■ルポ 11.16■

中秋の晴天に恵まれ、約300人の人が会葬

宇井純の葬儀・告別式は2006年11月16日午前10時から、東京・西品川の桐ヶ谷斎場で行われた。

この日も中秋の晴天に恵まれた。空は抜けるように青かった。


09:00。
昨夜の通夜に続いて手伝ってくれる人、新たにボランティア精神を発揮してくれて馳せ参じてくれた人………20人余の人たちが受付スタッフとしてスタンバイ。10時からの葬儀に備え細々とした準備を進める。

新潟水俣病訴訟弁護団長−補佐人というタッグで“共闘”した弁護士の坂東克彦も新潟から駆け付け、栃木からは田中正造大学事務局長の坂原辰夫らが会葬者席に座る。さらに、昨夜の通夜には間に合わなかったが、沖縄から沖縄大学学長の桜井国俊初め、沖縄好きが高じて住みついてしまった宇井科学実験室の研究室員でいまは大学の事務職員の後藤哲志、1998年から5年間、助手を務めた金城由美子、それに学生時代しごかれた教えがいまも生きていると広言してはばからない京都精華大学院生の三輪大介ら“沖縄グループ”も駆け付けている。

写真左:沈痛な面持ちで開式を待つ坂東克彦さん(手前)
写真右:柴田来賓代表ら(手前)が合唱するなか田中導師が入堂

10:00。
司会の「開式」宣言で読経が始まり、葬儀が開始された。

10:10。
喪主・紀子を初め、遺族、親族が焼香した後、読経の続く中、来賓や一般の人たちの焼香が長々と続く。

10:28。
来賓を代表して日本環境会議代表理事の一人、柴田徳衛の弔辞が始まった。故人との付き合い、故人の業績などを時にはユーモアを交え、参会者に「宇井純」をより知らしめようという意図に溢れている弔辞であった。

10:57。
焼香者が多かったため予定より大幅に遅れ、導師が退堂。

11:10。
「別れの儀」に移る。遺族、親族らがまず生花を棺の中に捧げ、一般の人たちも相次いで一輪ずつ献花。宇井純は花にうずもれた………。

11:20。
多くの弔電の中から、石牟礼道子さんらの弔電の一部が披露される。

11:26。
親族を代表して故人の義弟(妹・幸子の夫で、東大時代の同級生)・鈴木昭三が「大きな仕事だった公開自主講座ができたのは東大を解放したくない教授連の壁を当時の加藤総長の英断が破ってくれた賜物だった。そして、多くの人たちが結集して盛り上がってくださった。弔辞をいただいた柴田先生初め都留、戒能、宮本各先生初め有名無名のたくさんの人たちのお陰だ。宇井は「外」に対しては抜群の能力と行動力をもっていた。しかし、友人として親戚の一員としてあえて申し上げれば、家庭の仕事には無関心で実行力がなかった(笑い)。家庭の仕事は紀子夫人と3人の子どもたちが早くから協力し合い、支える態勢を作ってきた。おそらくいろいろな地方に出かけ、いろいろな方々と接触した際も大変お世話になったはず。さらに、彼は人生の中で何度も大病を患いながら、そのつど名医と医療機関に恵まれ、命拾いした。大変幸せな人生であった。今改めて、お世話になったみなさんに感謝を申し上げたい」と、これまた故人の横顔を軽妙な話術で表現。
写真:親族を代表して同級生で義弟でもあった鈴木昭三さんがあいさつ

11:34。
喪主・紀子が遺族を代表して感謝の言葉を述べる。故人・宇井純が私淑した田中正造の言葉を引用し、簡潔だが心を込めて、厚情と葬儀への参会に感謝した。

11:38。
出棺。いよいよ本当の別れの時がきた。焼香後も残っていた多くの弔問客が見送る中を、宇井純の棺は静かに隣接の火葬場へ移動していった。

写真:導師に導かれ棺は火葬場に向かった

11:40。
こうして、葬儀・告別式は滞りなく終わった。

約300人の人たちが参会してくれた葬儀・告別式だった。