北神戸 丹生山田の郷
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衝原(つくはら、 約5.9Ku、地図名前の由来(*21)(*23)

昭和61年(1986年)、呑吐ダムが完成し、衝原の33戸の民家のうち、31戸は約90haの山田川流域の豊かな自然や田畑とともにつくはら湖の湖底に沈んだ。これに先立つ昭和53年(1978年)には、衝原の東部に新たに造成された住宅地で呑吐ダムが呑みこんだ村の解村と吐き出した村の開村のセレモニー「衝原地区開解村式」が行われた。水没する31戸のうち18戸と箱木千年家、大歳神社などは新たな造成地に移ったが若者を中心に他地区へ転出するものも多くいた。

衝原の西、東播の印南野、現在の加古郡稲美町を中心とする地域は昔から水利に乏しく、明治24年(1891)には淡河疎水、大正8年(1919)には、水量豊かな山田川から衝原を起点とする山田疎水が作られたが、人口が増えるに連れて、東播の水不足は再び深刻化していた。

この問題を解決するため、呑吐ダム計画が持ち上がった。御多分に洩れず、行政はこのダム計画を地元住民に事前に説明することなく昭和36年から予備調査に着手した。昭和43年になってようやく農林省が地区住民に計画を打ち明けた時には強硬な反対運動も起こったが、広域の水利計画の大義名分に対して昭和45年(1970)ころには移転を前提とした条件闘争に切り替えざるを得ず、昭和52年(1977)頃から箱木千年家を始め集落が移築・移設されていった。



衝原湖

衝原は山田町の西の端に位置し、中央部を山田川を支流に持つつくはら湖(写真左、約0.4Ku)が南北に西隣の志染(しじみ)町にかけて横たわっている。摂津の最西端にあって畿内文化を保持しつつ生産力豊かな東播への接点にもなり、第2次世界大戦以前は米作より炭焼きに依存していたこの土地のつくはら湖の東に箱木家の邸宅箱木千年家や、浄蓮寺の古仏も残っている。(*21)

呑吐ダムの建設により1977頃から箱木千年家を始め集落が移築・移設され、戸数も半減した。

箱木千年家より衝原湖

《社寺・史跡》(*21)

箱木千年家(14世紀ごろの建築)

平安時代初期(806年、大同元年)に上棟したと記録があるため「千年家」と呼ばれているが、呑吐ダム建設の際の1977(昭和52)年から2年がかりの移築の際の解体調査で、14世紀頃(鎌倉〜南北朝)の我が国最古の民家である「母屋」と江戸中期に改築した「離れ」を江戸時代末期に一つの棟に収めたものであることが判明した。

(写真右1枚目)外観(正面が最古の民家である母屋、その左が江戸時代に改築された離れ)

(写真右2枚目)箱木千年家離れから、西方のつくはら湖を望む

大歳神社

大歳神社(明要元年(541) 開山?創立年代不明、関連リンク

衝原唯一の神社(写真右)。呑吐ダム建設で水没するため昭和53年(1978)に移築。5基の石燈篭のうち最古のものは延宝3年(1675)銘。

浄蓮寺(白雉年中(650-654) 開山?)

摩耶山に寺(解説)を開いたインドの高僧法道仙人(解説)によって開かれたとされ、呑吐ダム建設で水没するため木造藁葺きで玄関に十六弁菊の紋章を持った本堂を放棄し昭和53年(1978)7月に移築。本尊は他で見ることの少ない大随休菩薩(無限の罪から解放し戦乱・風雨を鎮めるなど広い功徳があるとして平安時代に盛んに信仰された)。石造物では、江戸時代の宝篋印塔(解説)、寛文3年(1663)銘の一石五輪塔、寛文10年(1670)の石仏などがある。

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