招涼伝 第三十三回

東の空に目を転ずれば、はや、夜の裳裾は濃き紅から黄金へと色を変え、それにつれて地平近くの暁雲も華やかにその身を染めてゆく。
暁ばかり憂きものはなし、といえども、刻々と移り変わるその美しさは何物にも例えようがなく、その色を留めようにも時の狭間をすり抜けていくようで、ただ瞳の奥に焼き付けておくより他はない。
あれほど、来ねばよいと願った朝も、こよなき人と見るに相応しい壮麗な夜明けをもたらしており、こののち見るであろう幾百幾千のどんな夜明けよりも心に残るそれを、二人は言葉もなく見守るのだった。
やがて、ただ一つ輝き残っていた明けの明星が光を失い身を隠すころには、すでに夜の気配は消え失せ、空はすっかり明るくなっていた。
「今日の日が昇る。また暑い一日になりそうだな。」
昭王は溜め息をついた。
「そういえば、昨夜は思いのほか涼しく心地よかったが、野外とはそうしたものだろうか?一晩中、外にいたのは初めてなのでよく分からぬ
 が、天勝宮では、暑くて寝苦しいことの方が多いぞ。」
振り返っての昭王の突然の問いかけに、カミュは内心、周章狼狽し、顔の赤らむのを覚えた。
なるほど、そう云われてみれば、無意識に周りの温度を下げていたのではなかったか。
昭王が訝しげにこちらを見ているような気がして返答に窮した時、暁光が二人の目を射て、あたり一帯はまばゆい黄金色に包まれた。  
「夜が明けたな。」
そう呟き、目を細めて東の地平を見はるかす昭王の横顔にも、その色は鮮やかに照り映えて美しい。
昭王の掛けている繊細な細工の瓔珞がすこし傾いでいるのに目をとめたカュが、そっと手を伸ばす。
「三年後か五年後、あるいはもっと後かも知れぬが、いつかは希臘に帰ることになる。 もし昨夜逢っていなければ、その時に天勝宮を訪ねる
 つもりであったが、こうなってはそれもかなわぬだろう。」
瓔珞をかけ直してやりながら、カミュは目をそらし幾分低い声で付け加えた。
「私は傾国の士になるわけにはいかぬ。」

見上げる空は蒼さを増してゆく。
昭王にはカミュがそう考えることはよく分かっていたし、それが正しいことも知っていた。
カミュがシベリアから戻ってくる頃には、もはや事情が変わっていると思われる。 いや、変わっていなくてはならぬのだ。 たとえカミュが何ヶ月逗留しようとも、幾度野駆けに興じようとも、それは知己としての域を出るものであってはならず、そのことに耐え抜くだけの自信が今の昭王にはないのであった。
それでもなお、カミュの言葉が胸を締め付ける。
先王の薨去の際は、あまりに突然なことであったので悲嘆にくれる暇もなく、両肩に降りかかった王としての重責に必死に耐えるだけで精一杯だったものだ。 ぬばたまの諒闇の闇も、昭王にとっては喪に服するというよりは国事に忙殺されていた、というほうが当たっていただろう。
あの時すらも涙を流すことはなかったというのに、今朝の払暁の空が鈍色 (にびいろ) に滲んで見えるのはなぜだろう。
カミュは言葉を続けた。
「太后殿も宰相殿も昭王に大きな期待を抱いておられる。 昨夜のことは、その障害とならぬと思ってよいか? 燕王としての道を過たぬと信じ
 てよいか?」
起こったことを過去の挿話とし、燕王としての義務を遂行することをカミュは望んでいるのだった。
昭王は肩をそびやかした。
「この生ある限り燕王でありつづけよう。 普通の名は、いつか再び巡り会う日まで胸の内に収めておこうものを。」
誇らしく答えた昭王に、いくらか逡巡したあとでカミュが問いを重ねる。
「いま一つ尋ねてもよいか? 何事もなく別れて、数年の後に天勝宮で再見するのと、昨夜逢って、その後は二度と会わぬのと………。 選べ
 たとしたら、昭王はどちらを選んだのか?」
「それは………」
答えようとした昭王の胸に、このままで別れることへの反発が不意に湧いてきた。

   今ひとたび、カミュに触れてならぬということはあるまいに。
   神の創りたまいしこの花のかんばせの恥らうさまを光の中で見ずにおくべきか。

拒まれはせぬか、との一瞬のためらいのあと、ままよ、と意を決して体を引きよせれば、小さく息を呑みはしたものの、さすがにこれが最後と思うのであろう、さしてあらがうようでもない。
頬にかかる髪を掻きやったとき、下の道の方から貴鬼の声がして二人をはっとさせた。
「昭王さま、お迎えにあがりました。」
一瞬、目を見交わし、僅かの沈黙のあと、手は離れた。
「よい、こちらへ参れ。」

   そうだ…まだ、先ほどの答えを云うてはおらぬ……!

そのとき、潅木をかきわけて貴鬼が姿を現わした。
昭王は貴鬼を招き寄せつつ、かたわらのカミュから心を離すことができぬ。
今、この胸に溢れる想いを、如何にして伝えられるというのか。  全てを語らんとしてついに語り尽くせぬもどかしさが、昭王を深く嘆かせた。

   我が言葉は想う全てを伝えたろうか、
   同国人でも想いが伝わらぬことさえままあるものを、燕の言葉を話すとはいえ異国人のカミュに我が心は通じたろうか。
   内なる想いを伝えんとするとき、言葉はいったいどれだけの力を持つというのであろうか。

もはや触れることはおろか、言葉で伝えることもできぬ今になって、昭王は心揺れてならぬのだった。
その想いがカミュの心に触れたとき、ふっと一つの考えを浮かばせた。

   ………そうだ、それがよい。

「昭王、これを受け取って欲しい。」
そう言うと、カミュは己が胸の前に両の手をかざした。
と、見る間に、白とも青ともつかぬ輝きが満ち溢れ、風ならぬ風、光ならぬ光があたりを包んだではないか。
それはカミュを中心にしてゆっくりと渦を巻き、天の日月と星のすべてを集めたかとも思われるほどに、透き通って煌めくのである。
やがてそれは、カミュの掌の中で凝縮しつつ徐々に形を成してゆき、昭王が驚嘆のまなざしで見つめる中で、白く光り輝く玉となった。
それとともに、カミュの発した小宇宙は、昭王の五体の隅々までも爽涼感で満たしていくようであった。
貴鬼は驚いて地べたに座り込み、口もきけぬ有様である。
「カミュ、これは?」
「これを身につけていれば、炎暑の夏は涼しく、厳寒の冬は暖かく過ごすことができよう。」
カミュは、そこで言葉を切り、昭王を見た。
「この玉を私だと思って、手元に置いて欲しい。」
その言葉は、カミュを希求してやまぬ昭王の心に甘露の如く染み込んでゆかずにはおかぬ。
昭王はそっと手に取り、顔の前にかざして見入った。 玉は、朝日を受けて淡い虹色を帯びている。
「どうして、そのようなことができるのであろう?」
「我等が感じている暑さ寒さというものは、熱の移動によるものなのだ。周囲が暑いときには、この玉の中に熱を吸い込み、その逆に寒いとき
 には、中に封じ込められていた熱が外に出てくる。」
「ほう、素晴らしいものだな、いかにも、そなたらしい。この昭王、肌身離さず持っていよう。」
カミュが精魂込めて作ってくれた品が、今、この手の中にある。 昭王は掌中の玉を慈しむように懐に入れると、カミュに手を差し出した。
「こたびのことにつき、そなたにはいろいろ世話になった。燕の人民ともども深く感謝している。旅路の無事を心から祈っている。」
燕王としてのその言葉とはうらはらに、万感の想いは胸を震わせる。

   もう二度と会えぬ、この姿を再び見ることはかなわぬのだ
   この声もこの髪も、我が手を離れて、戻ることはない。 

そして、その想いは、カミュも同じであった。
「私の方こそ。 燕のさらなる隆盛と燕王の一層の御健勝を祈る。」
そうして結ばれた双方の手は、一瞬のためらいのあと離れざるを得ぬ。 想いを込めた視線のみが、二人をつなぐ唯一のものであった。
永訣 (わかれ) の時は来たのだ。
そして、いままさに、貴鬼が法を使おうとしたそのとき、昭王がちらと槐の方を見た。
「そうだ、貴鬼、あの槐の向こう側に、酒壺と盃が置いてある。 取って参るように。」
その声に応じて貴鬼が踵を返したと見てとるや、転瞬、昭王はカミュとの距離を詰め、抱擁するなり一瞬の、しかし永遠の接吻を与えたではないか。
蒼天の下でそのような大胆な振る舞いをしてのけるとは、カミュの思いもせぬことであった。
さらに昭王は、白磁の頬に朱を上せているカミュの耳元に触れんばかりにして、
「先ほどの答えぞ……」
と云うと、何事かひそやかに囁いたものだ。 
カミュの耳朶の紅さが一段と増したようにみえた。

「ときに、カミュ、せめてもの縁 (よすが) に私からもこれを贈りたい。」
すっと離れた昭王がそう云って翡翠の腕輪を外そうとするのを、ようやく我に返ったカミュは急いで押しとどめた。
「それはならぬ。その腕輪は、燕王に代々伝えられたものと、以前宰相に聞いたことがある。気持ちだけいただこう。それに昭王からは、すで
 に充分過ぎるほどのものをもらっているゆえ。」
カミュが微笑み、今度は昭王が赤くなる番であった。


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