ホーム >> ブック >> ブックリスト2 >> 読書感想 >> No.121〜130
「フランスに伝わるおはなし」
とあります。
最初の、クーニーさんの「この本について」
のページに、そのことが載っています。
「聖母マリアの曲芸師」
といわれるお話をもとに、クーニーさんが絵本にしました。
孤児のバーナビーは、いまは、ひとりで、曲芸をして、なんとか食べています。でも冬が近づいて、お客も減りました。修道院で住まわせてもらえることになりましたが…。
バーナビーができるたったひとつのこと。バーナビーはささげます。
「これはほかの誰にもできないお祈りなのですから」
(p.46)
似た絵本で、トミー・デ・パオラの『神の道化師』というのがあるようです。
(参考:[133]『神の道化師』を後日読む。)
「3人のおばさん」シリーズ。([124]『みどりおばさん、ちゃいろおばさん、むらさきおばさん』のシリーズ。)
ちゃいろおばさんのたんじょうびのため、みどりおばさん、むらさきおばさん、あおおじさんはプレゼントを考えます。
あおおじさんがおもしろい。
きびしいおじさんでもあるのに、むじゃきでもあります。シーツをまきつけて秋の妖精の扮装をしたりします。
かんちがいがかさなりあって、大騒動です。
おおきな絵本でした。
絵は、海の生き物たちの雰囲気がよくでていて、プチキューも小さくてかわいいと思いました。
言葉は詩のようにきれいですが、話は、かなしかった…。
これはもとは、朗読のために書かれた童話(1948年)だそうで、ラジオで朗読されたそうです。
「いったり きたり ダボデン ダボデン
おんなじことの くりかえし」
や、
「トキトキの とがった やつ」
というような言葉が、いいな。
たつのおとしごとの出会いのところが好き。たつのおとしごって、そんな顔しているような気がする。
「なんだか おっかないような やさしいような なつかしいような
へんな かおしたのが ウィンクしています」
「たつのおとしごちゃん」
なんて、ちゃん をつけるところも好きになりました。
イギリスの、600年ごろの戦闘を歌った長編詩「ゴドディン」をもとにして、サトクリフが書き上げたお話です。
たたかいははげしく、たった一人しか帰ってこなかったことを、王の詩人アネイリンは歌っています。
サクソンと戦うために組んだ、同胞隊の三百人の戦士と、その従者たち。
一番印象に残ったのは、サクソン軍にむかっていく最後の突撃のところ。主人公が、自分を外から見ているようなその感覚と、戦士たちの姿。
訳で、ひとつちょっとひっかかったのは、フードや、鎖頭巾を「おろす」というのが、前におろして顔を見えなくするのと、後ろにあげて顔が見えるようにするのと、どっちでも使われているような…?気がしたんですけど…。
アイルランドの英雄伝説、フィン・マックールとフィアンナ騎士団の物語を、サトクリフが再話しました。
アイルランドのオシーン伝説というのがこれのことかな…? これでは「アシーン」という名前になっているけど。
また、[47]『オシァン』を読んだ、そのあたりの関係の興味もあって、このお話を知りたかったです。
武勇、枯れた味わいの『オシァン』とはまた違って、アイルランドの不思議の世界、妖精物語ふうの雰囲気をもっているお話というように思っていたから、不思議だったりぶきみなところもある話だろうかという気持ちもあった。そういう部分もあるけれど、不思議さとともに、勇ましい描写もあり、ひきこまれました。
老練で、独眼のゴル・マックモーナがいい感じ。太っちょで皮肉屋のコナン・マウルも面白い。
一番好きだった話は、『ジラ・ダカーと醜い牝馬』。海の下の国、ティル・ファ・トンでの戦いと、ユーモアの笑いもあり。
『ディアミッドとグラーニア』の話は、脇明子さんの[117]『魔法ファンタジーの世界』でも取り上げられて考察があったっけ。
浦島太郎のような話もあるときいていたのを、読む事ができてよかったです。
ところどころ、描写に、サトクリフ独特の風味を感じました。
ファージョンは、このあいだ、絵本の[119]『エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする』を読みましたが、本でお話を読んだのは、最初、かもしれない。
町かどのポストのところのミカンばこにすわっている、としをとったジム。8歳のデリーは、ジムの話を聞きます。ジムは、昔は船乗りだったというのです。ゆり木馬号でポッツ船長たちと体験したことを語ります。
ほんとうか、ほんとでないか、こんな話ほんとじゃないでしょ、きっとジムの作り話かも、とも思いながら、でも、ほんとかも…? なんて。おかしいような、ちょっぴり胸がきゅんとするような。
ひきこまれて読んでいました。
九番目の波の話が、気がきいているようでよかった。なでてもらいたがる大海へびの話、なんだかかわいい。
デリーのパパや、とおりの人たち、みんなさりげなくて、あったかい。
絵はエドワード・アーディゾーニ。『エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする』を読んだとき、絵の人の雰囲気みて、アーディゾーニ思い出すような気がした、と書いたけど、いまみてみると、アーディゾーニは、もう少し、黒々と、細かく書き込むような絵だった。(白黒、というのもあるけど…)
でもファージョンにアーディゾーニの絵の本がある、ということは覚えてなかったけれど、言われてみればあったんだ。それがどこかで頭の隅にあったのかもしれなくて、似ているとおもったのかも。
異なるけど、どこか通じるところあるような気もやはりしました。
まちの子どもたちは、いつもみどりの服、ちゃいろの服、むらさきの服を着ているおばさんたちを、みどりおばさん、ちゃいろおばさん、むらさきおばさん、と呼んでいます。
むらさきおばさんは、おばさんというほどのお歳でないようにもみえるけど…。
「おばさん」、という言葉から想像していたイメージとちがってわりと上品なひとたちだった。
3人ともそれぞれ、の性格というかあり方、で、絵もいい感じ。
(でも資産がないと、こういう暮らしできないかも…)
てまわしオルガンの男はにくにくしげで、ベスコフは、にくにくしげな姿も描くのうまいなーと、思ったり。
ちゃいろおばさんは泣くし、むらさきおばさんは川を渡れない。なんか、しっかりしているおばさんたちなのか、これくらいの時代のご婦人というのは、こんなふうにはかなげな面もあるものなのか。
ちょっとツンとしている感じのむらさきおばさん、好きなんだけど、こんな浅い小川も渡れないものなんだ…ドレスを着ていると。(でもみどりおばさんははしごをのぼっていた…)
でもお菓子をくれるほんわかしたちゃいろおばさんは誰でも好きになるだろうけど、眼鏡越しにきびしい視線を向けるみどりおばさんも、きちんとしたむらさきおばさんも、となりのあおおじさんも、大好き、と思わせられました。
前作の、タイトルの「お姫さま」は、小さいお姫さまのことだろうけど、今度の「お姫さま」はもしかして、大きいおばあさまのほうのことだろうか?
(お、と思ったら、訳タイトルは『カーディと〜』だけど、原タイトルは、『THE PRINCESS AND CURDIE』なので、プリンセスが先にきているということは、どうも大きいおばあさまのような気がする。そう考えてみれば、前作の原タイトル『THE PRINCESS AND THE GOBLIN』のプリンセスも、おばあさまといえるような気もするけど…どうでしょう。でも自分の中ではやはり前作は、小さいお姫さまが活躍したというのは感じます。)
カーディ、前はまだ子どもなのに、ずいぶんと、心も、体力や機転、勇気や賢さ、非の打ちどころなしだったけれど、こんどはもう少しで、平凡になってしまうところだった。そこはでもちゃんと、立派なカーディになって活躍してくれるのでした。
壮麗に輝く洞窟。岩を土台とした、城壁や塔のある、高い城。酒蔵にはお酒を盗み飲みする執事がいて。酒蔵の下は水が流れていて。立派な王さまは、部下の策略によって心も体も蝕まれてしまっている。
こういうところ、『ホビットの冒険』や『指輪物語』(トールキン)にも、似た場面あったな、と思っていました。
マクドナルドの作風は、とても独特な感じです。あのおばあさまの不思議さ。
前作は、王さまも立派だし、国民もきっと良い人が多いのだろうと思わせられたけど、今度は、民たち、いったいどうしたんでしょう? 最後は、かなりショックを感じました。
透明人間。どんな話か、はじめて知った。
うしろの、三村美衣さんの解説を読んでいますと、次のような言葉がありました。
「たとえばハリー・ポッターの透明マントや、『指輪物語』の魔法の指輪、古くはジークフリートのかくれ頭巾や、天狗のかくれみの。神話や伝承から現代のファンタジーまで、世界中のさまざまな物語にすがたを見えなくする魔法のアイテムが登場します。たしかに竜や強敵と闘わなくてはならないときや、秘密裏に行動しなくてはならないとき、透明化くらい役に立つものはありません。そして、この魔法のアイテムにはじめて科学的な説明をあたえ、この世界に存在しうるものとして描いたのが、本書『透明人間』なのです。」
(p.287-288)
ファンタジーや伝承とは関係ないところで、いまからSFを読むんだという気持ちでいたから、こういう言葉がでてきてびっくりした。
(アイテム、と呼ぶのは、脇明子さんはお好きではないよう([117]『魔法ファンタジーの世界』)でしたが。)
ファンタジーでの見えなくなる不思議と、透明人間の透明と、あまり共通する感覚持っていなくて、先に言ったようにそういうつもりで読んだのじゃないけれど、そういわれてみれば、同じ透明化。こういう科学ものでテーマになるんですね。
ウェルズの本を読んでいると、透明化だって、どうにかやれば科学的にできそうな気も、どこかしてきます。
光の屈折とかそういうことはわからない自分だけど、<ガラスの器を水につけるとどう見えるか>ということでは、<見えなく(見えにくく)なる!>と思ったことがあった。ほんとは無理なことだけど、ウェルズの小説は、裏づけというか、できるかもしれない、という気持ちにさせられます。
透明人間は、服をきないと、寒い。体に雪が積もる。はだしの足は怪我する。[121]『黒馬物語』でいろんな馬車があるのを読んだばかりですがこちらでも馬車がでてきます。透明人間は、見えないので、ひかれそうになるんです。服を着れば、怪しまれるし、食べ物もなかなか食べられない。まったく、不便なものです。
先に、文園社から出ている、ダイジェスト版を読んだ。(『黒馬物語 BLACK BEAUTY』 作:アンナ・シューエル 画:ヴィクター・アンブラス 訳:阿部和江) そちらは絵本みたいにきれいな体裁で、絵と写真とで説明がたくさんされていて、間に、その時代のロンドンとか領地の建物の説明とかがあり、図鑑みたいな感覚で楽しめるかもしれない。
その時代は、馬は人や荷物を運んだり、労働力とされた時代でした。時にはひどい扱いも受け、多くの馬が苦しみました。いまでは多くの子どもや大人が読む本となりましたが、作者のアンナ・シューエルは、馬を扱う人たちのためにこの物語を書いたのだそうです。1877年の初版本には、
「ブラック・ビューティとその仲間たち、馬による自叙伝、馬語からの翻訳、アンナ・シューエル」(p.6)
と書かれているそうです。馬の目線から、気持ちから描き、その言葉を「翻訳」したことになっているこの物語。
岩波少年文庫に、完訳(?)というか長いのがあると教えていただきましたので、読んでみました。(旧の岩波少年文庫にて)
小馬のメリーレッグズは、ダイジェストで読んだときは牝馬だと思いこんでいた。こちらでは話し方をみるとどうも牡馬みたい。育ちのいいブラック・ビューティと、カンの強いジンジャー。最初はいじわるに思えたジンジャーはいままであまり良い境遇になく、すっかり疑い深くなっているが仕事をやろうとする気持ちは強い。
ジォン・マンリーといういい御者やご主人に恵まれたのもつかの間、ブラック・ビューティ、ジンジャー、メリーレックズもそれぞれ、いろいろな人のところに連れられて、それぞれの道を進む。
まだ馬のことに慣れていないジォー・グリーンの失敗でブラック・ビューティが病気になったときのジォン・マンリーの怒りの言葉、そこの翻訳はダイジェスト版のほうが好きなイメージだったかも。普段は優しいジォンは、逆上して怒鳴る。「知らないばかりに」
ということが元で、大切なブラック・ビューティが死ぬかも知れないということが堪えられなかったのです。
辻馬車稼業のジェリー・バーカーのところで働いていた時。「ぼろサム」が疲れた馬を連れているのを見て、グランド親方は馬がひどい目にあわないようにという配慮からではあるけれど、サムにきついことを言う。そのときのサムの、切々と、暮らしのきつさ、紳士方からうける疑いや仕打ちなどを述べる場面は、胸をうって、じんと目がうるむくらいだった。たぶんサムは、ジェリーのような、貧しいけれど立派な心の持ち主じゃない。でも、ほんとに、どんなにがんばっても苦しい暮らしぶりは変わらず、つらかったんだろう。
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