


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