ホーム >> ブック >> ブックリスト2 >> 読書感想 >> No.41〜50
向井元子さんの[48]『虹の町の案内板』で知った、本。
金髪の女の子、Goldilocksがでてくる「三匹のクマ」の本ということで、次にあげる[51]『金のがちょうのほん』とともに、紹介されていた。
この絵本では「おんなのこ」とかいてあるだけで、絵も金髪じゃないようにみえる。どうも茶色い髪のようだ。(ネッカチーフをかぶっている)
おとうさんぐまは「ミハイル・イワノビッチ」、おかあさんぐまは「ナスターシャ・ペトローブナ」、くまのこは「ミシュートカ」という名前がついている。トルストイが書いたということは、イギリスの民話っていうわけじゃないのかな?
おんなのこが、くまの家にいって、スープを飲み、いすにすわってこわし、ベッドに眠ってしまうという話。けっこうはた迷惑な女の子だ。
絵はそぼくな感じ。
「だれだ、わたしの おわんの すーぷを のんだのは」
とおおきなくまが言うところは、字もおおきくて、こぐまが言うところは字が小さいのが面白い。
補足:
ロシアの名前って苗字が家族で違うのだろうか…みたいに感じていた。あとで少しロシアの名前について調べてみた。ロシアの名前には、名・父称・姓というのがあるらしく、このクマたちの名前でいうと、前の二つになるんだと思います。しかも男と女でビッチとブナと語尾が違う。おとうさんぐまのお父さんがイワンだからイワノビッチで、おかあさんぐまはペトロ(?)の娘だからペトローブナになるんじゃないかな(きちんと調べたわけではないので、間違ってるかも)姓はここでは出てないから、家族で名前が違うように見えたんですね。
(追記)
(参考:ジェイコブズ [75]『ジャックと豆のつる イギリス民話選』より「三びきのくまのはなし」)
(追記)
(参考:瀬田貞二[242]『絵本論』の、三びきのくまのこと)
サトクリフの作品は、いつももっと昔の物語が多いんだけど、これは16世紀のおはなしです(これでも古いか)。そして、9歳の女の子が主人公、というのも、今までと変わってる。
古代の戦闘などの物語とはぜんぜんちがって、日常の、柔らかな日々を追っている、という感じ。
なんとなくだけど、帆船やその時代の冒険、そういうの好きだなーと思っていたから、読んでみたら、帆船が出てきたからどきどきした。
男の子だったら、船に乗れるのに、海へ出て行けるのに、と、海への憧れを抱く少女タムシンは、孤児となったために、北デヴォンの港町ビディフォドから、ロンドンのおじさんの家へ。そこで寂しさをつのらせながら、自分の気持ちを理解してくれる少年と出会います。
タムシンの寂しさが伝わってくるけど、この新しい家族、いい人たちなんですよね。それでも本当には仲間に入っていけない、という気持ちはわかるのですが、そのわりに、溶け込んでるな、と思うような描写もあったり、ビディフォドから訪れるマーティンおじさんなんか、すごくタムシンのこと可愛がってる。そこにちょっと矛盾を感じるけど。でも、作者は、孤独とかそういう気持ちををよくわかってる人だと思うから。じゃなかったら、[18]『ともしびをかかげて』とか書けなかったと思うし。
少年ピアズはみんなからぼんやり者だと思われてて、でもタムシンは彼の魅力に気がついている。だから私としては、彼の<ぼんやり>の誤解のまんまでいてほしかったのに。ある出来事から、皆の、彼を見る目が変わるけど じゃあなんで彼はぼんやりだと思われつづけていたんだろう?
絵は、[1]『アルフレッド王の勝利』また、サトクリフの[5]『第九軍団のワシ』の挿画のC.ウォルター・ホッジズ。
この本の装丁、表の紙が藍色で、表紙裏が赤紫のような色。これって、少女タムシンの外套の色を表してるじゃないかな、と思った。外套の裏はオレンジだけど。
『イルカの家』(原題は「鎧師の家」)というタイトルを聞いて、イルカっていうところに、ローマン・ブリテンシリーズを読んでいるとドキっとします。「イルカ」に、サトクリフは、どんな愛着をもっていたのでしょう? また、訳語が、「いるか」や「海豚」じゃないんですよね。岩波のサトクリフの訳は猪熊葉子さんですが、猪熊さんは「イルカ」とカタカナでしたし、「オオカミ」なども。独特なもの感じた。そういうの、別の訳者さんだけど、ある意味お手本というか見習っている気持ち持っておられるのかな、と感じた。(ちがうかもしれませんが。)
猪熊さんの訳した本は(もともと内容が難しいのか、訳がそうなのか・・?)読むのけっこう苦労した。でも読んでいるとやはり愛着がわくから、こちらも耳慣れた「イルカ」としてくれて、嬉しかった。
※ 中公文庫で『大人にも子供にもおもしろい本』としてでている本です。元の本のほうを読みましたので、どこか改訂されているところもあるかもしれません。
楽しい本です。内容紹介だけの味気ない本じゃないし、かといって難しすぎる研究の本でもない。
向井さんの文章、読みやすいし、話のもっていきかたもうまく、楽しいです。ここに載っている本、ゆっくり読んでみたいものですね。
● 向井さんは猫がすきなんでしょうね。[44]『すてきな絵本 たのしい童話』のほうでも、猫の本、いくつか取り上げられていた。
●昔話の残酷性については、いくつか読んだ児童文学の評論でも、取り上げられていたように記憶している。
●向井さんは<ちびっこ>という言葉はきらいで、神沢利子さんの『ちびっこカムのぼうけん』を食わず嫌いで避けていた、という話のところで、思い出した。他の本でどなたかも、<ちびっこ広場>という場合などの<ちびっこ>という言葉がきらいだ、と書いていたのを。だが、『ちびっこカムのぼうけん』の場合の<ちびっこ>は、あてはまった言い方だ、みたいな事を書いていたのを。
●「ミステリーの母」の章は面白かった。アガサ・クリスティには、マザー・グースの歌からとったタイトルやモチーフのある小説があると、鷲津名都江さんも言っていたけれど、ほかの人のミステリーの本でも、童話や昔話から取ったものあるんだ。この章で、金髪娘のGoldilocks(キンポウゲ)ちゃんのことが出ていたがそこを読んで、あっ!と驚いた。そういう昔話があることをはじめて知ったというのも、発見。そしてなにより、『指輪物語』にこの名前がでてくる! なにか関係があるのでしょうか?*
●『スイスのロビンソン』って、日本語訳もでているんだ。絶版か・・残念。
●あれ、チャールズ・キーピングって、サトクリフの本にいくつかさし絵描いている人かな。絵本もあるんだ。
* 自分で感じたことですので、実はぜんぜん違うかもしれませんけど、とりあえず書いてみます。
『指輪物語』に、 <金捲毛嬢や>と書いて、「ゴールディロック」と振り仮名があるんですね。じゃあ、これは、その昔話のキンポウゲちゃんの事が前提になっているのだろうか? 英語の辞書でも、金髪の人、植物のこと、昔話の主人公、と3つあって、いわば慣用句みたいになっている言葉なのだろうか。だから英語圏の人は、パっとわかるのかもしれない。あの昔話のことだ、って。 そこを、日本語訳では漢字と振り仮名で表現しているのかもしれない・・。 それに、「エラノール」もキンポウゲも金色の花ですものね。そういう事も関係あるのかな。でもキンポウゲって、普通はbuttercupとかいう? 種類が違うのかな。
この本、読もうと思っていながら、でも、サトクリフの[46]『夜明けの風』を先に読んでいた。すると、主人公オウェインの兄の名前が「オシアン」だった。それで、読もう!という気持ちが出た。
難しかった。でもとても気に入った。
これはスコットランドに伝わる話ということで、3世紀のスコットランドのモールヴェンの首領、フィン王(またはフィンガル王)*1と息子オシァンの一族の話。ロホラン(スカンディナビア)やエーリン(アイルランド)まで行って戦います。
サトクリフは登場人物の名前をここからとったんだろうか? アイルランドの伝説にも、「フィン王」と「オシーン」がでてくるのがあるらしい。アイルランドのフィン王のほうは、サトクリフは再話をしているようなので、そちらの興味からだろうか。
この物語、シェイマス・マクヴーリッヒ(英語名ジェイムズ・マクファソン)という人が、紹介したのがはじめ。あとがきによりますと、一時ブームになって、ナポレオンやゲーテも傾倒していたと。でも、一方では論争も起こって、フィン王一族は存在しなかったとか、オシァンの古歌など実在しない、マクファソンの偽作だ、とか、歌はあるが、アイルランドには伝わっててもスコットランドにはない、とかいろいろと言われたらしい。(でもアイルランドのものとは、話の内容が違うみたい。)
まじめな意見もありましたが、スコットランドの政治的な背景もからんでいたり偏見もあったとか。詳しくははぶきますが。今でも決着はついていないのだろうか? 偽作、あるいは「創作」にあたるのだろうか?
フィンガル王やオシァン、勇士たち、いろんな人物がでてきて、男たちはみな、盾の盛上げ飾りをたたいては、剣をひらめかせて戦い、娘たちは美しく、武具をつけて、慕う男性を追いかけていったりする。歌人は歌をうたう。倒れた勇士は石積みに葬られ、娘たちは涙をながす。風が吹きすぎていくような、無常感もあるような気がする。
男の人も涙をながすし、最期のときは妻や娘のことを考えたり、女性に優しいんですね。勇壮だけど、汚い手口は嫌い、気持ちが優しくて、素朴な面があるように思いました。
慕う男性を追って男装してきた女性に向かい、(女性と気づかずに)泣いているのを見て、
「武器はここへ置いてゆけ」
「弱弱しい奴め」
と叱り付けるのだが、女性と気づくと自分も涙を流し、
「天晴れだ、耀く娘よ」
なんていう。また、王が若い初陣の息子を気遣ったりもする。息子のほうも気持ちが高ぶったり、ほまれを得たい、王に認められたい、という気持ちからでしょうか、王の様子を窺ったり涙を流して悲しんだりアザミを槍でたたいたり、王を横目でみたりしているの、なんだか、ちらっと見つめている様子が思い浮かんで、思わず「素直で、かわいいなぁ・・」と感じました。親子の情や、いろんな感情が万国・時代共通というかよくわかるし、読んでいて共感できました。
美しい場面だなあと思ったのは、盾の盛り上げ飾り(ってどんなんだろう?)に描かれた、七つの星について説明の場面。盾の真ん中に描かれた星トウン・ヘーナ星は、かつて船で海を行く勇士ラール・ホウンを照らしたという。
これは個人的に感じて、どうだろうと思っていることなのですが、私は、『指輪物語』を書いたJ.R.R.トールキンに興味あるんですけど、トールキンは古い伝説などを研究していますよね? この『オシァン』はどうなのかなぁ・・と。偽作とか贋作とか言われているから、無視だったのでしょうか。アイルランドのオシーン伝説のほうはどうだろう。
で、思ったんです。こじつけかもしれないけど。
状況は違うけど、かぶとがはずれたり武具を取ったりすると実は女性! ということ*1。 王の息子(や孫)が王より先に死ぬこと。これって、なんか『指輪物語』に似てる・・? そう考えると、七つの星など、関係ありそうな気もしてきたけど・・。
オシァンに限らず伝説ってこういうモチーフがあるのでしょうか。
(参考:ダイアリーの関連記述)
(2006年7月追記)
*1 (参考:[117]『魔法ファンタジーの世界』の中で、脇明子さんが、『オシァン』で男装して従軍する女性と『指輪物語』のことを書いていた。)
(2009年1月追記)
*2 (参考:ブログの関連記事 「N響アワー「メンデルスゾーンのスコットランド紀行」を聴いて。オシァンを思う。」 序曲「フィンガルの洞くつ」という曲がある。)
サトクリフの、ローマン・ブリテンシリーズの「掉尾を飾る」
作品ということなんだけど、岩波の『辺境のオオカミ』もローマン・ブリテン4部の最終編とある。『辺境のオオカミ』の具体的な筋は覚えてないけど、どうなんだろう。ローマの支配時代のブリテンの話ではあったと思うけど
[5]『第九軍団のワシ』・[11]『銀の枝』・[18]『ともしびをかかげて』を3つとすると、『ともしびをかかげて』の後の時代にあたるのは話の筋の流れとしては、この『夜明けの風』かな。
補足:
(あとから思ったのは、あれとこれがローマン・ブリテンシリーズ、とかいうわけじゃなくて、ローマン・ブリテンを題材に扱った作品がいくつかあって、それを邦訳する段階で、いろんな見方ができた、ということなのかな。)
『夜明けの風』は、3作品に共通する一族の末裔の少年(青年)の物語。 子孫にあたる、少年オウェインが主人公で、代々つたわってきた指輪もここで重要な役割をもっている。
アルトスが死んで100年くらい、ということだが、アルトスって、『ともしびをかかげて』でアンブロシウスの甥(?)だったと思う。『ともしびをかかげて』のあとがきか注釈ではアンブロシウスがアーサー王の原型と書かれていたように覚えているんだけど『夜明けの風』ではアルトスがアーサー王の原型、と訳注として書かれている。
どちらにしても、『ともしびをかかげて』では、アルトスははじめはまだ小さい子どもだったのが思い出されて時代の流れを思わせる。
岩波の本より版型が少し小さいのというのもあるのかぶあつい。少し残念だったのは、ところどころ、文字打ち間違いか誤字や、抜けているように思われる文字がある。(でも今までの経験から、この出版社だけに限らないとは思っています。)
主人公のオウェインは、「金髪王」と呼ばれるキンダイランの軍に参加していた。アクエ・スリス(現バース)近く、サクソン族のツェアウリン王ひきいる軍との戦いで壊滅されられたキンダイラン軍。オウェインは父も兄も失います。
これはほんの出だしです。とても長い話で、重要なところだな、と思っても あとから考えるとまだまだ出だしに近い。
主人公の少年と犬、というところが、また? と一瞬思った。それから、以前に読んだサトクリフ作品(特にローマン・ブリテンシリーズ以外)で抱いていた思い、
−ひどい苦難があるものの、助けや友情が得られるのが都合良く思われる−
という感じになるのかと思った。でも助けをくれる人との出会いもあるけれどそれは最初のほうで、あとでどうなるかわからなかったから、そういう感じをそれほど受けずにすんだ。
ウィドレスおじさん、はおじいさんだから、おじさん、という感じはしなくて、私の心の中ではウィドレスじいさん、というイメージだが、原文はどうなんだろう。
バディール・セドリクソンが好き。皮肉なやつではあるけど。オウェインは「憎んでいた」と言っていてもそういう感じがあまりしない。ブリニが憎んでいたのは伝わるし、ドッグのことで、オウェインが彼を憎んでいるのは当たり前だが、深く伝わってこない気がする。それに、バディールとはつながり合う思いもあっただろう。そのあたり、憎んでいるけどひかれるのか、ただ憎んでいるのか。また、ベオルンウルフがバディールを嫌っていた、というのがよく分からない。バディールをあんなに憎まれる者とするなら、白馬の場面の優しさは、どうしてだろう。
灯された<ともしび>はいまやもう、振り返ればかすかに見えるだけ。消えようとしている時代でした。オウェインも、家族や、自分の民族や、すべてを失って、希望のない時を過ごします。でも彼が、意識的にしろ無意識にしろ起こした行動や生きてきたことが、新しい時代へとつながっていきます。物語だから、<つくり事>だから、そうなるんだけど・・・。でもサトクリフの作品を読んでいると、ほとんど誰も気づかない見ていないと思えるところで、でも実は<報われている><無駄ではない>生、みたいなことを感じるのです。そんな、もがいている人間たちがたくさんいて、またひとりひとりいて、時代ができていくのでしょう。
グリーン・ノウ物語第4弾。
最初は熱帯の情景からはじまって、そこのところは少々長く感じられて。
この本では、3で出てきたピン少年が、またグリーン・ノウを訪れます。
なんだかもやもやします。最後はあれで良かったのか・・・? そして「誤解」については。
ブレアー少佐はピンがハンノーに救われたのを知らないままだったということがあると思う。ある部分は誤解がとけるとは思うけど、多くのことは、そのままだろう。またハンノーにはハンノーの事情があった。それも誰にも知られないままだ。
理由があったとはいえ、盗みをしたり嘘をついたりして、読んでいるこちらがどきどきした。うしろめたいということは書かれているけど、いっこうにやめようとしないし。(森もハンノーの行動のために荒れただろう。)おばあちゃんは、少し気づきかけてて、ピンを信じているということになっているけど、違和感かんじる。それでいいのかな。
ゴリラやオランウータンはとても威厳があったり、立派な存在で、チンパンジーはそうでないという言い方をされるのは、なぜだろう。
そして、またいい人と悪い人の違いについて気になる。まわりの大人たちは、ゴリラのことなど理解できない見当違いな考えの持ち主に描かれている。ニュースになると群がってくる人たちは野次馬だ。でもおばあちゃんのところに来るお客さんは、話がわかる。
鉄砲を持ってハンノーの家族を撃ったブレアー少佐はさいごまで悪いほう。でも、おなじようにジャングルにいたもう一人の人には、ハンノーは憎しみもないようだ。その違いは?
ゴリラや、ジャングルの魅力がわかり、グリーン・ノウの魅力がわかる、ピンやおばあちゃんや子どもたちだけが良くて、わからない人は、だめなのかな。
それを思うとき、自分は、なんだかおばあちゃんや登場人物やこの物語群に反発心をかんじてしまう。
中国の自然や、ピンのこと、良く描かれている。でも、なんだか、やっぱり西洋の人の見る、感じ方、っていうか、なんだか西洋の人の作った映画に出てくるアジア人など、どこかちがうなって感じるような、そんな思いも。いいんだけど、イギリスやアメリカの本訳本たくさん出ていて、読む機会多いし、自分も好き。でもそればっかりじゃ偏るかもしれない、って思いもする。
著者は、地域の児童図書館「かしの木文庫」の世話人をしてきたかただそうです。
子どもの本147点が、著者の定めるテーマごとにずらりと紹介されています。あれも読みたいな、これも読みたいな、と心はずみます。
絵本、童話、とタイトルがついていますが、小さな子ども向けの絵本以外にも、もう少し年長向けと思える本も載っています。『ミス・ビアンカ』シリーズも『ホビットの冒険』も『ライオンと魔女』も載っていました。
『ライオンと魔女』の紹介の中で書かれている、シリーズものを読もうとするとき、入り口を間違えると入りづらく読むのに苦労する経験のこと。
『指輪物語』を読もうとしたとき苦労したが、息子さんはすいすい読んでいる。それは『ホビットの冒険』を読んでいたから、という話から、サトクリフの作品の、著者にとっての入り口は『王のしるし』だとか。
『王のしるし』はまだわたし、読んでない。そうだったのか・・・。どんな話だろう。入り口的な要素があるのだろうか。 私の入り口は『辺境のオオカミ』だったけど、内容はだいぶ忘れた(汗)。
(参考:[98]『王のしるし』を後日読む。)
小学生の子どもに読書の楽しさを知ってもらう入り口として「ナルニア国物語」が挙げられているんです。シリーズ7冊中どれから読んでもいいけど、やはり、ということで『ライオンと魔女』が。その<入り口>は・・・お読みの皆さんはもう、おわかりですよね。ここの記述、とくに気が利いているなと思ったんですよね。
といっても、わたしもシリーズの全部は読んでないんですよ。映画もあるし、読んでみたいですね。
ほるぷ出版の、クラシック絵本シリーズのひとつです。(今は絶版かも)
リアという人は、リメリックという、五行韻詩の名人。ヴィクトリア女王の絵の先生でもあったそうです。
最初のページの、ひげ(しかも巨大な)の上に鶏やらふくろうやらがとまっている絵や、次の、大きな目をぱっちりひらいた娘さんの絵からして、すごいインパクトです。
ヴィクトリア時代にこんなぶっとんだ絵本があったとは・・・。
柳瀬尚紀さんの訳も、意味の訳だけじゃなく韻をふんでいるんです。
[41]『グリーン・ノウの川』で、ピン少年の名前を見て、『あひるのピン』(?) というような絵本があるはず、と思い出した。
その絵本が見当たらないので、同じ作者のこれを読んでみることにしました。
瀬田貞二さんの『幼い子の文学』(参考:『幼い子の文学』(評論の項へ))でなど、タイトルは聞いていた。なぜかもっと大きい絵本だと思いこんでいたら、わりと小ぶりだった。
アンガスというスコッチテリア。好奇心でいっぱいです。かきねの向こうの騒がしい声が気になります。そして・・・。
最後の終わりかたが、気に入りました。
言葉をならべてもあらわせないことが、こんな小さな絵本で、すぅ〜っと納得できるように気持ちに入ってくる。絵本って、奥が深いんですね。
補足:
あひるのピンの本は、『あひるのピンのぼうけん』といって、瑞雲舎から出てるみたいです。 あひるのピンは中国が舞台だときいていたから、ピン少年から思い出したけど、でも、あひるのピンはピンとぶたれるから(?)ピンなんですって。
追記:
(参考:[217]『ベスとアンガス』を後日読む。)
グリーン・ノウ物語第3弾。
この話は、今までみたいに、おばあちゃんもトーリーもでてこない。シリーズなのにめずらしいなと思った。
幻想的なところは共通するけれど、いままで感じたような、どう言ったらいいのか、イギリスの片田舎ふうというような、田園風な幻想じゃなくて、もう少し原初的な感じを受けた。夏休みを川の冒険で過ごす、3人の子どもたち、アイダとオスカーとピン。その探検的なところに、そう感じられたのかも。
ピン少年は中国の難民だけど、アーモンドのような形の目、その絵はちょっとつりあがりすぎてない・・・?
羽のはえた馬のシーンは、とても美しかった。(「飛馬島」という文字は、あれは原書ではどうなっているんだろう。)かやねずみの場面も、とらえかたによったら、「夢でした」というようなことになるのだろうけれど、子どもたちには本当のこと。
水に自分の姿を映すところも、とても美しく不思議な感じ。
巨人は、木みたい。木とは書いてないみたいだけど、絵を見ると、木みたい。「エント」みたいだなあと思った。
1と2では、絵は、人物の顔や、子どもたちの姿をすぐ近くからは、そんなに多く描かれていなかったように思う。ピンの目が気になると言ったけど、おおきく表情が多くでてきてよけいに気になるのかもしれない。大きなかやねずみや、巨人の目なども、一種異様な感じというか。3人の姿が水にうつっている絵のような黒々とした感じもあるし、今までと違う印象を受けた。
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