※環ラスとは
<11>〜
2005/03/01 <10>
判決結果を伝える地元紙
1週間ほど沖縄へ出かけた。その間に、不可解(というより個人的感情から言えば不愉快)な事を見聞きした。
その1は、米軍機の騒音に対する住民訴訟への高裁判決。2005年2月17日、那覇地裁沖縄支部は米軍基地の周辺住民5541人が日米両政府に米軍機の夜間・早朝の飛行差止めと損害賠償(160億円余)を求めた、いわゆる新嘉手納爆音訴訟に対する判決を下した。
飯田恭示という裁判長は、この裁判の最大の焦点である騒音性難聴などと爆音の因果関係について「健康被害は認められない」と棄却! 飛行の差止めについても「条約や国内法で米軍の活動を制約できない」と認めなかった! その上、国に対し過去分の損害賠償として28億円余の支払を命じたものの、受忍限度対象地域を旧訴の控訴審判決で認定したよりも大幅に狭めた! 個人的な恨みはないが、今回の判決は全然「恭示」ではありませんよ、 飯田裁判長!
これに対し、弁護団・原告団は2月24日、「不服」として福岡高裁(那覇支部)に控訴した。当然のことである。


一喜一憂せず闘っていきたいと静かに語る金城さん。この日は座り込み309日目だった
その2は、これまた大懸案の普天間基地移転にともなう辺野古沖でのヘリポート建設問題での動き。反対し座り込みを続けている漁民・市民のテントを移動させたことと、何やらウサン臭い政治的な動きを突如マスコミを使い流し始めたことだ。
現地を訪れたのは2月22日。漁港浚渫工事の邪魔になるという理由で、かねてからの通告であったそうだが、その前日、移動させられた。しかし、理由はそれだけだろうか? 71歳の老齢(失礼!)を全力投入して10年以上反対運動の先頭に立っているヘリポート建設阻止協議会/命を守る会代表世話人の金城祐治さんに短時間だが話しが聞けた。「テントの移設はそれ自体問題がないわけではないが、もっと大きなところで我々は闘っている。いま、政治の世界で(移設先は)“辺野古にこだわらない”という風聞が流れているが、しっかり見守りたい。10年以上やってきたんだよ。いまさら一喜一憂しても始まらない。それよりテントに入って、おばあたちと話しでもしていかんかね………」と日焼けした顔をほころばせた。深く刻まれたシワが印象的だった。
名は体を表す。金城さん、余「裕(祐)」をもって運動を「治」めているようだ。

昨年12月に出した『さわってごらん、ぼくの顔』(汐文社)が1月には重版されたと喜ぶ藤井さん
その他、米軍は性懲りもなく昨年8月に沖国大に墜落した大型ヘリと同型のものを基地外飛行させる(2月23日から)との情報に接してみてこみ上げる怒りを感じたり、久米島に10年ぶりにヒョウが降ったことに代表される“異常に寒い”沖縄の天候に八つ当りしつつ、今回はいままでにない不愉快な印象をもったまま帰るのかなと思っていた矢先、ホテルでの朝食の際に思いがけない人にバッタリ。熊本大学医学部教授の藤井輝明さんだ。
今回の訪沖は那覇市教育委員会の招請によるもので、いじめ・差別・偏見・蔑視など人権問題は幼少時から家庭・学校・地域で取り組まなければならないとの考えから、全校のPTAにも参加してもらっての場での講演とのこと。大学が春休みに入ったので飛び回っているようで、いわゆるユニーク・フェイスで自らも様々な体験をしてきただけに、聞く側に説得力を与える。独特の語り口で話し、笑う藤井さんの顔は文字通り「明」るく「輝」いていた。



2005/02/09 <9> 2月9日。
旧暦の新年の始まりである。旧暦で正月を祝う地域・国−沖縄の人たち、中国の人たち、そして少しへそ曲がりで趣旨にご賛同いただける人たちに“新年おめでとうございます!”と申し上げたい。

告白すると、「旧暦でやってみよう」と思ったのはたった3年前のこと。しかも動機は雑事にかまけて年賀状を出しそびれ、その上、いただいたのにすぐに返信が出来ず、気づいたら1月も末になってしまい、何か言訳はないかと考えた挙句に思いついた苦肉と言うより、不純なものであった。元々、そんなに節操のある人間じゃないから、この程度の変節はいいか?―と自らに言い聞かせ、以来、3年目となるという次第。

しかし、にわか旧暦信奉者とは言え、多少の理論武装はしておかなければ格好悪いと思い、百科事典(小学館『万有百科大事典』)をひも解いた。
いま、日本の公式暦は「太陽暦」だが、それまでは月の満ち欠けで日を数えながら太陽の運行を考え、かつ季節に合わせた暦法−「太陰太陽暦」が採用されていた。それを太陽暦に切り換えたのは明治6(1873)年1月1日から。時の明治政府は外交・通商上から太陽暦の導入は避けられないと判断し、明治5(1872)念11月9日に「改暦詔書」を発し、約1ヵ月後の12月3日をもって太陽暦を採用、その日を明治6年1月1日とし、現在に至っているという。

まあ、ここまではナルホドと思い、読み進むと次の一節に至り笑ってしまった。
「何の前触れもなく、しかも12月と言う年末に突如改暦に踏み切った大きな理由は明治6年は旧暦では閏年(うるうどし)で13ヵ月であるが、太陽暦の採用によって1ヵ月分の官吏俸給を浮かすことと、年末12月は2日で打ち切られたため、12月分の給与も節約できるという財政上の見地からであったのである」(渡辺敏夫)
―とあるではないか! 改暦が財政赤字解消策だったとは知らなかった………。

爾来132年。慢性的・構造的財政赤字に悩む今日、様々な議論が行なわれていることにある種の感慨さえ覚えるが、こういう“故事”を知ると、季節感のことだけでなく、何か「旧暦」に愛着さえ感じてしまう。

さて、以下はさらなる屁理屈になるかも知れないが、昨今ひんぱんに「スローフード」とか「スローライフ」とかの言葉を耳にする。それらの著書も相次いでいる。そこでハタと思いついたのが「スローライフって、もしかしたら旧暦ライフとちゃうか?」ということだ。(という理屈はそもそも「スローライフ」の真意を会得してない、とスローライフ信奉者からお叱りを受けるかもしれない!?)

しかし、旧暦のカレンダーをめくっていると、やっぱりこっちの方がいいなという気がする。たとえば、旧七草は2月15日、旧七夕は8月11日、旧盆は8月19日、旧八朔は9月4日、旧重陽は10月11日………などなどがそれだ。
旧暦を意識すると、月の満ち欠けや季節の移ろいなどに留意するようになるから不思議だ。旧暦をお勧めする所以である。(因みに、来年は1月29日が旧正月の元旦)

ただ、近年「季節感」はすっかり狂っている。その元凶が名にし負う地球温暖化であることは言うまでもない。10日ほど前、新幹線で新潟へ行った。高崎を過ぎると一面銀世界だったのに、地震で脱線したあたりから長岡を過ぎ、燕三条に近づくと雪は切れ、新潟に至っては雪のかけらも見られない! タクシーの運転手氏曰く。「最近の新潟はこんなですよ。気持悪いですよ」。地球温暖化は気になる現象の一つだし、旧暦ムード最大の破壊者だ………。

ところで、いま、旧暦の新年(正月)を迎えて思う事は、2005年1月1日を期して1ヵ月あまりにわたってアップしたので改めて申し上げることはないが、あえて自縛の意味で申し上げれば弊≪環っ波≫の充実である。充実というのはおこがましい。昨年8月15日にアップしたのに、いまなお「工事中」があることを恥じ、この看板の解消にまず全力を傾注したい。とりわけ複合要因から4年余り休載を続けている《宇井純物語》(≪環っ波≫では《宇井 純―我が闘いの軌跡−》)の復活、完結をここに公約したい。

旧暦正月を迎えての「ささやかな計」である。



2005/01/01 <8>
2004年8月26日、佐賀地裁は工事中止の仮処分決定、工事現場の門は堅く閉じられたが、農水省は水面下で“完遂”を目論んでいる。 =時津良治さん提供
この景観がなくなってしまうだけでなく、もう必要もないのに税金を使い、環境を破壊しようとしている。=「八ッ場ダムを考える会」パンフレットから
「水俣病関西訴訟」は画期的な判決と言われたが、当の環境省は事実上、この判断を認めない言動を取り続けている。
首都圏の直下型地震は「いつ来てもおかしくない」と言われているが、国も学者も右往左往しているだけでは?

年末、東京で開催された大学生の環境サークルの「エココン」でも環境学習の必要性が強調されたが………。
≪環っ波≫は旧暦カレンダーを拠り所にしているので、迎えた2005年1月1日は“環っ波新年”ではないが、世の中の大勢が西暦で動いているので、それはそれで尊重してメッセージを発したい。

願望は多々あるが、2005年、≪環っ波≫は以下のことを要望したい。

  1. 国は佐賀地裁の決定を受入れ、国営諫早湾干拓事業を正式に中止し、ギロチンを早期に開門せよ!
  2. コンクリート製のダムへの過大評価を改め、緑のダムの普及・実行に取り組め!
  3. 水俣病関西訴訟を最高裁判決をもって決着させよ!
  4. 首都圏、とりわけ東京における直下型地震の発生に備え、具体的なアクションを起せ!
  5. 小・中学校の教育現場で「環境学習」を最重要科目に位置付けると同時に、「環境しつけ」を全家庭で実行に移せ!
数え上げたらキリがない。こういうのを枚挙にいとまがないというのであろう。しかし、どこかの政党じゃあるまいし、掲げればいいというものではあるまい。

さて、以上の5項目のキーワードを整理すると、「干潟」であり、「ダム」であり、「公害病」であり、「教育」である。そして、これらに横断的につながるのが「国の在り方」であり、「公共事業」である。これらの課題、実は論議の俎上に乗せられてかなりの年月がたっているにもかかわらず、一握りの県知事が“反旗”を翻したりしている程度でまだ大きなうねりにはなっていない。国の財政がパンクしているのだから無駄な、しかもそれをすることによって開発や再生どころか自然生態を破壊するという二重三重の“悪事”なのに、それをやめよう、改めようということにならないのはなぜだろうか? それによって生活している多くの人々がいるからだろうか?
とすれば、ほとんどの不要な公共事業をやめ、それに見込んだ予算を福祉や教育に回せばよい―というきわめて単純なシステムと思えてならないのだが………。新年度予算案はまとめられたが、その使い方には思いやりでなく、思い切りが必要、と思うがいかがであろうか。

過ぎ去った2004年は、天災に見舞われた。その頻度は未曾有と言っても過言ではあるまい。その点から、昨年を表す言葉が「災」であったというのははずれてはいない。その年も終ろうとしていた矢先に10万人を遥かに超すと想定される犠牲者を出した「スマトラ沖地震・インド洋津波」もそれを決定的にした。
しかし、相次いで襲来した台風によってなぜあのような被害を受けたのか? 中越地震によってなぜあのような大きな被害をこうむったのか? いまなお全容が把握されていないが「スマトラ沖地震・インド洋津波」によって多くの国々で想像を絶する多数の被害者を出したのはなぜか? ―を冷静に分析すると、直接的原因は確かに「天災」に違いないが、結局は「人災」に辿り着くような気がしてならない。

最近、スローライフについて複数の人たちから話しを聞く機会があった。個人的には性に合わなかったのでこれまで関心の外に置いていたのだが、こう天災・人災が重なると、スローライフの意味する所は注視する必要があると思い始めている。と考えると、「旧暦カレンダー」も満更ではないな、というのが1月1日という一つの節目を迎えての感想である。


2004/12/08 <7>
講演後、小渡さんの回りには各国の人々が集まった(左から2人目)=10月22日、イタリア・トリノで 【奥原潔さん撮影】

ユニフォームのサムエ姿が一番落ち着くと言う=12月1日、粟国島・沖縄海塩研究所で
「師走」とはよく言ったもので、世の中、12月に入ってにわかに忙しい様相を帯びてきた。そういう中、およそ喧騒とはかけ離れた沖縄・粟国島で20年以上にわたり塩やにがりの研究・生産に携わっている小渡幸信さんに会ってきた。
いつもながら、“今様仙人”の雰囲気に溢れる小渡さんには実は11月にも東京でお会いしたのだが、やはり“粟国の小渡さん”は粟国島で会うのがもっとも様になる。その小渡さん、10月にイタリアで開催された「スローフード生産者世界会議」に日本の製塩業者の代表として招かれ、講演してきたという。「塩」についての話しが飛び交うのは当り前だが、塩と同じバランスのミネラルが馴染んでいる塩を提供しており、それはスローライフに大いに関わっているという話しは出席者の関心を集め、スピーチの後、質問が殺到したとのこと。そこで痛感したことは、「スローライフ→スローフードが私たち人類にいまこそ必要だということを再認識したこと」だと言う。
スローライフを研究していますと言うNGOが携帯電話を駆使して走り回っていることに何の抵抗もない人が多い中で、じっくりと熟成させる塩やにがりを人々、とりわけアトピーなど病弱の老若男女に提供したいという小渡さんの生き様を改めて学ぶ必要性を痛感して島を辞去した。時間を惜しむが故に、2時間のフェリーでなく、20分の飛行機で那覇へ戻るという言行不一致を“反省”しつつ………。



2004/11/16 <6>
先の台風がもたらした史上最高の雨量にも「第十堰」はびくともしなかったと報告する姫野さん(右から2人目)=11月11日、衆議院議員会館で

長旅の疲れにもかかわらず、足でまとめた「信濃川メッセージ」を発表した8人の児童たち=11月13日、豊島公会堂で

中1日おいて2つのシンポジウムを聞いた。前者は「八ッ場ダム」、「吉野側第十堰」、「川辺川ダム」の報告と“緑のダム”の意義についての識者の講演が行われた「もうダムはいらない」。後者は、新潟県の信濃川をよみがえらせる会と十日町市・川西町・中里村・津南町で構成する実行委員会の主催による“山手線と信濃水力発電”をテーマにした「信濃川水なしサミット/東京集会」であった。共通するキーワードは「環境」と「ダム」だった。そしてもう一つ、「天災による検証」だった。「不穏な発言」の批判を敢えて甘受しつつ言うと、今回の台風と地震は、いま随所で行われている公共事業の是非論への一つの検証結果を出してくれた。
吉野側第十堰について姫野雅義さんは「多分最高記録であろう今回の台風がもたらした降雨でも堰はびくともしなかた。下流の堤防が切れ、被害が出たので不謹慎だが、はからずも先人の知恵が立証された」と熱く話した。後者の主催者たちの地名は、中越地震の痛手をかなり重くこうむっている地域であり、その人たちが半日以上の時間をかけて上京しての訴えであったが、主催者を代表してあいさつした十日町市長の滝沢信一さんの「不適切な表現かもしれないが、地震のお陰で、いま信濃川は本来の姿を取り戻し、満々とした河の流れとなっている」というあいさつは衝撃的ですらあった。そして、首都圏に生活し、JR山手線の恩恵をこうむっている一人として、山手線を動かしている電力がすべて信濃川の水力発電のお陰であり、その代わり約90%もの水を発電のために取ってしまっているので信濃川が惨憺たる河になり、魚を初めとする生態系が壊滅的な影響を浮けている―という事実を知らされ、二度のショックを受け、朝から吹き始めた木枯らし1号に吹かれ、下を向いて帰宅したのである。
2つのシンポで講演のため新潟−東京をピストン移動した新潟大学教授の大熊孝さんの「ダムが全く不要とは言わない。しかし、河の変動する流量を巨額の税金を使って、常に一定にしなければならない必要性もどこにもないし、信濃川について言えば、せめて30%くらいの水は返して欲しい」との訴えは説得力があった。そして、何よりも十日町市立東小学校の5年生児童8人によるトツトツとした「信濃川メッセージ」は胸を打たれた。疲労からであろう、直前まで熟睡していたのを真横で見ていただけに。


2004/11/02 <5>
栗田さんの川柳から浮き彫りにした「江戸の下水道」の話は実にユニークだった
何次目かは定かでないが、どうやらいままた“江戸ブーム”のようだ。あるいは出版屋さんのサクボウかも知れないが、視点を変えて考えてみると、「江戸」は、毎日アクセクと生きている我々に、実に様々な示唆を与えてくれることが分り、どうせなら出版屋のサクボウに乗ってやれと開き直って、ついつい2、3冊の“江戸つながり本”を買ってしまった。そういう折、先頃、雨水市民の会という環境NPOが企画した公開セミナーで、栗田彰さんの「江戸の下水道」という話を聴く機会を得た。
栗田さんは東京都下水道局のOB。だから「下水道の話」はお手のものなのだが、それを数ある江戸の古川柳の中から“下水道つながり”のものをピックアップし、江戸の行政(?)から町民までがいかに「水」を、とりわけ「下水道」に細心の注意を払って、文字通り一滴の水もおろそかにしないで有効活用を図っていたかを浮き彫りにしてくれた講話だった。
携帯電話を数分おきにチャカチャカ使いながら、「スローライフを!」なんて言うなかれ。「江戸」を少しでも勉強すると、自ずとスローライフとは何かが分かろうというもの。いずれ栗田さんにインタビューしたいが、それまで待てないので、当日紹介された中で思わず唸ってしまった一句を披露しよう。
      名の高い 下女は 流しの口を吸い
何を表現しているか知りたい向きは、栗田さんの名著『川柳・江戸下水』(下水文化叢書)をご覧あれ。

2004/10/19 <4>
大臣(手前・後向き左から3人目)が退席してからの環境省側の対応は空しいとしか言い様のないものだった
関西水俣病訴訟の最高裁判決の前後の動きを取材し、「国・県の責任を認めた」と書かれた垂れ幕を見た瞬間は鳥肌が立った。2004年10月15日は永く記憶に残る日になるだろう。そして、傍聴したり待機していた多くの有識者はこぞって「画期的な判決」とか「金字塔を打ち立てた」などの高い評価を下すコメントを群がる報道陣に発した。しかし、その2時間後の環境大臣との面談・交渉ではまたまた中央行政のしたたかさというか姑息な役人根性を目の当たりにして文字通り頭に来た。
最高責任者の大臣が原告団に促されたとは言え、深く頭を下げ“謝罪”し、公務のため(原告団との面談は公務ではないらしい)30分(当初予定は20分だった)で退席した後のことだ。残った部長以下、環境省の面々は頑なに「認定基準の見直しは考えていない」と言い張ったのだ。最高裁判所が「国・県の責任」を明確にし、法的に固まった直後であるのに、夜9時過ぎまでの3時間半、彼らの答弁はノラリクラリで終始した。切り捨てられた8人の原告の一人の訴えも、この訴訟には直接関わっていないが、水俣からかけつけた胎児性患者の身体の奥から絞り出す訴えにもただ目を伏せて沈黙を守るだけ。「立場上仕方がない」との“同情論”もあったが、人間のあり方を改めて考えさせられた1日であった。


2004/09/28 <3> 小泉第2次改造内閣がスタートした。自らは“郵政民営化実現内閣”と名付けているが、自民党三役と改造内閣の顔触れを見て、ハタと悪い予感がし始めた。郵政改革推進とともに、もしかしたら“国営諫早干拓事業推進内閣”ではあるまいな?―ということだ。新幹事長の農相時代の言動、地元選出で推進派の急先鋒の新総務会長の二人にはかなりの“警戒水域”と認識し、ウォッチが必要だ。
と同時に、小泉首相を筆頭に、いま、様々な場で「官の説明責任」が問われている。その最たるところが「農林水産省」という役所であり、その出先機関の「九州農政局」の説明不足ははなはだしい。もちろん、説明不足は「官」だけでないが、つまるところ現代日本人のコミュニケーション不足に行き着く気がしてきた。幼児からの親子の対話、就学時の教師と生徒との対話、社会に出てからの同僚や上司との対話など各年令層での対話が決定的に不足していることに起因してはいまいか?                            
実は、我が方もそんな他人事で済まされない出来事が起こった。以下に説明責任とお詫びをしたい。
=お詫び=
【環境びと】に登場予告しましたアイリーン・美緒子・スミスさんは、インタビューの文字表現をめぐって折り合いがつきませんでしたので掲載を取り止めます。ご了承ください。

2004/09/01 <2> 8月初め、福岡から羽田経由で札幌へ移動した。疲労と冷房−暑さの繰り返しのためか、十数年ぶりに扁桃腺を腫らしてしまった。駅構内にある鉄道警察隊に駆け込み事情を説明すると、職業別電話帳で調べてくれ、駅前のH銀行ビルに「7時までやってる耳鼻咽喉科がある」と教えられ、飛び込んだのが6時40分。しかし受付のお嬢さんの第一声は「受付は6時半まで」とか。旅行者である事、かなり苦しい状況を訴えると、中に入っていった2分後、すまなそうに「きょうは学会に先生がお出かけになるので……」との説明。住所を書いた紙片を渡され、「夜間急病センターがありますので」とこと。行く気は萎えホテルに戻ったものの、結局翌朝タクシーで行き、応急措置をしてもらったが、いまさら“医は仁術なり”などとは言わない。せめて“学会より急患”くらいはお願いしたい。札幌と言えば有数の観光都市。しかも駅前の一等地に開業している“社会的責任”もあるのでは?―と思ったが言い過ぎだろうか?

2004/08/15 <1> 8月15日。いま、日本という国で生息している者にとって忘れてはならない日に、いささか奇妙な名称のホームページが発信した。98年1月、沖縄から発信した《さうすウェーブ》に親しんでいただいた方々には「しばらくでした」と申し上げ、今回、縁あって出会えたみなさんには「はじめまして、どうぞよろしく」とごあいさつしたい。〈5ヵ条宣言〉にうたっているように、この≪環っ波≫は、“環ラス”というキャラクターを通じて事々を旗色鮮明にする。その結果、時には非難ごうごう、時には罵詈雑言も覚悟のうえ。そう簡単に「環(輪)ができるとも思っていない。環境破壊という荒波たけり狂うこの世に、一石を投じられればよしとしたい。いまはそう考えている。
(C)2004. ≪環っ波≫ All rights reserved