ホーム >> ブック >> ブックリスト2 >> 読書感想 >> No.241〜250
「アンデルセン童話集」を何巻か読んで、途切れている。
久しぶりのアンデルセン。
他のところで書名をみて、読みたいと思いだしていたことと、ブログで挙げた記事の、「土曜親じかん 本好きの子どもにしたいけど…」で高野優さんが、挙げていた本。
あのカラフルな表紙の「絵のない絵本」はどこから出版されているものだろうなあ。ハードカバーの本だったように思うんだけど。
「絵のない絵本」は、いろんなところから出てますね。文庫本のもあるし、絵本みたいになっているのもあるのかな? 私の読んだのは、小さなハードカバーで、挿絵はいわさきちひろさん。
絵のない絵本てどんな話と思っていた。小さな、数ページの短篇が、並んでいる。月が、貧しい絵描きの青年に語る、お話という体裁。
月は、いろいろな時代、土地、人を見ている。つつましい、貧しい人の心をくみとる。それは、アンデルセンのまなざしのよう。
「第十六夜」のお話、ポリチネロ
(道化)の愛と悲しみは、アンデルセンの心があらわれているようだ。
朝一番に煙突をのぼりつめた、小僧さんの、すすでよごれた顔の得意げなこと。
砂漠の隊商の若い商人の、残してきた妻へ心を向ける美しい顔。
古い遺跡の劇場。
月はみんな見ています。ひとつひとつが絵のようです。
少しショックをうけて、でも、「第五夜」が、印象に残りました。『フランス王の玉座の上の貧しい少年』
。
それは、おばあさんが思い描いた姿とはかけ離れていたけれど。
「青ざめた浄化された顔」(p.30)
というのが、まるで月に照らされている情景でのようだった。
ブログで、「土曜親じかん 本好きの子どもにしたいけど…」の記事書きましたが、あの中で、視聴者のかたからの投稿みたいなのである人から、この絵本が挙げられていた。
この絵本の名前はきいたことあって、いつかはなー…と頭の片隅のほうにあったかも。よし、読もうと。
その投稿者の人の言葉の中に、「自己犠牲」
、という言い方をされていた。自己犠牲って…? かたあしだちょうというタイトルから想像されること。どんな話だろうと読んでみたら、(ありきたりな言い方だけど)感動です。
なんでエルフはこんなに強くやさしくなれたんだ?
だちょうのエルフは、すばらしい大きな若いだちょうです。エルフとは、アフリカの言葉で「千」
のことだそう。千メートルもひといきで走れるんです。
エルフは心もやさしい。他の動物の子どもたちを背中にのせてくれます。
エルフがみんなを守って怪我をして、片足になったとき、はじめのうちこそ、みんなはえさをくれたりしますが、
「 エルフは 日がたつに つれて、 なんとなく みんなから わすれられて いきました。」
「なんとなく」ですよ…。
みんなも自分の家族のことでせいいっぱい。だけど、あんまり悲しい…。
エルフは今ではもう、ろくにえさも食べられず、体はかさかさにひからびて、ハイエナにもねらわれています。立ったまま目をつぶることしかできません。エルフはひとつぶ涙をおとします。
さいごは、いいません。大きな愛がまってます。
あんなにつらい目にあってなお、自分のことを忘れてひとを助けることができたエルフの尊さが心にしみます。
番組の中で、また他の人が挙げていた本に『ないた赤おに』がありましたが、あちらは大泣きできる絵本、こちらも人の心の大切なというか、そういう部分に響く絵本だと思います。
(参考:[161]『ないた赤おに』(私の読んだ、いもとようこさんの絵のもの))
このあいだ、岩手民話の[243]『やまなしもぎ』を読み、西洋の民話とも共通する部分を感じました。
今度は、いつか読もうと思っていた、『大工と鬼六』。イギリスの、『トム・ティット・トット』に似ていると聞いていたから。
本当は、福音館書店の松居直さん、赤羽末吉さんの絵本を読もうと思ったんだけど、見当たらなかった。
あるところに川があり、流れがはやくて橋がかけられない。村人たちは、一番うまい大工に、橋をかけてもらうことにした。川から鬼があらわれて、めんたまをくれるなら、橋をかけてやろうと言うのだが…。
民話のパターンの3回の繰り返しもある。
「おにろく おにろく はーやく めんたま もってくれば ええのになあ」 (p.18)
詳しい内容は忘れたけれど、たしかに『トム・ティット・トット』に似ている。
(参考:[134]『トム・チット・トット』)
名前を当てたら、というのは、不思議な共通点ですね。
また、この間、『ゲド戦記』の放映を見てたこと、思い出した。あれにも、本当の名前って、いうようなことがでてきたですね。
マーガレット・ワイズ・ブラウンの絵本で、絵はレナード・ワイズガード。
ワイズガードって、綴りが、原書表記のところには「Weisgard」
とあったんだけど、表紙折り返しのところの作者の説明のところでは、「Wisegard」
って書かれていた。どちらが正しいのかな。
瀬田貞二さんは、[242]『絵本論』の中で、マーガレット・ワイズ・ブラウンと組んだ、ワイズガードの絵を、アイデアはいいけどどうしてだかすきではない、みたいに書かれていたようです。
こいぬのマフィンはみみがいいから、聞き逃す音なんかないんです。
「あめのふる、しずかなおとだって ききとれました。」
「なにもかも きいたことがある、と、 マフィンはおもっていました。」
でもそのマフィンにもきいたことがないものがあったのです。
うみに出たマフィン。
「ちいさなふなのりの おでましだね。」
と船長さんはむかえてくれました。
船のうえではいろんなことがおこります。
「でも、マフィンにそれが、きこえたかしら?」
と何度も何度も繰り返されます。
さいごに何が起こったでしょう? マフィンには、ついに聞こえたでしょうか?
久しぶりに、近刊にでた児童書を読む。これは、新聞で新刊案内かなにかで紹介に出ていたのを見た。「漂泊」「王」というのが印象に残り、読んでみたいと思った。
いざ開けてみると、アラビアのお話です。
キンダ王国の王子、ワリード・イブン・ホジュルは、姿も美しく、心も寛大で、気品があり、敵に対しては戦士となる。きわめて優れた王子でした。
あるとき、カスィーダ(長詩)
の才能にも優れた王子は、ウカーズで開かれるコンクールに出たいと王に申し出ます。ところが王の反対にあい、そこから、運命がくるいだします。
話はなかなか良かったです。コンクールとかファイルとか、訳が少し新しすぎる言葉があるような気がしましたが。
王子は最初、詩のことで頭がいっぱいでした。挫折し、苦悩、旅へと続く場面になると、詩のことはどこか行ってしまうような気がしました。でも、さいごでぴたりと、そのあたりが合っているような気がします。
カスィーダは、ナスィープ(恋愛詩)
、ラヒール(叙景詩)
、マディーフ(称賛詩)
で構成されます。愛する女性をうたうこと、砂漠の自然をうたうこと、人物を称賛する部分です。
審査員で偉大な詩人、アンナービガに、女性を愛する部分は王子がまだ若いから詩の欠点は見逃すことにするけれど、砂漠の場面はまるで現実のもののようではないと批判されたとき、王子が怒った理由はわかります。
「それはばかげている! 何十回も、遠征隊の指揮をとったし……」
(p.44)
本当にそうだったのです、王子は何度も砂漠に出ていたし、自分では砂漠を知っていると信じていました。不思議な絨毯を追う旅、王子の過ちを償う旅を経て自分自身を知るまでは。
「 ある夜、サイフのそばで星をながめながら、あまりの美しさを表現する詩を頭の中でつくっている自分におどろいた。老詩人アンナービガのことを思い出し、砂漠を愛することをおぼえた今なら、いい導入部をつくれるだろうかと自問して、思わず微笑を浮かべた。」
(p.143)
詩を主題にした物語ですし、またこの物語には、実際の古い詩から、みじかく言葉が抜粋されて挿入されています。
絵本[107]『シンドバッドの冒険』の後書きで、脇明子さんが、言葉の重要性について書いていたような気がします。身分の差があっても、言葉を扱う技に優れたものが大切にされるというような…。アラビアでは、言葉や詩が大切にされているのかなと思いました。
バージニア・リー・バートンの絵本といえば、これ、忘れちゃならないような気がして、読んでみました。
何も知らないとき、なんとなくタイトルを知っていただけの時、「いたずらきかんしゃ ちゅうちゅうちゅう」だと思ってました(汗)
(そのほうが語呂がいいじゃない?)
そして、なんとなくネズミがでてくるんだと。
違いました(笑)
CHOO CHOO、って機関車の音の擬音というか、そういうことらしい。 だって、そりゃ、いたずら機関車っていうんだもの。ねずみとは関係ないですね。
CHOO CHOO TRAIN とか言いますものね。ZOOもそうだし、ニール・セダカ(?)の歌でもあるかな。
英語圏の人にはシュッシュッポッポとかじゃなくて、CHOO CHOOって聞こえるのかな?
でもね、ちゅうちゅうが走るとき、訳はシュッシュッポッポじゃなくて、
「ちゅうちゅう しゅっしゅっ!」
なんです。
読んでると、ちゅうちゅうって走るような気がしてきます。
それはともかく、訳はむらおかはなこさん!
バートンといえば、石井桃子さんや瀬田貞二さんという感じがあったし、 村岡さんの訳といえば?というと、はずかしながらアンくらいしか思いつかなくて。 絵本も訳してらしたんですね。
この絵本は、最後のページの解説を読むと、バートンの最初の絵本だそうです。
[234]『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』は、次男マイケルのためだけど、こちらは機関車が好きな長男アリスのためだそう。
表紙内側のカラフルな絵を除けば、黒一色で、骨太な絵が迫力あります。木炭みたいな、太くざっくりと書かれた黒々した感じが、機関車のイメージとも合う。
ちゅうちゅうには、はっきりとじゃないけど、なんか目鼻みたいな感じにみえるものがあって、笑っているように見えるところもあるけど、最後のほうは泣いてる。
[216]『ヴァージニア・リー・バートン 『ちいさいおうち』の作者の素顔』で、この絵本のことだったろうか、確か、ジムのことを危機におちいったヒロインを救うヒーロー、みたいな表現をしていたところがあって、印象に残っている。(それとも『マイク・マリガンとスチーム・ショベル』のほうだったかな?)
確かに、心細かったちゅうちゅうを、ジムが向かえにきてくれたときを思えば、そう思えるかも。
それと、思ったのは、ちいさいおうちや、スチームショベルのメアリ・アンと同じように、ちゅうちゅうも女の子なのかな。
久しぶりに、ターシャさんのクラシック絵本です。この絵本はターシャさんの最初の作品。
「ハロウィーン」って、私はなじみがないけれど、一番初めに知ったのは、E.T.の映画ででしょうか。
シルヴィー・アンは、「かぼちゃちょうちん」
をつくるため、丘の畑に向かいます。
おじいちゃまはかぼちゃに目や鼻をくりぬいてくれます。
それは、ターシャさんが、子どもたちに小さな遊びや幸せ(手作りのものや、小さなカード)をいつもあげたり、心配りや時間をさいてたりしていたのを(TVの番組(「ターシャからの贈りもの 魔法の時間のつくり方」か、それとももう一つの方の番組だったか)で見ました)、思い出させてくれました。
「三人の兄弟や姉妹がでてきて、一人目、二人めは失敗し、三番目が成功したり悪者を退治する民話は、日本の民話にもある」ということを、以前にブログでラジオ深夜便 ないとエッセー 「語りで子どもの心を育てる」をきいて という記事で書いた。
そこで紹介されていた民話「やまなしとり」のお話の絵本があったので読んでみた。
『やまなしもぎ』というタイトルだった。
体の具合の良くないおかあさんが、やまなしを食べたいと言うので、兄弟がひとりずつ出かけていく。
不思議なおばあさんがでてきて、水を汲んでくれるように頼むが、上の二人は断る。
それでも、おばあさんは、「まっかみち」
(わかれた道のこと)で笹が風に
「ゆけっちゃ かさかさ」
となる方角へ行くよう教えてくれるのだが…。
岩手県の民話だそうです。
言葉は方言、絵ももちろん和風だけど、話は、こういうの、西洋にもあるのとそっくりですね。末っ子は特に軽んじられているわけでもなく、仲良いですけれど。
(参考:[181]『王子ヤンと風のおおかみ』、[168]『四人のきょうだい』)
ラジオできいたときも、少し言ってたと思うけど、「ゆけっちゃ かさかさ、」
「ゆくなっちゃ がさがさ、」(p.6)
とか、擬音、語りで聞いたら、臨場感があるでしょうね。
聞いてる立場だと、「そっちへ行っちゃダメ!」って気分になるのではないかと思います。
最後のしめの言葉は「どんどはらい。」(p.39)
ってありました。朝ドラで、「どんどはれ」ってあったけど、また少し言い方が違うんですね。
絵本など読みながら([231]『100まんびきのねこ』、[232]『ジャンヌ・ダルク』、[240]『おやすみなさい おつきさま』)この本のタイトル出していましたが、 こちら、やっと読みおえました。
分厚い本で、読み応えたっぷり。評論集、一つ一つの評論や文を集めたもので、一冊の本として一続きで書かれたものではありません。
思い出しながら書きますと、はじめの章は、子どもが絵本に出会うこと。良い絵本とは。 ディズニー絵本や中身のない絵本への批判。 個々の論文の集まりなので、そういう主題を集めたがために目に付くという点はあるが、 正直言って、瀬田さんは、いいところの人だな…という気持ちにもなる。 そんないい絵本を、たっぷりと読んでもらえなかった子どもはどうなるんだろう?
『日本一ノ画噺』。瀬田さんが幼い頃に出会った昔の優れた絵本。
大阪の国際児童文学館が閉館の危機にあるというニュースで、『日本一ノ画噺』の話が出ていた。
(参考サイト:「asahi.comのサイト(2008年4月26日)」より。
「大阪の児童文学館に廃止案 国内最多の70万点所蔵」
という記事。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200804260150.html)
「国会図書館にもない巌谷小波(いわや・さざなみ)の「日本一ノ画噺(えばなし)」(明治末〜大正初)35冊の全揃(そろ)い」
そこを読み、『日本一ノ画噺』って、『絵本論』に出ていた、と気づく。
その箇所を探してみると、大人になってから瀬田さんが見せてもらったのは、「鳥越信さんの書斎」(p.33)
であるとあった。
「四十歳をすぎて、私は蔵書家の友達の書庫でこの小型本にめぐりあったとき、記憶のなかの何ひとつそこなわれることなしに、手のひらにかくれるほどの小さな絵本は、もう一度鮮やかな印象をよみがえらせてくれました。そしていま大人の目で意地わるく見なおしても、半世紀以上経過してなお、りっぱにわかりやすく美しいのです。イギリスでしたら代々の古典として今日の出版に残されて生きるでしょうが、わが国での不遇が残念でなりません。」
(p.81)
国際児童文学館は鳥越さんが寄贈したのがはじまりで出来たそうです。『日本一ノ画噺』も鳥越さんが寄贈したものかまでは知りませんが、瀬田さんが絶賛したこの絵本が、全巻そろっている文学館が、廃止されるそうですね。廃止されたからといって、本までがなくなるわけではないけれど(移設される?)…。
ちょうど廃館のニュースのときに、この『日本一ノ画噺』について瀬田さんの絶賛の言葉を読んだものだからよけい、気になるゆくえです。
昔話の『三びきのくま』(参考書籍:[50]『3匹のくま』)について『絵本論』に載っていて、吉田新一さんの『イギリス児童文学論』(参考:『イギリス児童文学論』(評論の項へ)) との関連もあると、以下のサイトで知ったことから。
(参考サイト:歌代和正さんのサイト 「Perl5 デスクトップリファレンス監訳者あとがき」
のページ
http://www.srekcah.org/~utashiro/docs/perl5ref-3/atogaki.html)
ここを読み、いつか『絵本論』のその箇所を読みたいと思った。
「たくさんの熊」(p.147)
という論文。
『三びきのくま』を瀬田さんが、「すぐれた昔話だとおもってい」(p.147)
たこと。なのにハーバート・リードの『散文論』を読み、そこではサウジーの作となっていて、「シャッポをぬぎました」(p.147)
、とある。
ところが、サウジー作というのは本当は違い、サウジーの創作ではなくてやはり昔話なのであるということが、「注」(p.534)にでている。
この論文は「初出一覧」(p.543)
によると、1958年に『こどものとも』に載ったが、のちに、昔話であることを瀬田さんが知っていて編集部がそれを聞いていた。
吉田新一さんの『イギリス児童文学論』には、なぜ『三びきのくま』はサウジー創作という説があったかが書かれているのだが、瀬田さんが「たくさんの熊」を書いた時点では創作と書いていることの説明として、その部分がこちら『絵本論』の「注」(p.534)に引用されている(ややこしい)。
ジェイコブズが創作でなく昔話であることを解説しなおしたにもかかわらず、前の説が一般に通っていて、リードがその説を書いたのだという。
今回やっと『絵本論』を読むことができ、この箇所も実際に確認することができた。嬉しい。
(追記)
ブログの関連記事:TV「美の壷 レトロな絵本」(雑誌「コドモノクニ」や、初山滋さん、武井武雄さん、岡本帰一さんのこと)
ブーテ・ド・モンヴェルの[232]『ジャンヌ・ダルク』を読むとき、これも一緒に読んでみたいと思いました。
同時というわけにいかなかったし、モンヴェルのはもうだいぶ忘れてしまいましたが、同じ題材のを読めてよかったです。
ちょうど表紙になっている、ジャンヌが馬上で旗を持っている絵が好き。
モンヴェルのほうにもきれいだと思う絵があって、ジャンヌが馬で突進していくところだったと思う。こちらにも、同じような場面があって、スピード感がありますね。
アンジェラ・バレットの絵はとてもきれいだったので、他の絵本もみてみたい。
(New) ←以降(251〜260)へ 以前(231〜240)へ→ (Old)