ホーム >> ブック >> ブックリスト2 >> 読書感想 >> No.211〜220
図書館でみつけて、あれっと思った。 [216]『ヴァージニア・リー・バートン 『ちいさいおうち』の作者の素顔』を読んでいたとき、中に紹介されていた絵本だ。
そこでは、「とびきり速い犬スーナー」
というタイトルで紹介されていたと思う。
(原題は、「THE FAST SOONER HOUND」)。
バートンは、ボンタン(ボンターン)の「悲しい顔の少年」
だったかなあ、
そういうタイトルの本の、挿絵を描いて、また、この「とびきり速い犬スーナー」の絵を描いたけれど、「悲しい顔の少年」もたぶん訳されてないと思ったし、「とびきり速い犬スーナー」も、訳されていると思ってなかった。あったんだ。
『ヴァージニア・リー・バートン 『ちいさいおうち』の作者の素顔』の中では、バートンは、絵を描くスペースが少ないのに困って、もう人の作品に絵は描きたくないと言った、というようなことが描いてあった。(でも著者のバーバラ・エルマンはこの絵本の絵は褒めていた)
うーん、そういわれてみると、文章がかなり長いお話だ。
「ビュンビュン」
というのが、原文ではスーナーなんだろうか。
男の人は「ゴウゴウ」
だけど、原文はなんだっけ。
(『ヴァージニア・リー・バートン 『ちいさいおうち』の作者の素顔』の中で、書かれていたように思うのだが…。)
すると「ビュンビュン」じゃなくて「スーナー」でも良かったように感じるけど。
でもそれは、『ヴァージニア・リー・バートン 『ちいさいおうち』の作者の素顔』を読んだからそう思うんだろう。
またSOONから来ているのかな、と想像できる大人だから。 (でもsoonの「はやい」って、「早い」のほう? fast も「はやい」と思うけど FAST SOONER でどういう意味だろう。)
岩波書店は、『ちいさいおうち』日本語版50周年の記念で、 『ヴァージニア・リー・バートン 『ちいさいおうち』の作者の素顔』を訳して、 だからその関係で、これや、次に紹介する『はだかの王さま』も訳したのだろうか。 (だったら、ぜひ『ロビンフッドの歌』も翻訳出してー。)
イロン・ヴィークランドは、リンドグレーンの『ミオよわたしのミオ』はじめ、リンドグレーンの本の絵を描いている人だそうです。
表紙はじめ、全体的に青い色彩に満ちた絵本。
これは、ラーゲルレーヴがおばあさんから聞いたおはなしだそうです。
おばあちゃんが亡くなり、お話や歌をきかせてくれることが無くなった。
「 毎日のくらしの中から、なにかがなくなってしまいました。自由に出入りしていた、すばらしいまほうのせかいへ通じるとびらが、とざされてしまったようでした。そして、そのとびらをあけることができる人は、だれひとりいませんでした」
また不思議のとびらをあけたのは、ラーゲルレーヴだったのでしょうね。
『キリスト伝説集』をまとめるときにこの話を思い出して、ひとつの話とした、と、解説に書かれていましたが、『キリスト伝説集』の中にも、これが入っているのだろうか?
(ラーゲルレーヴの『キリスト伝説集』は前に読んだのではと思ったけど、違いました。 偕成社からでている『世界の家庭で読みつがれている クリスマス物語集』という中村妙子さん編訳(いろんな作者のアンソロジー?)のものでした。)
伝説集の中に入る分類とすると、ジャンル分けはどうしようかと思いましたけど、ここでは伝承の中に入れませんでした。 というのは、さっき言った本ですけど『クリスマス物語集』(ラーゲルレーブの話も入っているようですが、「聖なる夜」とちがいます)から、思うところがあったから。
私はクリスチャンだけど、教会でそういう話聞いたことないし…。例えば、『クリスマス物語集』の中であったと思う話の中に、イエスさまとユダは幼な友達だったり、イエスさまが泥の小鳥を本物に変えたりする話が入っていたように記憶している(記憶なので、他の本だったりするかもしれません)。 <クリスマス物語集>なら、「創作」でもわかるけど、<キリスト伝説集>、というのはどういうことか、このような話が、伝わっている話であるのかどうかわからなかったからです。
さて、このお話のことです。
羊飼いは、無愛想な人だったのです。悪い人ではないかもしれませんが、人にきびしく冷たい感じの人でした。でも、火を借りにきた男の人の、不思議さにひかれて、あとをついていきます。
その、「なぜだろう、ついていってみよう」とか、ある意味単純な理由や素直な反応というのが、大事だなと思いました。
特別にいい人でない人、そういう人に訪れる不思議さがある。 (木にのぼっていたザアカイとか。)
バートンの『ちいさいおうち』、読みました。こんなにちいさな絵本だったんだ。
[216]『ヴァージニア・リー・バートン 『ちいさいおうち』の作者の素顔』を読んだとき、バートンの絵本で最も完成度の高い、というように評されていたように思う。原著は1942年。いままでずっと読みつがれているし、名作なのですね。
笑っているようにみえる、ちいさいおうち。まどが壊れているところは、おびえているような、悲しい顔にみえます。
時の変遷と、町並みの変化の表現。
同じ場所の時の移り変わりを見る方法は、[208]『せいめいのれきし』でもありました。
楕円や曲線の繰り返しの絵の表現。まるい曲線の、田舎の丘の表現の中に走る直線の道路のことなどは、『ヴァージニア・リー・バートン 『ちいさいおうち』の作者の素顔』にも書かれていました。
喜んでいるおうちの絵は、なんだか気持ちがほっかほかになるような色合いですね。「ブランコの木」
がありましたよ。
(追記)
(参考:ブログの関連記事:「わが家のミカタ最終回―『ちいさいおうち』」)
アンガスのシリーズは[42]『アンガスとあひる』1冊しか読んでいないけど、福音館書店からでてて、訳は瀬田貞二さん。
シリーズの、新しいのがでてると新聞でみて、図書館で見つけ読んでみた。これは原著は1933年とあったけど、日本語訳ははじめて(?) 真新しい絵本で読めて嬉しいですね。今度の訳は、まさきるりこさんで、出版社はアリス館とありました。
絵本を見ていて気づいたんですけど、ふつう、絵本って、真ん中のひらいたところの絵はどうなっているんだろう?
これは、最初のほうを除いて、(真ん中にはちょうど絵がないようになっているけど)見開いた状態で一枚の絵になっている。一枚の絵だけど、例えば左にはアンガスとベス、右にはあひる、など、左右の対比やつながりを感じられるような。
でも最初の数枚は、左にひとつの場面の絵、右にも、というようになっている。
[202]『名馬キャリコ』、[208]『せいめいのれきし』の、バージニア・リー・バートンについて、こんな本があったので、読んでみました。「『ちいさいおうち』日本語版50年記念」
として、翻訳された本のようです。
とても読み応えのある本でした。バートンの素顔がかいまみれる、素描や写真、家族のこと、デザインの活動や、ほかの人の作品につけた絵についてなどなど、盛りだくさん。
バートンは、ダンスもできるし、家族への愛情や配慮も深く、知人たちとのパーティでも魅力あふれています。また、地域のデザインの活動、そしてもちろん、絵本へ傾ける情熱と粘り強い研究の努力。
どれをとっても、すばらしい人だという感じをうけます。最初は、ちょっとできすぎて、しんどいな…と思う向きも感じつつ読んでいました。 『せいめいのれきし』のラストでも感じたような、未来へ暖かな希望を見ることができる人…。
でも、バージニアにもいろいろあったのです。母との複雑な関係もあったし。
「息子アリスは、母ジニーを「近代女性の模範」と呼ぶ。バートンは二人のやんちゃな(彼の言葉だが)息子を育て,男性優位を信じる男性と結婚し,二つのキャリアを追求した。現在のように時間を節約するための家電製品もない1930年代後半から40年代初めに,しかも職業を持つ女性などほとんどいなかった時代に,である。彼女は,彼の言葉をかりれば「ただただ驚異的」だった。」
(p.122)
ふーむ。バージニアと結婚したジョージ・デメトリアスはギリシア移民で、やはり美術家なんですが、
「家父長意識の強いギリシア男で、妻が稼ぎ手になることに敏感に反応した」
(p.88)
とあります。
もちろん、二人はひかれあっていたんです。才能も認め合ってたでしょう。
(この本を読む限り、男性優位を信じる…などと書かれている箇所以外の文面を読んでいると、そうとは思えないほど、ジョージは理解ありそうだし、パーティもあるし家族も楽しくすばらしく思えました。)
けどバージニアも、ただ特別に恵まれた立場にいたというわけではなかったんですね…。それなのに、美術や、他の面、家族へのふるまいや人格でも、すばらしい魅力を発揮した。
この本のなかに載っている、「フォリーコーブ・デザイナーズ」
という、デザインの活動の中での作品でしょうか? 「時間たちのダンス」
という絵というか、リノリウム原版から刷られたもの?が好きです。踊り子たちの絵が連続して輪になり時計のようになっていたと思います。(思い出しながら。)
バージニアの絵って、どこか繰り返しの要素があるんですね。『ちいさいおうち』を挙げたところの説明に、楕円形が広がっていくことが書かれていました。ほんとにそうだ。楕円というか、まるい曲線が続いていく。『せいめいのれきし』でも木の枝とか、続き模様みたいな、そんな感じもしたかな、って思い出しています。
(参考:[218]『ちいさいおうち』を後日読む。)
そしてまた、「ブランコの木」
というモチーフは、いろいろな作品にあらわれているらしいです。
アン・マルコムソンという人の編の、『ロビンフッドの歌』。
古い歌の旋律などが載っている本だろうか? その本の絵をバージニアが描いている。これ、見たみたい!! とってもすばらしい絵。日本語版はでていないのかなあ。出してほしい!
『名馬キャリコ』。これは、漫画というものを意識し、研究した、少し実験的な作品として紹介されている。
でもわたしは、自分なりだが、興味あることをここで発見した。
悪漢の名前は、「すごみやスチンカー」。スチンカーとは「臭い奴」
という意味らしい。
以前、あれ?と思っていたのは、『指輪物語』でゴクリのことを、「Stinker」
ってサムが表現していますよね? あれ?似てる名前、って思っていました。瀬田さん訳ということもあるし。
そして今回、この本を読んで、このスチンカーは、(バートンの案ではスチンカーだったものの)
はじめは「スリンカー」
と言う名前で出版された(1941年)ということを知りました。(1950年に書き直した際に、スチンカーに戻して出版された。)
ということで、<スチンカー>は出版の事情とはいえ、<スリンカー>でもあったのです。
面白い。不思議な縁です。
だって、サムは「Slinker and Stinker」
でしたっけ?「「こそつき」に「くさいの」」
って言っていたんですよね。
(追記)
(参考:バートンの絵の[220]『ビュンビュンきしゃをぬく』を後日読む。)
(追記)
(参考:[305]『月刊MOE 2009年9月号』)を後日読む。)
[167]『おぞましいりゅう』、[174]『フリー フォール』のウィーズナーです。
『フリー フォール』とおなじく、字がない、絵だけの絵本です。
エンパイア・ステートビルに課外授業で訪れた少年が、霧につつまれ、他のみんなと離れてしまいます。そこに現れたのは…。
霧や雲の表現が、丁寧ですね。文章がなくても、話の筋がわかるような、独特なセンスがあります。
他の子どもたちに見られそうになるときのとぼけ方とか。雲もとぼけてます。 (海外の人もこういうようなとぼけかたするんだなー。まるで『ちりとてちん』の小草若のような(汗))
セクター7って、結局なんなんだろう。誰が運営しているんだろう。なんで空の上にいるのか。女の人の髪型がヘンテコだし、普通の人間じゃないんだろうか。追い出されるくらいですんでよかった…なんてことを考えてしまう。
セクター7というけれど、絵を見ると、「7SECTOR7」
と、7が前後にあるんだけど、どういう意味だろう。建物のからくり時計の像が面白い。
係の人の性格が、きっかり二つに分かれている。忍び込んだ男の子を責めるひとたちと、ちょっぴり面白がっているような表情をした、<いい人>たちと。
[178]『根っこのこどもたち 目をさます』のところで書いた、『ねっこぼっこ』です。
『根っこのこどもたち 目をさます』は、詳しくは忘れたけれど、文章は長かったと思う。
こちら『ねっこぼっこ』は、短くて、詩のような響きでつづられ、そして、[175]『森のおひめさま』のところで書いたようにように字が大きい(原著ではどうなっているかわからないけれど)。
でも、たぶん『森のおひめさま』で感じたほど字は大きくないと思う(思い出しながら書いている)。あのときは、くろぐろとした字にびっくりしたから。
それはともかく、『根っこのこどもたち 目をさます』は、オルファースではなく他の人の文章だった。オルファースが文を残しているのに、なぜ他の人が文を書いたのだろう。石井桃子さんの訳で出版されたとき、オルファースじゃなくて、そちらの人の方だったのはなぜだろう。
[178]『根っこのこどもたち 目をさます』のところを読み返し、そこで紹介した、「児童文学書評」のサイトをもう一度読んでみた。
あ、そうか、日本では福武書店から先に『ねっこぼっこ』が出ていたんだ*。フィッシュの文のほうは、アメリカで英訳出版されたもの、ということだ。それを邦訳したということだな。対し、『ねっこぼっこ』はオリジナル(ドイツ語?)からの訳ということらしい。
ヴァルター・シェルフ
という人の、「『ねっこぼっこ』とジビュレ・フォン・オルファース」
という解説がついていたのが、良かったです。
『根っこのこどもたち 目をさます』にも、オルファースが修道女ということなど、少し解説はついていたけれど。
この解説の中でひとつ、訳文の間違いか、誤植ではないかと思うところがあった。
「続く4枚目の絵は、かわいらしい、でも様式化されすぎてはいないユーゲント様式」
の、「続く4枚目の絵は」
、のところが、「続く4枚の絵は」ではないだろうか?
4枚目の絵は、もう解説されているし、ユーゲント様式の、草花の窓枠になった絵は4枚あるから。
クライドルフの名前が挙がっていた。
「オルファースがクライドルフ、あるいはテオバルト・ケルナーの影響をどのくらい受けたのか、詮索するのはあまり意味がありません。クライドルフの『花のメルヘン』は1898年に、『ねむる木々たち』は1901年に出版されていますが、オルファースも当のクライドルフも、おそらく新鮮な息吹を発するイギリスのいくつかの絵本から刺激を受けたのであろうと思われます。それらの絵本は多くの土地での展示会で見られたばかりではなく、ドイツの家庭においては原版のかたちで、私たちが考えるよりもずっと広まっていました。」
ケルナーというひとはしらなかった。クライドルフは、[76]『花のメルヘン』読みました。『ねむる木々たち』というのもあるんだな。
*(参考:[226]『ねっこぼっこ』生野幸吉訳を後日読む。)
[203]『お父さんのラッパばなし』の中に入っていたお話、だったように思う。その時は、堀内誠一さんの絵だった。このお話が、絵本になってて、寺島龍一さんの絵だと知って、読んでみたく思った。
「いんぱらを まて」(p.13)
という言葉のひびきが好きです。
その前の、「けものを けす。どじんを にがせ。」
というのの、「どじんを…」
というのが、なじめないけれど…。
というのは、どじんという言葉を使っていることもそうだけれど、
「さはり」
が「どじん」
をつれて、村に来て、タンボをやとったということなので、タンボはさはりの人たちとは違うところの出身だから、その人たちを逃がすということで、彼らを逃がす、ということを言っているんだろうけど、いわば、自分たちの仲間の側の人たちですよね?
だから、なぜ、(<なかま>、はともかく、)<かれら>とか、<さはりのおとも>、とか、そういう言い方じゃなくて、どじん、と呼ぶのだろうな? とふしぎに思いました。
この絵本の最大のメッセージは、やはりこれかな。
「じゅうを てばなせ。
けものに まじれ。
いのちの みずを のんで、
いのちに めをさませ」
(p.22)
でも、ボンポンの言ったこの言葉もいいですね。大切なことに、気づいたら、案外素直なボンポン。
「ああ、みごとだ。うつくしいなあ。いのちの あるものは、いきて、うごいて、ちからづよい。どれ、わたしも みずを のみに いこう」
(p.25)
わたしものみにいこう、というのがいいじゃありませんか。
オレンジ色の紙に黒い線の絵は、最初みたときは苦手だと思った。
ページをめくり、トナカイやサンタクロース、「3にんのはかせたち」
の絵になったときははっとして、きれいだなと思いました。
ツリーは、ツリーの木の形がぜんぜんなくて、飾りやきらめきの表現でツリーが表されているのが独特です。
「みんな わかっていたのです。
でも だまっていたのです。
みうごきもしなかったのです。」
わかっていたのです、というのがいい。
これって、プレゼントの中身がわかったとかそういうことじゃなくて(?) クリスマスイブの、秘密というか神秘というか、心の中でもうすでにわかっている、みたいな…うまくいえないけれど、そういう感じに思った。
歌を歌っているのは大人たち。でも、最初読んだとき、もっと不思議な声、天からの歌ごえが聞こえるのだろうか、そんなふうにおもってどきどきしたので、大人たちとわかったときは、ちょっとがっかりしたけど…。
大人たちにだまって夜起きだした、でもそれは、わくわくする冒険、というより、もっと静かなものを感じました。
再読です。クリスマスの絵本ですが、アップするのが少しおくれました。
(参考:以前読んだときの感想)
思い出しながらの感想です。
「北極柱」
、というのはなに? という疑問は最初に読んだときもありました。つまり、北極というのの英語は「ノースポール」なんですよね? そこから、言葉あそびのような感じ、でしょうか。トールキン独特のセンス?
余談ですけど、「リトル・ポーラーベア」とかいう絵本、ありましたよね。かわいいこぐまの。なんでポーラーなのかと思ってたけど、北極(極)が「ポール」なんですね。八神純子さんの歌は「ポーラースター」。北極星のこと?(冬のソナタのアクセサリーは、「ポラリス」でしたね) ちなみに、ノースポールという花(参考:ブログより、写真)、ありますね。
話を戻して、絵本のこと。
日本語の活字になっている訳をおもに読んでいた。でも手紙の文面みてたら、例えば「FC」だっけ?というのは「ファーザー・クリスマス」の略のサインかな、とか。「NPB」っていうのは「ノース・ポーラーベア」、なのかな?(推測です)
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