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地震と停電

2018年9月6日午前3時8分、胆振東部地震発生。震源地では震度7の揺れ。崖崩れで多くの人々に被害が出ました。私が住む札幌市東区では、震度6弱。生まれて初めて経験する激しい揺れでした。その後15分ほどで北海道全体が停電する事態となり、地震と共に大きな影響を受けることになりました。ここでは、地震発生時の状況と、長時間停電における電磁波過敏症の影響について書いていきたいと思います。

○突然大きな揺れが・・・
 地震発生時、深夜なので多くの人々は寝ていたようですが、私は起きていました。ここ数年の生活習慣として、早めに寝て、夜2時か3時には起きることにしていたからです。最初小さな揺れがあって、「あ、地震かな」と思いました。「すぐにおさまるだろう」と思っていたら、10秒ほどたって、ものすごい揺れが襲ってきました。部屋の家具が跳ね上がるかと思われるほどの揺れで、とっさに本棚が倒れないように押さえにかかりました。必死で押さえましたが、揺れがひどいので、腕の力が負けそうです。いつまでたっても揺れがおさまりません。頭の中には、2011年3月11日の東日本大震災のことがよぎり、恐怖心でいっぱいになりました。そのうち、足の震えが来て、立っていられなくなりました。俗に言う「腰が抜けた」というのは、こういう状態なのかと思いました。

 そのうち、部屋の中にある窓用エアコンがジャンプして倒れそうになったのですが、本棚とエアコンが離れているので、両方押さえることができません。窓用エアコンは、本来なら窓枠にしっかり取り付けるものなのですが、私の場合は、CS事情により、段ボールで作った台に乗せてあるだけでした(→スモール・データ・バンク2「エアコン」参照)。足が立たないので、這いながらエアコンを押さえ、また這って本棚を押さえ・・・それを繰り返しているうちに、長い時間かかってようやく揺れがおさまりました。

 呆然としながら、震える手で部屋中の崩れたものを戻しながら、夫はどうしているのだろうと心配になりました。これだけひどい地震なのだから、夫はすぐに駆けつけてくれるはずなのに、音沙汰ありません。私たち夫婦の居住形態を説明しますと、CSなどの事情から、ワンルームマンションの別の部屋にそれぞれ分かれて住んでいます(→第2部 第6章「引越」参照)。

「あ、ひょっとして、倒れた家具の下敷きになって動けないのでは? 家具に押しつぶされて死んだのかも・・・」サーッと顔が青ざめて、すぐさま夫の部屋に駆けつけました。玄関のドアを開けると、部屋中のあらゆるものが倒れ、崩れて、部屋の中に入ることができません。「大丈夫?」と声をかけると、「大丈夫」と返ってきて、生きていることは確認できました。

○停電発生
 崩れたものの山を踏み分け、倒れたものをより分けながら、夫は何とか部屋を脱出し、私の部屋に来て、無事を確認し合いました。 「ひどい揺れだったね」「でも無事でよかった」と言い合った瞬間、部屋の電気が消えて、真っ暗になりました。地震発生後、15分程度の出来事でした。

「あ、しまった!」地震のあとには断水や停電の可能性があるのに、全く予測していませんでした。直後に消えなかったのだから大丈夫だと思って、すっかり油断していました。真っ暗な中で、手探りであちこち探して、何とか小さなペンライトを見つけ出しました。部屋中の物が地震で崩れているので、物の位置が普段と違っていて、どこに何があるのか手探りでは区別がつけにくかったです。

 マンションの廊下に出てみると、驚いたことに、廊下の電灯は薄暗いながらついていました。どうやらマンションのどこかにバッテリーがあって、しばらくの間は点灯している仕組みになっているようです。他は真っ暗ですから、この灯りはありがたかったです。玄関のドアを少し開けて、廊下の灯りを部屋に入れながら、その後の対策をしました。

○水を確保
 断水になる恐れがあるので、風呂の浴槽に水をためました。ペットボトルにも水を汲みました。このマンションの水道は、1日2回ポンプでくみ上げて貯水槽にためておく仕組みです。停電が続けば、ポンプが働かないので、貯水槽の水が尽きて、断水になる可能性があります。飲み水は買い置きのミネラルウォーターがあるので何とかなりそうでしたが、トイレを流す水だけは確保しておきたいと思いました。しかし、このマンションの住人全員が浴槽に水をためたら、貯水槽の水が一気になくなってしまうのではないか? むしろ汲まずにとっておいた方がいいのではないか?と悩みました。こういう非常時の対応というのは、これが正解というのはないような気がします。

 CS的に特筆すべきは、風呂桶のゴム栓のことです。私はこのゴムの匂いが苦手なのと、表面に生える黒カビにアレルギー反応を起こすので、普段は栓をビニールで覆って使っています。ビニールの分浮いてしまって密栓はできないのですが、力を入れて押せば入浴中のお湯が減ることはありません。追い炊きできないシステムなので、毎回、入浴後にすぐお湯を払います。その間の使用であれば、ビニールがけしたゴム栓でも大丈夫です。

 しかし、地震時には、長時間水をためておいたので、12時間後には水量が半減し、24時間後にはほとんどなくなってしまいました。少しずつ、少しずつ、水が抜けていった模様です。減っていく水を見ながら、「ビニールをはがしてから栓をするんだった・・・」と後悔しても、後の祭りでした。夫の部屋の方でも浴槽に水をためていて、こちらの方は栓に加工していないので、全く減ることなく残っていました。

○空調システムが停止
 私はそれまで半年ほど、毎朝マンションの窓から日の出を見るのを習慣にしていました。それで、この日の太陽が何時くらいに昇るかもわかっていました。だいたい5時に日の出なので、4時半頃から薄明が始まります。あと1時間もすれば明るくなってきて暗闇は解消するだろうと思いました。

 化学物質過敏症の私にとって、一番ダメージが大きかったのは、CS仕様に導入していた空調システムがストップしてしまったことです。空気清浄機が止まり、エアコンが止まり、除湿機を稼働することもできなくなりました。この年の夏は非常に湿度が高く、ようやくこれらの機器でカビの発生を抑えている状態でした。また、カビだけではなく、空気中の湿度が高いだけで、息苦しさの症状が出てきます。私にとって除湿は健康管理のために非常に重要なことでした。

 折しも前日に来ていた台風21号の影響で、南から湿った空気が入り込んで、外気はジトジトのベタベタでした。また、台風が巻き上げた黄砂が札幌周辺にも入り込んでいる状態だったので、黄砂アレルギーの私にとっては、空気清浄機が頼みの綱でした。加えて、台風後の高温多湿な気候の中、まだまだ、エアコンで室温を下げたい所。黄砂が来ているので、窓を開けることはできません。空調機器が全部止まってしまって、部屋の空気はどんどん悪化していきました。

 蒸し暑さが次第に増してくる中、とりあえず、冷凍庫にあったアイス(自家製、無添加のもの)を食べてしまうことにしました。停電が続けば、どうせ溶けてしまうからです。部屋の空気がどんどん蒸し暑くなってきて、息苦しさも増してきたので、なるべく横になって体力の消耗を防ぐようにしていました。

○電磁波過敏症への影響
 ようやく日が昇り、部屋の様子がわかるようになると、地震の被害の大きさがわかって、愕然とする思いでした。同じマンション内に、ウチの会社の事務所があるので、そちらも見に行きました。倉庫代わりに使っている部屋も見に行きましたが、あらゆる物が倒れていて、足の踏み場もない感じです。

 マンションの建物は、内も外も少しずつヒビが入っていましたが、大きな損傷はない感じでした。もし建物が大きく壊れていたら、修繕工事が行われることになり、CSの私には大きな影響が出ることになります。この時点では、さほど大きな被害はない感じでしたが、建物が弱って損傷が広がっていくのではないかと、ヒヤヒヤしました。

 夫は実家に電話してみました。なぜか固定電話は通じました。私たちは何のニュースもない状態でしたが、義父の話によると、北海道全域で停電しているとのこと。なぜそんなことになっているのか想像もつきません。電磁波過敏症の私は身震いしました。電気がすべて止まっているのだから、どの人もスマホやケータイから情報を取ろうとするだろう。そうしたら、結果として、空間中を飛び交う電磁波の量が大きくなって、私の身には重大なES症状が起きるのではないだろうか? 

 私のES症状は、季節や時間帯によって変化していました。多くの人々がスマホやケータイを使う時期・時間帯には、症状が強くなっていました。年末年始や選挙の時期、災害発生時(緊急警報発令時など)には、頭痛・全身の筋肉の痛み・目の症状などが強くなります(→第2部 第1章「携帯電話」参照)。ひどいときには起きていられないほどです。しかし、今回の地震では、思ったよりES症状が悪くならないのです。意外に思っていましたが、その理由がすぐにわかりました。

 明るくなって、夫は近所のコンビニに電池を買いに行ってくれました。長い行列ができていて、30分ほど並んだと言っていました。私は「そんなに行列ができているんなら、みんな時間つぶしにスマホをいじっていたでしょ?」と聞きました。私は2012年頃から、行列に並ぶことができなくなっていました。前後の人が使うモバイル機器の電磁波に耐えられなくなっていたからです。夫の答えは意外なものでした。「誰もスマホをつかっている人はいなかった。停電で充電できなくなるから、みんなバッテリーの消耗を防ぐために無駄なことには使わないのだろう」とのこと。なるほど、そういうことになるのか、と思いました。このときの行列であれば、私でも並ぶことができたかもしれません。黄砂が来ていなければ、の話ですが・・・。

 コンビニの商品は、ほとんど売り切れていて、ただ電池を少しだけ買ってきたと夫は言いました。普通の乾電池は売り切れていて、ペンライト用のボタン電池だけでした。

○災害時の情報源
 停電で情報を得るのが難しい中、ラジオが非常に役立ったと多くの人々が証言しています。しかし、私はこのとき、家にあったラジカセのラジオを使いませんでした。ラジオで頭痛が起きることがわかっていたからです。2011年3月の東日本大震災の時、我が家にはテレビがないので、代わりにラジオを聞きました。私たち夫婦の出身地は宮城県で、大きな被害を受けた地域だったからです。このとき2時間ほど断続的にラジオを聞いていて、つけるたびに強い頭痛がしていたので、私はラジオが駄目なんだ、とわかりました。ラジオの電波に反応しているようです。そのため、今回の地震でも、ラジオに頼る気は端からなく、他の情報源もないので、全く情報の蚊帳の外に置かれていました。食べるものは家にある物で何とかなりそうだったし、いずれ停電も収まるだろうから、特別情報を必要としていなかったというのはあります。

 唯一の情報源は、なぜかずっと通じていた固定電話で、夫婦両方の実家にときどき電話をかけて、テレビニュースなどで報道されている情報を聞きました。母が「あんたの住んでる札幌市東区がめちゃくちゃになってる! テレビで、ものすごい映像が放送されてる!」と興奮していました。何のニュースもない私には何のことかわからず、首をかしげるばかりです。「道路があちこち崩れて、ぐちゃぐちゃになっている!」と母は言います。私が窓から見た所、外の道路は何ともありません。「マスコミは被害の大きい地域ばかり報道しているんだな。何でも大げさにしようとするから!」とそのときは考えたのですが、その後、我が家から1km足らずのところで道路崩壊が起きており、我が家から1km程の所にある地震観測点で、震度6弱が出ていたことを知り、青ざめました・・・普段よく車で通るところです。ものすごい揺れだったもんな、震度6弱か・・・あらためて全身に震えが来たことでした。

 電話で母に「なぜ停電しているのか」を聞いてみましたが、要領を得ません。「1ヶ所で発電所が止まったら、あちこち何かが働いて全部止まった」というのですが、これでは何のことかわかりません。あとで知ったことによると、震源近くの発電所が緊急停止したあと、全道で電力の需給バランスが大きく崩れ、適正の周波数が維持できなくなったため、安全装置が働いて、他の発電所も非常停止した模様です。今こうやって書いていても、北海道全域の停電は阻止できなかったのか?と疑問がわきますが、素人にはわからない複雑なシステムが作用したということなのでしょう。

○暑さ対策
 昼間はよく晴れていて、室内にも日光やその熱気が入ってくるので、蒸し暑さがさらに増しました。カーテン代わりの自作の日よけを設置して、日光を防ぎました。これは窓のサイズぴったりに作ってあるので、昼間でも部屋が真っ暗になります。停電で灯りがつけられないので、日よけを少しだけずらして薄明かりを部屋に導入しました。火の気は全く起こせないので、冷蔵庫と収納庫から食べ物を出しては、モソモソとそのまま食べるのみ。地震のショックと薄暗さで、ぜんぜん食欲はわきませんでした。そのため、買い物に行かなくても食べ物にはまったく困りませんでした。この頃、スーパーには食料品を求める長蛇の列ができていたということでしたが・・・。

 道民はジンギスカンなどで炭火をおこすのが得意なので、庭でバーベキューをやっていた家も多かったと聞きます。停電で他にやることがないし、冷蔵庫・冷凍庫の食材が腐る前に食べなければならないということで、バーベキューになったようです。私も病気がなければ、このように、たくましく過ごしてみたかったものです!

○ES症状の変化
 夫は会社の営業開始に向けて、その日予約していたお客さんに連絡を始めました。従業員の一人はすでに出社するという連絡をくれていたので、停電中でも営業できないかと思いました。しかし、いくら電話しても、客先にはまったくつながりませんでした。逆にお客さんからもメールをくれたようですが、こちらに届いたのは10時間以上あとになってからです。夫は固定電話とスマホを使って、連絡していました。(夫はスマホを所有していますが、外出時に使うのみで、家では電源を切っています。私のESに配慮してのことです。)

 このとき、こちらの固定電話はずっと使えていましたが、相手先のスマホ、ケータイが駄目になっているようで、つながりません。夫のスマホも、時間によって使えたり使えなかったりしました。停電により電力供給がストップしたため、基地局(マンションの上や鉄塔の上に設置されたアンテナ)に電力が行かず、通信が遮断されてしまったようです。しかし、全然ダメかというとそうではなく、時間によっては通じ、時間によってはダメになり・・・と推移していったので、完全に通信が途絶してしまわないように、携帯電話会社の方で通信制限をしているのかな?と思いました。結局この日の営業を諦め、夫はキャンセルを伝えるため、夕方までお客さんとの連絡に努めていました。

 午後3時頃になって、私は不思議な現象に見舞われました。電磁波過敏症の症状が、かつてないほどラクになってきたのです。停電の影響が出てきたということでしょう。全身の筋肉の痛み、強いこわばりが取れて、体が軽く感じられました。頭を圧迫するような頭痛が消え、皮膚にピリピリと細かい針が突き刺さるような痛みも消えていったのです。心は軽やかになり、安らぎに似たような気持ちになりました。2001年に電磁波過敏症を発症してから、絶えて久しくなかったような心境です。それは、2007〜2008年の年末年始に電磁波の少ないところに避難したとき、初めて感じた心の安らぎに似ていました(→詳しくは第2部  第2章「携帯電話(年末年始)」を参照)。目の前のジラジラとした点滅が消え、目を閉じると、心の中に大きな空間が広がったように感じ、物が自由に考えられるのです。

 私がESで特に阻害されていると感じるのは「追憶」の機能で、過去のことを回想するのに不自由し、また思い出しても懐かしいなどの感情が湧き起こらないことが多かったです。これらの機能は、実生活にはたいした影響はなさそうに思われるかもしれませんが、人間が過去の経験や感情を頼りに行動し、人格を形成していることを思えば、それを阻害されることが、どれだけ大きな影響を与えるのかは想像していただけることでしょう。

 私は床に寝ころびながら、様々な追憶にふけっていました。目の症状もなくなったので、部屋にある事物がとても美しく安らぎに満ちたものになりました。驚いたのは、呼吸の症状が治まったことです。部屋の空調はストップしているし、温湿度計は高温多湿を示しています。呼吸がよくなる要素があろうはずはありません。しかし、状況に反して、呼吸は深くスムーズになっていきました。普段は胸のあたりの筋肉がつったように硬直して、深呼吸をしようとすると、息が詰まってしまって入っていかないのですが、このときは何の抵抗もなく深呼吸できました。こんなに気持ちの良いものなのかと思いました。

 過去の楽しかった思い出、悲しかったり苦しかった思い出も、次々と思い起こされ、それはとても甘い懐かしさに包まれていました。私の人生にそのような追憶は決して起こらないだろうと思っていたので、とても意外なことでした。このことからも、私の普段の精神生活がいかに制限を受けており、いかに貧困なものであるかがうかがい知れました。

 私は心の中で思いました。「こうしていられるのは、今のうちだけ。この心の安らぎはいずれ去ってしまうだろう。停電が終わって電気が戻ったら、すべて失われてしまうだろう・・・。」こう考えると、とても残念な感じがしました。私の心の中では、「停電が続いたら困る」という気持ちと、「このまま停電が続いて欲しい」という気持ちが相克しながら、混在していました。

○復旧の見通しなし
 日が暮れるまでには停電は復旧されると思っていましたが、予想に反して続いたままです。日暮れと共に、街はまた暗闇に包まれてきました。マンションの廊下の灯りは、バッテリーが切れたようで、完全に消えてしまいました。窓から見る星のきれいなこと! いまだかつて札幌でこんな星空を見たことはありませんでした。車のヘッドライト以外は、信号も街灯も消えているのだから、本当にきれいな星が見えました。しかし、数時間後には、ガソリンスタンドに並ぶ長蛇の列が我が家の近くまで伸びてきて、ヘッドライトの光で星が見えなくなってしまったのは残念でした。しかし、このヘッドライトの明かりが窓越しに部屋まで入ってきて、ペンライトなしでも部屋の事物がうっすらと見えるようになったのは助かりました。それまでは、本当に真っ暗でした。

 相反する両極の気持ちを抱きながら、電話で母に今後の見通しを聞いてみると、ニュースでは、発電所の復旧までに1週間かかると言っているとのこと! さすがに一週間停電は無理だと思いました。だいたいにおいて、会社を1日休んだだけでダメージなのに、1週間も営業を停止したら、ウチの会社はどうなってしまうのでしょう? 自分の体調もさることながら、そっちの方が心配になりました。これは道内の全企業に共通の悩みだったことでしょう。

 夜になると部屋の中が非常に蒸し暑くなってきました。鉄筋コンクリートのマンションなので、昼間日光が建材を温め、その輻射熱が夜になると室内に放射されてきます。晴れた日に、1日のうちで最も室温が高くなるのは、深夜0時頃です。この日も時間を追うごとに室温が上がってきました。心の安らぎを感じながらも、この蒸し暑さはなんとかならないものだろうかと考えました。これが1週間も続いたらどうなるのかと心配でした。食欲は本当にまるでなかったので、食べ物の心配はしませんでした。

○近所の変化
 そのうち、停電が続いてほしい気持ちに、復旧してほしい気持ちが勝るようになった頃、窓の外を見て、変化が起きていることに気づきました。暗闇に沈む町並みの中、ほんの数軒だけは電灯がついているのです。わがマンションの隣の家も、一軒だけ灯りがつきました。「ああ、自家発電装置を起動したんだな」と思いました。それにしても、大きなマンションに自家発電装置があるのは頷けるとしても、隣の小さな一軒家まで自家発電をしているのだろうか・・・疑問に思いました。

 そして、その3時間後、蒸し暑さに耐えながら、廊下を巡回していると、道路一本向こうのアパートに突然灯りがつき、斜め隣の家にも灯りが戻り、次の瞬間、バチン!という音がして、わがマンションにも一斉に電気がついたのです! 文明の光!明るい!!ありがたい! なんと美しい光でしょう。

 通りを挟んで反対側の家々はまだ真っ暗なままでした。どうやら、いっぺんに停電を復旧すると、皆が一斉に電気を使い始めて負荷がかかるので、数軒ずつ復旧させているようなのです。夫と2人で喜んで、まず私は空調機器にスイッチを入れました。蒸し暑さが解消されて、体がラクになってきました。夫は電気コンロで、冷蔵庫の肉を炒め始めました。腐ってしまったかと思いましたが、大丈夫でした。その肉を食べながら、2人でお祝いしました。

○ES症状、再び悪化
 私が懸念していたとおり、電気が戻って、ほんの1時間ほどの間に、時間を逆まわしにするように、少しずつ少しずつES症状は戻ってきてしまいました。停電が終わった家々では、モバイル機器を使い始めているでしょうし、無線通信以外の電気機器も次々と稼働していっています。両者の比率はどのくらいなのかはわからないのですが、どちらも私の体に影響を及ぼし始めました。

 10分後には、首から始まった痛みが後頭部、肩、腰へと広がり、15分後には、耳の下や顎の付け根が痛み始め、背中〜脇の痛みへと広がっていきました。25分後には、こめかみから顎にかけての痛み、歯のうずくような痛み、胃痛が出て、最後に足の髄が重苦しい痛みとなりました。頭痛、皮膚のピリピリ感、息苦しさ、視界の点滅も始まりました。思考力が阻害される感じ、車酔いのような吐き気、クラクラとした目眩感も出てきました。

 まるで潜水夫が深い海に徐々に潜っていくように、体の圧迫感や筋肉のこわばりが強くなっていき、もとのES症状に戻ってしまいました。私のこのときの気持ちをあえて言葉で表すとすれば「悲哀」というのが一番近かったでしょうか。私はこれからもこういう環境で、こういった体調で生きていくしかないんだなあ・・・とあらためて覚悟を決めた瞬間でもありました。どの人もどの人も、その人が背負っている運命からは逃れられないのです。それでもいいのだ、と思いました。

 電気が戻ったのは、停電発生から約20時間後で、たった1日程度の停電でしたが、その不便さ、不安は大きなものがありました。ES症状のことを考えると、複雑な心境でしたが、電気が戻って、心からうれしいと思いました。その後1ヶ月ほど余震が続き、また大きな揺れが来るのでは?また停電するのでは?と不安な日々を送りましたが、その後次第に揺れもおさまり、もとの日常生活に戻ることができたのは幸いでした。

(2019年5月)

「読書」へ続く
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